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合田雄一郎がレディ・ジョーカー事件を追い、犯人の一味である半田に刺されたのが95年11月7日。
太陽を曳く馬で、「3年連絡を取っていない」と明かされたのが2001年9月11日。

95年の末に退院してきてから、98年までの間には、合田と加納との間には、何らかの接点はあり続けた。これだけは事実だと思います。ただ、それがファンが期待するような甘い時間だったのか、それとも苦悶の時間だったのか、はたまたこれまでどおりなんとなく行き来する淡白な時間だったのか。

それは読者の数だけストーリーがあるとも思います。

私は、合田と加納はある時期、友情を越えた深い付き合いはあった、と思います。文庫でも削除されなかった「クリスマスイブは空いてるか」を最大限甘く幸せな方向へ受け止めたい。「酒でも飲んだんじゃないですか」という高村さんの某発言を汲み取りつつも・・・。

レディ・ジョーカーから判事への転身までわずか3年しか2人に許される時間がないのなら、彼らに幸せで濃密な時間を過ごして欲しい。

そんな思いをこめて作った短編集です。

何分小説なぞ書いたこともないど素人です。
行間を読めるほど頭が回らないから高村作品の理解も平板。
そして読者の数だけストーリーは存在する。
なので共感できない部分も多々あるかと思いますが、私なりに、加納に味わってほしい幸福な時間を作りました。

高村さんの著作で加納は一切心理描写、加納視点がありませんので、すべて合田視点となっています。検事、刑事のお仕事がどんなものか知りませんし調べるつもりもないので、あくまで2人の私生活場面のみ、つまりは2人きりの世界です。また、私は神戸っ子なので合田が本来使うであろう大阪弁とは若干異なることはご容赦ください。

なお、各話のタイトルは、内容と無関係です。加納に似合いそうな文字列を浮かぶまま付けただけですので深く追求しないでください。

*エロはありません、あしからず。

◆無垢 1 2 ('95年クリスマスイブの話)

◆恬淡 1 2 (クリスマスイブの続き)

◆情熱 1 2 (さらに続き)

悠然(さらに続き)

◆純真 1 2(さらに続き) 

◆春陽 1 2 3(ラスト) 

◆至福 1 2 3 番外編

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至福(3)

 互いの間を、確かな愛情が結び付けている。そう思えたのはわずかな期間だった。何の前触れもなく、突如加納が判事に転身し、大阪へ旅立ってしまったときの絶望感。そこで味わった貴代子という女の死を経て、また少しずつ、本当に少しずつ、心の距離を詰めていった数年間。そしてようやくの加納の帰京が今年の春のことだった。戻ってきたことも知らせず、ある日、ふいに合田宅を訪れ、「まだこの鍵、使えるところにいるんだな」と微笑んだその顔を、合田は一生忘れまい。
 自分になんの相談もなく、判事になったばかりか、黙って大阪まで行ってしまった男への、今さらうらみつらみもなかった。むしろ、そこまで精神の破綻に向かっていたことに気づかなかった己の鈍感さを悔やんでも悔やみきれない。しかし、東京で再会した加納の微笑は、そんな後悔も瞬時に払い飛ばした。
「あんたは、ここへ帰ってくるんやな」と合田も微笑んだ。
「お前が、俺の家。戻る場所なんだろう?」
 もう何年前に言ったか当人すら忘れているようなことを加納は言う。
「東京へ、異動か?」
 逸る気持ちを抑えて、できるだけ冷静に訊く合田だった。
「ああ。4月からは東京高等裁判所」
「立派になったもんやなあ」
「茶化すな、馬鹿」と言うが早いか、合田の脇腹に肘鉄を一発。
 加納と合田は甘い恋人期間とやらを、ほとんど味わわないまま年月がすぎ、中年に差しかかる頃、ようやく東京でのんびり逢瀬がかなうことになったのだ。
 以来、加納もそうだったが、合田の方がずいぶん熱心に<恋人>を味わおうとひたむきだ。だからこんな風にじゃれつくし、甘える。そんな合田をますますかわいいと思える病気(重症です)な加納もまた、存分に甘やかしてやる。
 新しい枕で身を寄せ合い、目を閉じる加納の頬に、合田はそっと上半身を浮かせて、軽いキスを送った。それでも加納はとりたててその手や唇を振り払おうとはしない。静かに受け止めている。もてあました合田の手は、不埒にも加納の首筋から腰や尻を撫で回した。
「雄一郎。何をするつもりだ」
「いやらしいこと」と応えた合田の目には不適に挑戦的な色。
「馬鹿」と一蹴して加納は立ち上がった。
「祐介?」と声が追いかけてきたが、一向構わない。
 しばらくすると、洗濯の山を抱えて出てきた。「素晴らしい洗濯日和だ」と空を見上げた加納の手によって1枚1枚、パンッと勢いよくはたかれ、ハンガーにかけられていくシャツ。シーツ。
洗濯物を干し終えた加納は「これで夕飯まではのんびりだ」と言って、新しい枕でなく、畳に寝そべる合田の腰に頭を下ろした。
 合田はばさりと新聞を畳み、枕に頭を預けた。
 人の重みが、こんなにも心地よく愛しいものだと知ったのは、この男のおかげだ、と腰にかかる重みを存分に味わった。
「お前もそろそろ眼鏡、作ればいいのに」と腰に乗る頭がかすかに笑って揺れた。
 眼鏡、それは中年の必須アイテム老眼鏡。
 加納は「ピントを合わすのに零コンマ何秒、適度な距離を測るのに2秒がうんたらかんたら」と理屈をこねまわした挙句、先日眼鏡を作った。合田は管理職になって書類やPCに向かう時間が長くなったとはいえ、まだ必要を感じていない。
 理屈をこねまわすのも、合田にやたらと購入を勧めるのも、要は「まだ、認めたくないんだろうな」と加納の若さへの足掻きがおかしく、また人間らしくて愛らしいと思う合田である(この人もやっぱり重症でした)。
 
