加納セリフ集
とにかく加納が喋った、書いたことばかり集めました。
レディ・ジョーカー
レディ・ジョーカー(文庫)
レディ・ジョーカー(サンデー毎日連載)
太陽を曳く馬
太陽を曳く馬(新潮連載)
《ちょうどひとりで呑み直していたところだ》
《五日の朝、東京へ戻る》
《では四日に。泊まっていけよ》(上p.113)
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《無理するな》
「いま、君は水戸くんだりまで何をしに来たんだと考えていただろう?」
「早く上がれ。仏壇に線香をあげて、一風呂浴びて、それから痛飲だ」
「そら、また俺の背中で何か考えているだろう」
「正直なやつ!」
「おい、トマトが冷えてるぞ!」
「社有地の売買に、その筋の不動産会社が関わっているという話は聞いたことがある」
「夏休みというか、中休みというか。永田町を疑心暗鬼にさせておくのも悪くない」
「それで、君のほうはまだ八王子の殺しをやっているのか」
「行き詰まりか?話なら聞くぞ」
「その前に、賭場になんか出るな」
「言っておくが、俺が博打なんか許さんのは違法行為だからではない。それが裏社会という暴力装置につながっているからだ。俺は暴力が嫌いだ。暴力の薄暗さが嫌いだ。同じ理由で、この国の政治の系譜にも憎悪を覚える。警察や検察権力の系譜も同じだ。ああいや、政治家や官僚はどうでもいい。君だけは暴力装置と無縁の人間でいろ」
「食ったら話せよ」
「それで、八王子のホステス殺しのどこが、どう行き詰っているんだ」
「その二度目の索状痕に、生活反応はあったのか、なかったのか」
「まず、一回目の扼頸で被害者がすぐに死ななかったというのは、殺人もしくは殺人の構成要件を阻害しない。その上で、第二の絞頸については、そのとき被害者が生きていたのであれば、第一の扼頸に対する因果関係の中断となり、この第二が殺人の既遂、第一は殺人未遂となる。これは、仮に第一の扼頸がなければ第二の扼頸は起こらなかったとする場合でも、第一の扼頸と死亡との相当因果関係は認められないので、答えは同じになる。次に、第二の締頸が行われたときに被害者が死亡していた場合は、この第二の絞頸はふつうは客体がないものとして不能犯となるが、行為無価値論に立って未遂犯とする考え方もないではない。ちなみにこの場合、どちらの論を採用しても、当然のことながら第一の扼頸が殺人の既遂となる」
「先に言っておくと、第二の賊を挙げてもいない段階で、いかなる断定もすべきではない。その上で言うが、仮に第二の絞頸が行われた時点での被害者の生死がどうしても不明の場合、結論から言えば、死亡を採用するほかない。君が言うとおり、第二の絞頸は、その時点で被害者が生きていたから起こったと見るのが合理的ではあるが、被害者が生きていたことの立証責任は訴追側にあるから、立証が出来ないのであれば仕方がない。いずれにしろ現時点で君がすべきことは、ともかく第二の賊をひとまず殺人容疑で引っ張ることだろう。その上で、被害者の生死についてはあらためて精査すればよいのだ」
「物証が揃わずとも、犯罪を構成したという合理的な疑いがあれば引っ張ることは出来る。二人いるホシを一人にすることだけは許されんぞ」
「自首は、第三者が追い込んだら自首にはならない。頭を冷やせ」
「じゃあ呑もう」
「そら、この間見たときからずいぶん皺が増えている―――。寝ても醒めても何事か考え続けて、悩みを溜めて、じっとちぢこまっている子どもの手だ」
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だと言ったのは、ダンテの―――」
「しかし、ほんとうに意志の問題なのか、どうか」
「目の前にいるよ」(上p.363~374)
===ここから下巻===
《某所より入手。やるならもっとうまくやれ》(下p161)
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《手が空いたら四階まで電話されたし。カノウ》(下p.279)
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『雄一郎殿
珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。
まず、君が事件前に佐野美保子と相対した時間は、拝島駅で二分。東京駅で五分。立川駅で一分。合計八分に過ぎない。東京駅での五分は相対したとも言えないので、これを除くとわずか三分になる。あるいは小生の知らない時間がほかにもあるのかも知れないが、いずれにしても、人生のほんとうに短い時間だったことは一考に値すると思う。
いま、徒然に『神曲』を読み返しながら、考えたことがある。ダンテを導くのはヴェルギリウスだが、君が暗い森で目覚めたときに出会ったのが佐野美保子だった。ダンテが《あなたが人であれ影であれ、私を助けてください》とヴェルギリウスに呼びかけたように、君は夢中で彼女に声をかけた。そして、それ以来恐れおののきつつ彷徨してきた君がいま、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまえ導いてくれたのが佐野美保子であり、野田達夫だったのだ。そう思えばどうだろうか。
ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生のほうは未だ呼び止めるべき人の影も見えないぞ。
十月十五日
加納祐介』(下p.318~319)
《無理することはない》
《分かってる。気にするな》
《俺とお袋だけだ》
《来なかった》
《無理するな》
《ああ。では四日に》(p.74)
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《無理しなくていいのに》
「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」
「それから、風呂だ」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「夏だから畳に寝ても風邪も引かんだろう」「とにかく風呂から上がったらちょっと飲もう」
「今、ほされてる」