 老眼鏡の話に触れたせいか、合田が気まぐれに「お前は退職したらどうするん?」などと言い出した。
「老後の心配か」と腰に乗っかる頭は軽く笑った。
「美貌の元検事、市民法律講座。公民館で主婦を集めて。大盛況間違いなし」
 珍しく加納が噴出すほど大笑いした。
「退職後まで、法律で飯を食いたくないな」と応じる口調はあくまで冗談に応じて軽いものだが、真剣さが含まれていた。弁護士という道を選ばなかった加納にとって、法は市民の味方というよりも裁きの手続きにすぎないのかもしれない。法を崇高に捉えているがために、老後の暇つぶしで飯の種にしたくないのかもしれない。
「そういうお前は、野生の元刑事、町の平和を守りますってパトロールでもするか?人気者間違いなしだ」
 今度は合田が大笑いする番。
「おじいちゃんの、ただの散歩やな」と合田が応じれば、それにまた加納が笑う。
「そうや!」と合田がふいに頭を浮かせたため、合田の腰に乗っていた加納の頭も少しずれた。
「あ、すまん」と言われて「いや」と応えながら、懲りずに加納は腰に頭を据え直す。
「美貌の元検事の書道教室はどうや。お前、字綺麗やし、人にものを教えるのもうまい」
 またも加納は大笑いした。
「その、美貌の元検事ってのは、果たして書道に必要だろうか」
「人間てのは、肩書きに弱いもんや。元検事っていうだけで集客倍。美貌がつけばさらに倍」
 どこのやりてジジイだ。
「よし。じゃあお前は硬筆担当だな。お手本みたいな綺麗な楷書を書くものな。野生の元刑事のペン字講座もおまけで集客さらに倍だ。授業料は多少ふっかけるか」
「野生の元刑事ってのは要るんか」
「考えてみろ、爺さん2人が、どこからともなく一緒にやってきて、お習字を教えて、またどこへともなく2人で帰っていくんだ。教室の中でも時折目で会話したりしてな。俺たちの書道教室は腐女子で満員御礼だ」
 合田は笑っていいのか泣くべきか、悩んだ。
 が、ふと気づいた。
「どこからともなく一緒にやってきて、またどこへともなく2人で帰っていく」
 加納は何気なく口にしたのだろうが、そこには、驚くほど明快に2人一緒の将来が、描かれていた。
 現在のように、それぞれに自宅を構え、それぞれの日常を持ちながら、たまに会う。そんな将来ではなく、いつも一緒の将来。常に隣に寄り添っている将来。
 公安の目も、好奇の目も離れていく老後には、確かにそんな将来があってもいい。
「なあ祐介」と語りかけた合田の声は、果てしなく優しい。
「退職したら、のんびりするか」
「そうだな。毎朝散歩して。読書して。おいしいお茶を飲んで。うまい飯を食って」
「たまには、山も登ろう」
「こうやって、くだらないことを言って笑いあうんだ」
「ええな」
 涙がこみあげるほど、穏やかで満ち足りた将来が、2人の目の奥に鮮やかに描かれた。
 柔らかな日差しを浴びながら、しばし日ごろの喧騒を忘れて夢を見た。
 そしてまた、この瞬間こそが、幸福そのものだった。

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至福(2)