「そういうときもあるさ」
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票をめくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだという空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「小耳にはさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったことろだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「圧痕はどうなってる」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に首を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないから、やったやらないの水掛け論だ」
「それで、ほされてるのよ」
「そうだなあ……。場合によりけりだが、後半で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「雄一郎。お前、目が赤い」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「何か、というのは」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
「大丈夫か」
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば、人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「猿でも悩むそうだ」
「邪悪の手か」
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「意志だよ、意志。すべては」
「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」(p.245~254)
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『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』(p.380)
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《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》(p.470)
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『雄一郎殿
珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。
まず、君が事件前に佐野美保子と対面した時間は、拝島駅で二分、東京駅で五分、立川駅で一分、合計八分だ。東京駅での五分は対面とは言えないので、これを省くと三分。ひょっとしたら、小生の知らない時間がほかにもあるのかも知れないが、いずれにしても、人生の中のほんとうに短い時間だったということを、少し考えてみてもいいのではないか。
今、もう一度『神曲』を読み返しているのだが、ふと考えた。ダンテを導くのはヴェルギリウスだが、君が暗い森で目覚めたときに出会った人は誰だろう。
ダンテが《あなたが人であれ影であれ、私を助けてください》とヴェルギリウスに呼びかけたように、君が夢中で声をかけたのが佐野美保子だった。恐れおののきつつ彷徨してきた君が今、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまで導いてくれたのは佐野美保子であり、野田達夫だったことになる。そう思えばどうだろう。
ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生の方はまだ呼び止めるべき人の影も見えないぞ。
十月十五日
加納祐介』(p.497~498)
『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった』『……あれは実に醜悪だった。そもそも土に還った肉体の復元などというものは、モンタージュ写真とは完全に別種のものだと思う。あの生々しい凹凸のある粘土の顔を前にしたら、誰しもおのれの知力に危機感を覚えるだろう。目前で形になっているばかりに、あの似て非なる別物が、あたかも本物のように思えてくるのは、これこそ人知の限界というやつだ。
しかし、巷にはもっと醜悪な話がある。小生があるところから聞き及んだところでは、あの青年が行方不明になった直後に、こちらの公安当局は青年が南アルプス方面に出かけたことを掴んでいたということだ。それについて、当時は関係各警察への連絡も本格的な捜索も行われなかった。これは明らかに人知の限界内の話だ。事情の如何にかかわらず、このようなことはあってはならない。
ともかく、かような話を耳にするにつけ、小生の若白髪はまた数本増えたような気がするが、君の方はいかがお過ごしか……』(上p.105~106)
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《雄一郎殿
小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。官舎では、こういう生活道具の貸し借りはしたくないのだ。ついでに黒ネクタイも一本拝借した。
お察しのことと思うが、今夜は故松井某の通夜、明日は本葬があるため、小生は一日青山斎場に詰めている。故人の関係省庁だけで二百人程度の会葬者が予定されている。小生は場内整理係だ。
昨夜、王子署に出向いたので、事件について多少の話は聞き及んでいる。小生で役に立つことがあれば言ってくれ。なお、蛇足ながら一昨日久しぶりに貴代子から電話があった。ボストンの水が合っているそうだ。君も元気だと伝えておいた。 加納祐介》