 使った用具を空のバケツに放り込んでおいて、手を洗って台所へ行くと、加納は磨き上げたテーブルにカップを並べ、ポットから紅茶を注いでいた。
 加納は休日にコーヒーを飲まない。紅茶を好む。そのため、いつのまにか合田の自宅に紅茶用のカップとポットが揃い、休日が重なったときなどは合田も淹れてらっていた。温めたカップに注がれる紅茶から溢れる甘い香りはアールグレイらしい。ほとんどはストレートをすっきりと飲むのが好きなようだが、まれにアッサムでミルクティーを味わっていたりして、加納の趣味は合田にはよくわからない。ただ、徹夜が続いた後などは、ミルクティーがほっとするのはなんとなく理解できる。時折、合田など名前も知らないような茶葉を買ってくることがあるが、続いた試しはない。「深く追求しないのが精精さ」とよくわからないことを言って当人は気に留めない。茶葉にも茶器にも金をかけないのもまた、加納らしい。
 淹れたての湯気が立ち上る紅茶をひとくち静かに飲み込むと、「これで、気持ちよく新年を迎えられる」と加納は実にゆったりと微笑んだ。
 合田は見入った。何年経っても衰えるどころか、ますます魅力的な加納の微笑み。目元の柔らかさはいよいよ増し、完成に近づくロマンスグレーもどきの髪と相俟って、紳士的でありながらたまらなく柔和で優しい。内に秘める硬い意思はそこには到底見えない。
「祐介の紅茶は、ほんまにうまい」と合田も微笑んだ。
「天気もいいし、散歩がてら買い物に出ないか」と加納に誘われ、一緒に出かけた。
「晩御飯、何?」と無邪気に問う合田は、長年加納に世話をされてきた受動性が顕著だが、そんな合田すら愛しい、と感じる加納の愛情はもはや病気の域だろう。一生不治だ。
「鍋」とだけそっけない返事を寄越す加納の横顔をちらりと合田は見、「豆腐、いっぱいな」とまたも無邪気にリクエスト。
 加納はしかし、食品売り場でなく日用品や寝具の階へ上がり、おもむろに枕を選びだした。
「なんで、枕?」
 合田は素朴な疑問を口にした。
「だいぶくたびれてきたから。良質な睡眠に枕は大事だ」とひとつひとつ、念入りに確かめている。じっくり時間をかけて2つの枕に決めると、次が食品コーナーだった。鍋と宣言したとおり、葱や白菜、きのこ類を次々カゴに放り込み「豆腐、どれくらい食うつもりだ」と立ち止まって合田に問う。合田はちょっと考えて、3丁の焼き豆腐をカゴに入れた。それを見て加納はかすかに笑った。練り物や魚介、肉もカゴに入れると、おもむろに酒のコーナーへ足を進め、珍しく日本酒を選ぶ加納の目は真剣そのものだった。
「熱燗は鼻にむっとくるのが苦手だ。大吟醸を冷でいいか?」と一応合田の了承を得ようとはしているが、そこに合田が異を唱える余地は、実はない。判事として大阪にいた頃、同僚にめっぽう日本酒に強い男がいて、おかげで加納は大阪を出る頃には、すっかり日本酒通になっていた。とはいえ、今でも自宅ですするのはもっぱらウイスキーなのだが。その加納が数年を経て再び東京へ戻ったことで、合田もまた、日本酒のお相伴に預かる機会が増えた。
 夕飯までごろごろしてろ、と加納に言われて、合田は早速買ったばかりの枕を取り出し、畳に寝そべって新聞を開いた。
「祐介。めっちゃ気持ちいいぞ、これ。お前も早くここへ来い」と合田は誘ってみたが、加納は「もうちょっと」と言って玄関を掃除している。それが終わったらしい加納は、寝そべる合田を跨ぎ、ベッドからシーツ類を剥ぎ取ると、再び合田を跨いで洗面所へ消える。もどってきて三度合田を跨ぐと、ベランダに裸にした布団を干し、ベッドのマットレスも起こして壁にもたせかけ、風を通している。
「おい、人を跨ぐと背が伸びないからあかんて、教わらなかったか」
 気安く人を跨いで通る加納に、合田がちょっと皮肉を言う。
「まだ大きくなる気か」と加納は軽やかに笑う。
 合田は新しい枕に頭を預けたままぼんやりと「つくづくまめな男やなあ」とその様子を眺めている。
「洗濯が終わるまで小休憩だ」と加納が合田の傍らに胡坐を組んだとき、合田はもうひとつの枕をぽんぽんと手で叩いて加納を招いた。加納は柔らかく微笑んで、そこへ身を横たえた。すると合田は枕ごと、加納にくっつきそうなほど身を寄せてきた。加納は合田の短い髪をくしゃっと掻き回してから、そっと肩を抱き寄せた。
 中年の男同士がじゃれあうこんな姿、他人にはさぞ不気味に映ることだろう。しかし、合田にはもう、照れも羞恥もなかった(この人も病気です)。

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至福(1)

 12月某日。
 暖冬と言われて久しいが、この日も例に漏れず冬にしては随分暖かな日だった。先月木枯らし1号が吹いてしばらくは冬らしい刺すような空気を感じ、合田も真冬のコートを羽織ったものだが、ここ数日は不要だった。
 年末の大掃除として、この日は風呂場や洗面台、トイレといった水周りを磨き上げるのが合田の役割になっていた。潔癖な加納が割り当てたもので、当然合田の志願ではない。
「いつまで寝てるつもりだ」
 窓から射す柔らかな日の温もりを頬に感じながら惰眠を貪っていた合田のわき腹に、容赦のない蹴りが入った。
 目を開けると、加納は右手に雑巾、左手に洗剤ボトルの姿。
「似合うな」と言って合田はおかしそうに目を細めた。頭に姉さんかぶりの手ぬぐいが乗っていれば完璧。
「起こすのはもう3度目。これで起きなかったら、お前の顔を雑巾で拭いてやる」
 かなり本気で苛立っていると感じて、合田は慌てて起きた。
「何時?」
 のんびりと間延びした声で問う合田に対し、加納の声はきりりと「10時すぎ」と応える。続けて「昼までには終わらせる約束だろう」と言い残して加納はさっさと台所へ戻った。加納の分担は台所と玄関。
 シンクはすでに鏡のように磨き上げられており、加納は踏み台を使って棚や壁をせっせと拭きまわっているようだ。さほど家にいる時間もなく、禁煙して随分経っていることもあって大して汚れてなそうに思うのだが、意外なほど、加納がすでに拭き終わった部分とそうでない部分とはツートンになっている。
 洗面台でうがいだけして、合田も風呂磨きに取り掛かった。風呂場にきっちりバケツと洗剤、スポンジといった掃除道具が用意されていてつい苦笑が漏れる。幸い、日ごろからまめに掃除してあるからカビはない。水垢もほとんどない。といっても、これも結局、加納のまめさに拠るところが大きいのは合田に否定できない。
 合田が換気扇や扉、天井に壁と拭けそうなところは思いつく限り拭き終えてトイレに取り掛かった頃、加納は真剣な目で台所の換気扇を取り付けていた。どうやら台所の掃除は終盤戦の模様。
 トイレと洗面台も終えて、なるほど、加納が大掃除にこだわったとおり、普段より1段明るく感じて気持ちがいい、と合田が自分の分担箇所を満悦して見直していたとき、台所から「もうすぐお茶が入るぞ」と声がかかった。この抜群の呼吸。今こうしてともに年の瀬の慌しさを過ごすのが加納であることに、今更ながら喜びと幸福で全身が震えるのを合田は受け止めた。

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春陽(3)

 少し遅れて加納も食べ終えると、合田は食器を集めて立ち上がり、洗い場で水を使い始めた。
「雄一郎?洗い物くらい俺が」
「いい正月にしてくれた。せめてもの礼やと思ってくれ」
 そう言うと一旦水を止め、合田はゆっくりと振り返った。
「はよ着替えろ。ほんまは気になるんやろう?お前は誰よりも、第一線で捜査に携わるべきや」
「雄一郎」
「俺はどこへも行かへん。一段落したらまた会える。違うか?」
「その一段落が、いつになるやら」
「俺もまもなく一線に戻る。忙しいのはお互い様や。これまでだって、半年も会わんかったこともあるし、祐介が地方に飛ばされてた頃を考えてみろ。すぐ会える、すぐや」
「ここに、たとえ1時間でも長く、と願うのは」
「愚か者やな」
 ハッハと合田は声を上げて笑った。
「恋する者は、皆愚か者だろうか」
 本当にわからない、という戸惑いの表情で加納は問いかけた。
「そうやな。誰でもそうやろうけど、祐介は、何しろ免疫がないからなあ」
 またも合田は声を上げて笑った。
 そういう合田だって、今が本当の意味で初めての恋なのだ。貴代子も、結局は心から愛してなかったし、その後の女たちも、惚れたような思い違いをしてしまっただけで、結局合田はただの通りすがりの男でしかなかった。
「着替えてくる」と加納は隣室へ姿を消した。「ネクタイを拝借する」と声がかかって「どうぞお好きに」と応えると、合田にはたまらないおかしさが腹の底から溢れた。さすがに歯ブラシは別々だが、風呂で使う道具から剃刀からパジャマ、ネクタイ、下着、靴下まで共用し、整髪料を使わぬ合田の家に自分用の整髪料をちゃっかり置いているお前は一体何者だ、と。お前、いつからそんなに当たり前の顔して俺の生活にもぐりこんでたんだ。気付かずにのんきに受け入れていた俺は相当に阿呆だ。
 ぱりっと身なりを整え、スーツ姿でコートを肘にひっかけて加納が再びキッチンに現れたとき、隣室の窓から差す逆光の演出が、加納をこの世のものでない高尚な姿に映した。加納自身が発する温かなまばゆさに、思わず合田は息を飲んだ。
「どうした」
 とゆったりと笑う加納は、自分の美貌の放つ煌きをあまりにもわかってなさすぎる。
「綺麗やな、と思った」
 合田は馬鹿がつくほど正直だった。
「雄一郎。お前、どうかしてるぞ」
 加納のそれは明らかに、呆れた口調だった。
 加納は夕べから置きっぱなしの鞄を持ち上げて椅子に置き、携帯電話をしまいつつ、何かを取り出した。
「雄一郎、お年玉だ」
「ええ?」
 合田の驚き具合が嬉しかったのか、加納はおかしそうに小さく笑った。
「クリスマスプレゼントをもらったからな。お返しだ」
 一見無地に見えるほど繊細に織り込まれたグレンチェックの、渋いマフラーだった。いかにも加納が選びそうな、メイドインイタリーの高級カシミア。
「お守りだと思って巻いてろ」
「それはいいな。祐介が付いててくれるなら、最強や」
「どの口が言うか」
 今度こそ呆れた、と言わんばかりの加納の投げやりな言葉だった。
「大変な時やろう。体だけは大事にせえよ」
「ありがとう。お前こそ」
「わかってる」
 洗い物途中のだらしなく部屋着の男と、すっきりとした身なりの男がしばし見つめ合った。
 加納はなんとも優しい透き通る目で合田を見つめた。
 すっと手が伸びてきて、合田の頭をぽんぽんと軽くはたいた。
「じゃ、行ってくるよ。俺のかわいい恋人」
 合田は、身を翻した加納を追いかける言葉が見つからなかった。
 「やもめ」という言葉に怒った合田への、甘い報復だった。
 
 不安に苛まれているだろうと思っていた加納は、クリスマスイブの夜、飄々と合田の下へ戻ってきた。
 互いの好意を認識しても何も踏み出せない合田へ、突然口付けて驚かせ、歓喜に震わせた。
 特別な存在なのだと思い切り感じたい合田に、甘い囁きで言葉に表してくれた。
 きっと、俺などが計り知れないほどの葛藤を幾多も乗り越えてきたのだろう。表面に決して出さず、ためらいも感じさせず、軽く飛び越えてみせるお前のハードルは、とても高いところにあるに違いない。
 いつだって、お前は俺の先を行くんだな。
 でもな、祐介。
 これからは、お前がひとり彷徨っていた暗い森で、ともに道を切り拓こう。
 堂々と肩を並べて、歩こう。
 合田は加納が残した整髪料の微かな香りの余韻の中で、暗い森に差す春の光を感じ、幸せをかみ締めた。

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春陽(1)