《そうそう……》《山梨の友人から入手したニュースを一つ。三年前に白骨死体の復顔写真が手配された事件で、有罪が確定して服役中の老人が、地裁に再審請求を出してきたそうだ。刑訴法第四三五条の六号による請求だと聞くが、新規に反証となる証拠が出てきたのかどうか。検察の立場から言うとはなはだ不快だが、公判記録を閲覧した限りでは、証拠や自白の整合性に問題があったと言わざるをえない事件であったので、成り行きを注目している》(上p.237~238)
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「ああ、来たか……」
「財布は……」「無事だ」
「ここも変わったな」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない」
「結論を急ぐな。王子の事件については、法務省も検察もあくまで、一現役検事を被害者とする事案という認識だし、それ以上でも以下でもない。にもかかわらず今日の葬儀はなぜ、あんなふうになったか。分かるか」
「分からなくていい。常識では考えられない口出しをしている者が、法務省の上の方、ないしは永田町周辺にいるということだからな。その結果、我々検察ははなはだ不本意ながら、組織として常識では考えられない過剰反応をして、わざわざ君らの耳目を集めるというバカをやったというわけだ」
「それは分からん」
「ともかく《上の方》の横やりが、あまり世間に騒がれたくないという程度の動機だとしたら、一番ありそうなのはご大層な縁戚関係か閨閥。もしくはその式次第にある、法曹界や大学OBのネットワークとか……」
「ただし、同窓会はまずい。そこは日弁連会長や霞ヶ関の住人がいろいろ揃っている。当たるんなら、山岳会のほうが安全だと思うが、そこも事前に勤め先を調べてからにしろ」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「本、読んでるか」
「なあ、正月に穂高へ行かないか。二人で……」
「北鎌尾根から槍ヶ岳。前穂北尾根でもいい」
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ところで会葬者の記帳簿だが、警察は最低限遺族と交渉する権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、本心は複雑なはずだ。俺なら何とかして当たってみるが」
「気をつけろ。深追いはするな」
「心配するな」(上p.251~256)
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『高島平の一報を聞いて取り急ぎ駆けつけた。
君にはまず小生の不注意を詫びなければならない。九日の時点で小生は、例の山岳会について松井某の一般的な鑑の範囲と考えていたが、高島平の一軒を知り、そうとは限らないことに気づかされた。部内で聞こえてくる話の範囲では、被害者となった捜査員は十二日午後八時過ぎ、地検が別件で内偵中のS宅を訪ねているが、ほかにも正午に暁成大学事務局を訪問していた由。面会した相手・用件等は不明ながら、同山岳会OBには同大学理事長Kが含まれる。蛇足とは思うが、Kの妻は宮家出身。同日午後二時には同事務局から桜田門に苦情の一報が入ったというから、この件は要注意と思う。
なお、小生が平成元年に京都で入手した昭和六十三年版蛍雪山岳会会員名簿がある。十三日午前七時、東京駅十二番線キヨスクの前で待つ』(上p.362~363)
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「お早う」
「可笑しいな。なんでこんなふうなんだろう」
「俺も、蛍雪山岳会の名簿がこんなところで日の目を見るとは思わなかった。平成二年の年明けに君に手紙を書いただろう?前の年の夏に北岳で発見された白骨死体の身元が割れて、それが暁成大学の出身者だった。野村某という名前だったと思うが……」
「野村を殺したという男が出てきたのが平成元年夏。殺害が昭和五十一年ごろ。しかしその時点で、野村に関する遭難や事故死の届けは出ていなかった。野村が仮に単独行だったとすれば、北岳にひとりで登る初心者はいないから、どこかの山岳会に入っていた可能性がある。それで、いくつか山岳会を当たったときに暁成大学の山岳会の名簿も入手した。当時、野村には鑑がなくて、生前の足取りが掴めたなかったものだから、とりあえず山の仲間を探したんだ。結局、一人も見つからなかったが」
「いろいろ耳に入ってきたからだ。野村という男の身辺がきれいとは言いがたかったのが一つ。実は単独行ではなかったという話もあったのが一つ……」
「だから調べたんだ」
「平成元年に甲府地検が被疑者を起訴したとき、野村に関する昭和五十年前後の京都府警の調書一式が行方不明になっていた。野村はそのころ京都で左翼団体の活動をしていて、公正証書原本不実記載とか私文書偽造とかで逮捕歴がある。そのときの調書が消えたんだ。たぶん、そこには野村の鑑がいろいろ書かれていたはずだから、もしその調書があったら、事件は岩田とかいう被疑者を起訴して終わり、というふうにはならなかったかもな」
「ともかく、北岳の事件と今回の君らの事件は関係ないと思うが、圧力のかかり方が何となく平成元年のときと似ている感じがする」「本来問題があるはずのない資料がなかなか出てこないこととか、大学事務局を刑事が訪ねただけで過剰な反応があることとか……」
「そうかも知れない。高島平の事件を聞いてちょっと感情的になったんだろう」
「一応、梳かしてきたんだけどな」
「少し時間をおいた方がいい。その調書もどこかが押さえているかも知れないから」
「《S》と《K》には印をつけておいたから、へたに嗅ぎ回るな」
(合田の回想)「何となく似ている」(下p.11~15)
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「今日は官舎の秋祭りでな。うるさくていられないから来たよ」
「この間、君の留守番電話を聞いた」
「時間があるんなら、一風呂浴びるか?すぐに沸かそう」
(「こんな話がある」)
「山とはなんだろうな……」
「へえ。登山の約束、覚えてたか」
「無理だけはするな」(下p.329~332)