 正月返上で仕事のはずだが、何時に登庁予定なのだろう。
 いつまで寝かせておいてよいものかと、先に目覚めた合田は加納の穏やかな寝顔を眺めていた。やつれた、というのではないが、少し痩せたという印象は免れない。イブの夜にも感じたことだ。だが、顔色は悪くない。いやに白いのはこのところ山登りはおろか、ろくに外へ出ていないからだろう。上司との付き合いゴルフはどうなった?
 それにしても。美しい白磁の肌の質感は、つい唇を寄せたくなるほどだ。知性的にきっと上がり気味の眉、対照的にいかにも温厚そうに柔らかな目元は今は閉じられているが、長いまつげがパサリと音を立てそうな存在感。すっと伸びた鼻筋、ふっくらした唇はほんのり赤みがあって艶かしい。普段は若々しい美貌だが、うっすらと産毛のようなやわらかで細い無精ひげが伸び始めた様子が、年相応にようやく見えるか、というところだ。
 知らず、もう一度視線は唇を追い、夕べ、一度は加納からしかけられ、二度目は自分からしかけた口づけを思い出し、合田は年甲斐もなくちょっと照れた。
 加納が寝返りを打った。どうやら、窓から射す光を避けて窓に背を向けたかったらしい。もう10時近いから、強い日が射すのだ。
 こんな時刻まで加納が惰眠を貪るのは珍しい。ふらりと合田の家を訪れて、翌朝にはふらりといなくなる、ここ数年の加納は、いつも合田よりも早く起きて身繕いをすませ、ちゃっかり朝のコーヒーをすすっていたのだ。
 それだけ、疲れてるんだろう。俺の前では、ええ。存分に寝ろ。
 そうは思うが、場合によっては強制捜査に踏み切るだろうと推測をつけている合田としては、起こさねば後で叱られるやも、と考えてしまう。
 合田が答えを出せずに一人悩んでいると、キッチンに置きっぱなしの加納の鞄の中で携帯電話が鳴り出した。
「おい、電話。祐介、電話やで」
 合田はそっと加納の肩を揺らした。
「取ってきて」
 と甘えたことをぬかす加納はまだ目も開けない。
 仕方なく合田は立ち上がってキッチンから加納の携帯電話を枕元まで持ってきてやった。
 やっと目を開けた加納は合田の手からそれを受け取り、ものぐさにも横になったまま、「はい、加納です」と電話に出た。
「はい、はい。それは昨夜のうちに用意しておきました。キャビネットの中に。鍵は事務官が。はい。了解。お疲れ様です」
 布団の中で目を閉じたままのくせに、いやにはきはきと事務的に応対する加納の姿に噴出すのをこらえるのが精一杯で、合田は意味もなく窓の外へ視線を移したりだった。
 電話を終えるとまた加納はふとんを目元までかぶってしまった。
「ええんか、行かなくて」
「15時集合。まだ大丈夫だ」
 随分遅いが、集合時刻を決定しているということは、「やはり強制捜査に踏み切る」と直感した。
「準備とか、あるやろう」
「済ませてきた。昨日は俺だけ居残り。その分今日は少しサボらせて頂く」
 と言っても、はっきりした口調からすると、加納はもう完全に目覚めていた。ただ横になって目をつぶって体を休めているだけにすぎない。居残りといっても、日付が変わる直前にはここへ帰ってきたのだから、連日深夜もしくは泊り込みで捜査に関わってきたことからすると、早すぎる帰宅時刻だ。おそらく、コーヒーも飲まず、飯も食わず、最大限の集中力を発揮して猛烈な勢いで仕事を片付けたに違いない。
 俺に会うために。
 合田はついほころびそうになる口もとを、手でさすってごまかしてみた。
 電話を渡した合田はそのまま加納の枕元にあぐらをかいて腰を落ち着けていたが、布団の中からほっそりした手が伸びてきて、合田の膝をすっと優しくひと撫でした。
「お前がいる」
「ああ」
「間違いなく雄一郎が、俺のそばに、いる」
「ああ」
「・・・たまらないな」
 クリスマスイブのあの日、飄々といつもどおりの風情で合田の懐へ戻ってきた加納だが、絶望から這い上がった喜びを今なおかみしみているらしい。
「祐介が、いる」
 と今度は合田が加納の額をひとなでした。
「ああ」
「俺のそばで、安心して眠る祐介がおる」
「ああ」
「・・・幸せや」
 はっとしたように加納は顔を上げて合田を見た。少し頬を赤らめているあたり、合田の「幸せや」が相当嬉しかったか。さすが純粋培養、免疫がない。
 合田は加納の髪をくしゃっとまぜ、「そろそろ起きろ」と自分も立ち上がった。
 加納は布団からごそごそと這い出しながら、すっきりした声で「雑煮を作ってやるよ。餅、買ってきた」と言った。
「へえ、関東風の雑煮か。雑煮なんて、何年も食ってない」
 合田は無邪気な笑顔を弾けさせた。
 「何年も」とはいつからのことか。貴代子が雑煮を作らなかったのか。それとも刑事稼業が忙しく元日もへったくれもなかったか。離婚以来数年という意味なのか。言葉を発した合田自身あいまいな「何年」だった。
 当然、今ここで自分が憂うことでも、問うべきことでもないと割り切っているのか、加納もその言葉を深く探る様子はなかった。
 加納が洗面と髭剃りを済ませてさっぱりした顔でキッチンに立つと、ごく当たり前の風情で合田はテーブルに着いて、すでに「出来上がるのを待つ役」に徹していた。料理を作ってやるなどと薄気味悪いことを言い出さない合田らしい姿を認めて、加納の顔には微苦笑が浮かび、それを見て合田も照れ笑いを浮かべ、という馬鹿馬鹿しい朝の風景だった。

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純真(2)

「もう寝よう、お前、殆ど寝てないんやろう」と合田が声をかけると、加納は物憂そうに「もうしばらく。おそらく、当分会えないから」などと随分かわいらしいことをのたもうた。
 ふと合田が食卓に目を戻すと、卵焼きはあらかた食い尽くされてはいたが、あと2口ほど、残っていた。後始末をするつもりで合田がその皿へ箸を伸ばしかけると、まどろむように合田を見つめていた加納が「あっ」と声を上げた。
「何?」
「いや、まだ食うつもりで残してたんだ、それ」
「ええやん、お前、ぺろっと殆ど食ったぞ」
 合田は迷わず一口、食った。まさか、と思いながら、残りの二口目も食った。
 しょっぱい。塩が効きすぎているのだ。コショウもうまく満遍なくいきわたらず、ときおりダマのようになっている。
「うわ、祐介が作るのとは大違いやな」と合田は呆れた。
 そうか、あまりうまくないからこそ、作った当人にそれを察知させないために加納は、黙々と一人で平らげるつもりだったに違いない。道理で、お前も食えと勧めないわけだ。
「お前が俺のために何かを作ってくれた、そのことで胸が一杯で、本当に、うまいと思えたんだ」
 珍しく言い訳がましい口調で加納は言うが、いくら恋は盲目といっても35を過ぎたオッサンの吐くセリフか、と聞いている合田の方が恥ずかしくなった。
「あんた、相当な変態や」と合田は笑った。
「そうかもしれんな」と加納もおかしそうに笑った。
 布団を敷いてくる、と加納はキッチンから姿を消した。合田はキッチンの後片付けをしながら、どうやら先日と同じく、自分のベッドの隣に布団を敷いているらしい加納が無性に愛おしくなった。
 加納はそのまま布団に寝転んでいた。キッチンの明かりも消して部屋に戻った合田は寝転んでいる加納をまたいでベッドに上がったが、ふといたずら心が起きた。
 一昨日から読み始めた本。英語のペーパーバックだが、ところどころスラングがわからない。
「祐介、これ、どういう意味?」と本を加納の目の前へ突き出した。
「どれ?」と加納の視線が、合田の突き出したペーパーバックに移る。合田もベッドから転がるように降りて加納の隣に寝転び、顔を寄せて「ここ、このセリフ、意味がようわからん」と本の中ほどの文章を指した。
 加納は生真面目に合田に指定された部分を読み、ちょっと考えて日本語に訳してくれた。実に簡潔で無駄がない美しい翻訳だった。
「へえ、そうなると前後の意味がわかるわ」と合田は納得する笑みを浮かべてすぐ隣の加納を見た。
 不敵な笑みを浮かべる合田に、加納は冷たく「本はダシか」と言ったが、どこか楽しそうな表情でもあった。合田のいたずらを見破って許す寛大な微笑み。
 合田は加納の後頭部に左腕を回して自分へ寄せ、自分も目一杯首を突き出し、口付けた。
「今度は俺の勝ち」
 とはしゃぐ様はまるで小学生並みの単純さだ。
 互いに心から油断して、子どもの境地で無邪気になり、笑い合える相手。
 これを運命と呼ばずして何をそう呼ぶか。
 めぐり合わせ。深い水底から自分を見つけ出してくれた加納に心底感謝する合田であった。