『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった……』『……あれは実に醜悪だった。そもそも土に還った肉体の復元などというものは、モンタージュ写真とは完全に別種のものだと思う。あの生々しい凹凸のある粘土の顔を前にしたら、誰しもおのれの知力に危機感を覚えるだろう。目前で形になっているばかりに、あの似て非なる別物が、あたかも本物のように思えてくるのは、これこそ人知の限界というやつだ。
しかし、巷にはもっと醜悪な話がある。小生があるところから聞き及んだところでは、あの青年が行方不明になった直後に、こちらの公安当局は青年が南アルプス方面に出かけたことを掴んでいたということだ。それについて、当時は関係各警察への連絡も、本格的な捜索も行われなかった。これは明らかに人知の限界内の話だ。事情の如何にかかわらず、このようなことはあってはならない。
ともかく、かような話を耳にするにつけ、小生の若白髪はまた数本増えたような気がするが、君の方はいかがお過ごしか……』(p.66~67)
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《また飲もう》
《とんでもねえよ》
《捜査現場に端から口を出すところなど、何人たりとも捨て置け。一に証拠、二に証拠。証拠さえ揃えば、法が判断する》(p.136~137)
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《雄一郎殿
小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。官舎では、こういう生活道具の貸し借りはしたくないのだ。ついでに黒ネクタイも一本拝借した。
お察しのことと思うが、今夜は故松井某の通夜、明日は本葬があるため、小生は一日青山斎場に詰めている。故人の関係省庁だけで二百人程度の会葬者が予定されている。小生は場内整理係だ。
昨夜、王子署に出向いたので、事件について多少の話は聞き及んでいる。小生で役に立つことがあれば言ってくれ。なお、蛇足ながら一昨日久しぶりに貴代子から電話があった。ボストンの水が合っているそうだ。君も元気だと伝えておいた。 加納祐介》
《そうそう……》《山梨の友人から入手したニュースを一つ。三年前に白骨死体の復顔写真が手配された事件で、有罪が確定して服役中の老人が、地裁に再審請求を出してきたそうだ。刑訴法第四三五条の六号による請求だと聞くが、新規に反証となる証拠が出てきたのかどうか。検察の立場から言うとはなはだ不快だが、公判記録を閲覧した限りでは、証拠や自白の整合性に問題があったと言わざるをえない事件であったので、成り行きを注目している》(p.151~152)
------
「ああ、来たか……」
「財布は……」「無事だ」
「ここも変わったな」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。酒、タバコ、女、金、どれも無縁だ。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない。とにかく目立たない。公務員の鑑だな、まるで」
「法務省は一応は静観の構えだ。検察も、捜査にあたって指揮権は発動しない方針だが……」
「検察の過剰反応には、捜査上のやむを得ない理由のある場合と、そうでない場合がある。松井の葬儀は、俺の知る限りは後者だ」
「ああ。俺の知る限り、今のところ検察の意志というより法務省の意向が強く働いている。地検の内部でも、首をかしげている連中が多い。当たり前だろう?たかが次長ひとり死んで、この騒ぎはない」
「多分」
「公務員関係や近親者は、当たっても無駄だ。当たるなら、その式次第に書いてあるだろう、大学の……」
「同窓会はまずい。日弁連会長、国家公安委員、省庁幹部、いろいろ揃っている。山岳部の方がいい。ただし、そこも官公庁関係が多いから、事前に調べることだ」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
「雄一郎。今年の夏は、山に行かなかったのか」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「本、読んでるか」
「そうだ、正月に穂高へ行かないか」「なあ、二人で行こう。北鎌尾根から槍ヶ岳……。前穂北尾根でもいいな……」
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ところで、会葬者の記帳簿だが……。王子の捜査本部は最低限《見せてくれ》という権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、遺族の気持ちは違うはずだ。言い方ひとつで首を縦に振るか振らんか、まず試してみることだ」
「気をつけろ。深追いはするな」
「心配するな」(p.161~164)
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《今、どこだ》
《不明だ》(p.303)
「雄一郎!」
「俺の義弟だ」
「合田雄一郎。捜査一課の固い石だ。今後ともよろしく頼む」
《またな》
《俺は正しいし、お前も正しい》(p.305~306)
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《そうであるべきだ》(p.354)
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『ここを読め』(p.407)
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《加納です》
《声が遠いぞ。どこからかけてるんだ……》
《死んだのか……》
《死人に口なしか……》
《雄一郎。気持ちは分かるが、焦るな……》
《……いつでもいい。連絡くれ》
《……時間通りに来いよ。俺が居眠りしないように》
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》(p.441)
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