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純真(1)

 加納は不思議と、合田の作った卵焼きをせっせと一人で食い「お前も食えよ」とは言わない。退院して間もない合田が何もつままずにちびちびとウイスキーを啜っているのだ、人一倍気遣いのできる加納なら、体に悪いからとかなんとか言いそうなものだが。
 水戸へ帰省する時間を惜しむくらいだから、よほど根を詰めて仕事して、外見はいつもどおりおっとりとしているが、本当は相当疲れてるんだろうか。ちょっとしたことにも気を回す余裕がないくらいに。
 合田は、加納の落ち着いた様子から何か伺えやしないかと、またも加納に見入っていた。
「白髪の数でも数えてるのか?」
 と手元から顔も上げずに加納が笑った。
「数えたら、余計増えるかも」
「そりゃほくろの俗説だ」
 合田が加納を見つめること自体は、それほど嫌でないらしい。若い頃から人一倍目立つ美貌を本人は自覚しておらず、むしろ他人からの無遠慮な視線を嫌ってきた加納だが、今は合田の執拗な視線に動じず、逃げもせず、悠長にグラスを傾けている。
 ああ、無防備なんだ。
 合田が導いた結論は、非常に気持ちよいものだった。
 加納は自分とは違って人付き合いもでき、それなりに器用に組織の中を泳いでいるが、それでも、おそらく世間一般の男どもよりも、他者との間に置く壁は厚い。人間関係をそつなくこなすのは、生きる術と割り切ってのことで、深く他人と関わらない。学生時代からの付き合いだからこそわかるが、加納にはそういうところがある。誰にも分け隔てなく優しい代わりに、誰にも心を許していない頑なさを、合田はよく知っている。
 その加納が、自分の前では油断しきっている。
 小さな喜びと満足の後に、疑問が湧いた。
 なぜ、俺だったのだろう。
 合田はいまさら考える。合田は他者との間に壁を作るどころか、自分の強固な殻に閉じこもる貝のような生き方しかできない男だ。なぜ加納はよりによって広い海の中から俺を見つけ、貝を優しく開けて滑り込んできたのだろう。
 ふいに加納が、穏やかに、実にふわりと軽やかな笑みを浮かべて合田を見た。
「お前の目は、いいな」
 と言う。
「目?」
「目は口ほどにものを言う。目は心の窓。お前の目は、正直だ」
「じゃあ俺が今何考えてるか、わかるか?」
「加納祐介という、目の前の男について。この変態をどうしてくれようかということについて」
「変態・・・」と呟いて、弾かれたように合田は大笑いした。
 世の中に、これだけの美貌を誇る男に対し「変態」と形容するやつなど皆無だ。加納に似合うのは、清涼、高潔、そんな言葉だ。だが、確かにこいつは変態だ。二十年近くも一人の男に思い煩い、クリスマスイブの真夜中に拙いバイオリンごときで感極まって泣いてしまう変態だ。ほかの誰が知らずとも、俺だけは知っている。
「おい、変態仮面」
 面白がって合田は加納をそう呼んだ。
「なんだ、変態仮面2号」
 加納はにこりともせず即座に答えた。
「さっきのクイズ。正解や。俺は、お前との関係について考えてた。これまでのこと、これからのこと」
「ほう、それで?」
「お前、俺のどこに惚れた?」
「目」
 加納の返事は即答だった。
 “惚れた”という直截な言葉にはいまさら照れもなく、素直に認められるらしい。
 理由を、とさらに合田にねだられ、加納は少し考えて、「透明で、一点の曇りもない目。一見冷たいようだが、実は温かい眼差しだ。その温かさが、雄一郎そのものだ」と応えた。「俺にはないものだ」とも付け加えた。
 加納に温かさがない?そんなわけない。俺はいつだって加納の温もりに甘えてきたのに。
「俺はあんたの、飄々としたとこが好きや。爆風が起こってもちゃんと立っていられる足元の確かさあっての、飄々。決して惑わされず、自分の道をまっすぐ進む強靭な意思。なにもかもが眩しいくらいに、うらやましい」
「馬鹿な!」と言って加納は驚いた顔をした。
「俺は卑怯者だよ。甘言に弄され、ふらふらと足元を失う、弱い人間だよ」
 この男にも、そんな経験があったのだろうか、と合田は考えた。甘い言葉に乗せられてしくじった過去。ちょっと考えられない。自分を卑怯者と貶めるほどの過去?
 いや、そういう具体的な事実があったかどうかではなく、加納は単に、自分も弱さのある一個の人間だと言いたいだけだろう、と合田は納得することにした。
 今度は、加納がじっと合田を見つめた。まっすぐな視線に合田も負けじと視線を絡ませていく。
「人間は弱い。そう知っていればこそ、生きていける。そう思わないか?」
 きっとお前の弱さを知る人間は、この世にはほとんどいない。みな、お前を憧れや称賛の目で見るばかりだ。俺もそんな一人だった。自分には望みえない出世や、世間並みの幸せの代替を加納に望んでいたし、精神的支柱であってほしいとその立場に勝手に据え続けてきた。
 星の数ほどいる人間の中で俺たちが出会った偶然。他人との交わりが希薄な者同士、惹かれあい、なつきあったこの十数年。海の底にひっそり沈んで孤独を味わっていた俺を見つけ出した加納の目。
「すごいな」
 合田は、心なしかうっとりしたような、柔らかな目をしながら言った。
「何が?」
「出会いというか、運命というか、そんなようなもの」
 加納はちょっと考える風に、合田からさらりと目をそらせて手元のグラスに視線を落とした。
 グラスの縁を加納が軽くぴんと指先で弾くと、グラスの中の液体は小さく波紋を描いた。
「お前に、俺は共鳴を感じ取ったんだ、きっと。俺も雄一郎も、生き方はまるで違う。どちらも不器用と言う点では似ているが、そのほかでは似たところは皆無だ。だが、共鳴に誘われるがまま互いの距離が近づいてみると、これほど居心地のいい相手もいなかった。俺は、そんな風に思う。運命という言葉は受動的で責任放棄のようで好まないが、お前が運命というなら、甘んじて受け入れよう」
 合田には、共鳴という言葉がなにやらときめいた。同じ波長を持つもの同士でなければ絶対に感じ得ない特定の波長を、感じることができる唯一の組み合わせ、それが俺と祐介なのだとしたら、どれほど幸せなことだろう、と。
「俺は、これからもいっぱい祐介に甘える。祐介はきっとこれまでどおり、俺のわがままに応えてくれる。でも」
「でも?」
「祐介、俺にも存分に甘えろ、何も力にはなれんかもしれんが、たまには弱音のひとつやふたつ、吐き出せ。ええか、俺が、この俺が、お前の戻る家や」
「最高だ」
 加納はふわりと顔全体の筋肉を弛緩させて柔らかな笑みを浮かべた。透き通るように美しい、と合田はまたも加納の美貌に見とれる羽目になった。
 魂が震えるほどに共鳴しあう二人の心。それはぞくぞくと歓喜となり、一方でいよいよ俗世での関係は欺かねばならない新たな地平に二人して降り立ったということを合田は強く認識した。
 加納が甘えるように微笑みをさらに緩ませる様が嬉しくてならない合田だった。

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悠然

 シャワーだけでも使いたいと大慌てで加納が浴室へ姿を消した後、合田はグラスを2つとウイスキーを用意し、少し考えて、不細工な卵焼きを作った。コショウを振りすぎて小さなくしゃみをしたところへ上がってきた加納が「来年はお前のせいで氷河期到来だ」と笑った。
「あんたが来るとわかってればもう少しましなものを用意したのに」
 と合田がぶっきらぼうに言えば、「地球が爆発する。新たな銀河系の誕生だな」と大笑いした。
 自分はせっせと男の家へ通って家事をするくせに、いざ主がたまの手料理で迎えようとするとこの言い草だ。
 だが合田は不思議と加納のこの物言いが心地いいことに気づいて、内心で大いに照れつつ、一方で不思議な優越感を覚えた。
 とうに義兄弟でなくなっている他人を「義弟」呼ばわりし続けた男に世話を焼かれて安心していた自分は今も、こうして一方的にからかわれていても加納の優位に安らぎを覚える。すべて任ねられる懐にすっぽり収まってきて、これからも収まっている自分の幼さが恥ずかしく、おそらく母の胎内に近い感覚、それほどの温もりが妙に照れくさい。しかし、それだけの庇護を提供している当人は、こうして合田を手のひらで転がすように扱っているようでその実、「義兄弟」という社会的に許される関係を求めねばいられなかったほどに不安で、それほどに自分を深く愛しすぎたのだ、これからも自分を裏切らないという自信。
 まったく初めて味わう感覚であった。長い年月をかけて作り上げてきた、互いにもっとも自然な態度の中に、無自覚だった愛情の一色が顕在化して実感する小さな幸せを合田は発見していた。
「今年もあと10分少々」
 加納は食卓につきながら合田に対して言うでなし、ひとりごちた。そのまま流れるような動きで箸を使い、ひとくち、卵焼きを食って「たまにはこういう味もなかなか」と目を細めて優しく微笑んだ。
「要はうまくないわけやな」
 合田が苦笑すると、加納は悪びれもせず「一応、誉めているよ」と応えた。これまでの加納なら、さっともう一品二品作るなり、卵焼きにかけるソースをアレンジするなり、自ら手を加えそうなものだが、腰を落ち着けてゆったりと箸を動かし、グラスを傾けている。相当な激務が続いているはずだが、清涼な美貌には翳りがなく、むしろ見る者を穏やかな心持にさせるのはすごいとしか思えず、ゆったりと大きな海を眺めるように、合田は加納に見入っていた。
「犬にとっては威嚇だそうだ」
 とふいに加納が動きを止めてまっすぐに合田を見た。
「何が?」
「相手をじっと見ること」
「聞いたことある」
「受けて立とう」
「おい、威嚇なんかしてへんぞ」
 また加納の思考がわからん、と合田が少し慌てたとき、つけっ放しにしていたテレビから、カウントダウンの唱和が聞こえた。年が変わる瞬間が近い、と合田はちらと思ったが、加納は特に気に留める風でもなく「お前のは、挑発だ」とさらにわからないことを言った。
 威嚇と挑発との間にどれほどの違いがあるというのか。加納の独特な思考回路に追いつこうと合田が小さな迷路に入った途端、静かにゆっくりと加納は腰を浮かせ、合田の顎を軽くつまんだ。

「甘い挑発だ。だが俺が先勝。今年もよろしく」
 にやりと勝ち誇った笑みを浮かべた男の唇は、ひんやりとして、強く触れれば弾けるほどに繊細な紙風船のような柔らかさだった、と半ば呆然として加納を見る合田だった。
 ああ、こんな風に軽々と、ためらいも後ろめたさも何もかもを飛び越えてみせるなど。この驚き、この歓喜。お前の圧勝だ。
 合田は加納にもたらされた胸の高揚に酔いしれた。

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情熱(2)

 風呂もすませてベッドに転がって本を開いては見たものの、さっぱり集中できないのは、加納に会えなかった寂しさが頭の大部分を占めているせいか、と思うと合田はため息がでた。結婚していた頃、合田が帰宅しても学生だった妻は研究室に出ていて留守であることも多かった。だが、これほど会いたい、寂しいと感じただろうか。待つ身のはかなさよ。そんなものをまさかこの年で、男相手に覚える羽目になるとは。
 結局本は諦めてごろりと仰向けにひっくり返り、目を閉じてこの1年を振り返ってみることにした。思えば、刑事なぞという仕事のおかげで、盆暮れ正月などない生活を続けていたから、こんなにのんびりと大晦日を過ごすのは初めてかもしれない。
 ところが、いざ1年を振り返ろうとしても、やはりLJ事件の一連ばかりが思い出され、ついに犯人を追いきれなかった悔しさ、警察という組織への嫌悪感がいまさら湧き上がり、嫌になった。気分を変えてほかのことを考えようとすると、加納の顔ばかりが思い出される。会えなかった寂しさが増幅して、さらに嫌になった。1年を振り返るのはなんと苦しい作業なのか、と合田は今夜二度目のため息をついた。
 年が明けるまであと半時間と迫った頃、玄関のノブを回す音に合田ははっと身構えた。まさかこんな安アパートへ、しかもこんな大晦日の深夜に泥棒もなかろうに、となると部屋の主が退院したてで弱っている刑事一匹と知っている何者か、かつて俺が捜査なり逮捕なりにかかわって怨恨を買った何者か、そんな思いを瞬時によぎらせながら、合田は台所と六畳間の間の壁に身を寄せ、玄関をにらんだ。
 刑事業を休業して2か月。果たして大晦日深夜を狙う賊を相手にかなうのか。
 合田の背に、激しい緊張が鋭く走る。
 台所も玄関も明かりを落としているから、六畳間から漏れる明かりだけが頼りだ。
 ドアが開くと、長身の男の影がすっと入ってきた。が、合田に恨みを持つ者が急襲してきたにしては、警戒がなさすぎる。影は音を立てないよう慎重にドアを閉めると、きちんと内から鍵を掛けなおし、壁に手を沿わせて明かりのスイッチを探しながら靴を脱いでいる。ガサリと小さく乾いた音がするのは、何かを上がり框に置いたらしい。
 明かりがついて、納得がいった。ごく当たり前の風情で、物慣れた様子で入ってきたのは加納だった。
「祐介?」
 随分素っ頓狂な声が出た。
「雄一郎、そんなところで何をしてるんだ」
 加納こそ驚いたという顔で、寝室から体半分だけ出している合田を見た。
「なんでここに」
 合田は先ほどの声のまま、表情まで頓狂そのものになってしまっている。
「なんとか、年越しには間に合ったな」
 加納はいつものようにゆったりと柔らかな笑みを浮かべた。
「今年は帰られへんて、さっき言うてたやないか」
「水戸へはね。そう言ったはずだが?」
 そう言われて合田は全身が脱力するのを感じた。
 ああ、確かにそうだった。だがここへ来るとも言わず、あんたは一方的に電話を切ったじゃないか。
「恨みがましい奴が、弱ってるのを幸い、襲撃に来たかと本気で思った」
 我ながらなんとも悲しい稼業だ、悲しい習性だ、と思いながら合田は玄関をにらんでいた自分に言い訳をした。
「客体の錯誤も甚だしいな。そんな勘の鈍さで復帰してやっていけるのか」
 加納は軽く笑ったが、合田はただひたすら力が抜けた。錯誤も何も、前もって来ると知らせなかったお前が悪い、と思うが、それ以上に、思いがけず対面を果たせたことが嬉しくてならない。
「どうしてもここへ帰ってきたくて大急ぎで仕事を片付けたんだ」
 加納はゆったりと腰を折り、足元に置いたビニール袋を取り上げた。
「このとおり、明日の朝飯も用意した」
 とにっこり微笑まれてしまえば、合田にはもう返す言葉が見つからなかった。
 合田には、加納の「ここへ帰る」という何気ない言葉が無性に嬉しかった。
「来る」ではなく「帰る」と表現する場所が自分の元であることが、たまらなく嬉しかったのだ。
 加納は上がり框に、買い物袋片手に外出から戻った恰好で突っ立ったままだ。
 合田は台所を経て玄関に行くと、加納をふわりと抱きしめた。
「おかえり」
「ただいま」
 短くも甘美な挨拶だ、と合田はしみじみと味わった。
 マチビトキタル。
 愛しい者との逢瀬はこんなにもときめくものなのか。こんな喜びを感じられるなら、待つ身のせつなさもまた、悪くない。
 合田は加納の肩に顔をうずめて目を閉じた。

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