加納登場場面紹介

とにかく「加納」「義兄」「検事」等、加納祐介を人力検索!

*段落途中から文章を抜書きしている場合は冒頭に空白を入れていません。

マークスの山
マークスの山(文庫

照柿
照柿(文庫

レディ・ジョーカー(上・下)
レディ・ジョーカー(文庫上・中・下)
レディ・ジョーカー(サンデー毎日連載)

太陽を曳く馬(上・下)
太陽を曳く馬(新潮連載)

《雑誌(小説現代)掲載のみの7係シリーズ》

東京クルージング
放火(アカ)

《オマケ》

カワイイ、アナタ(文藝春秋、短編集『Invitation』所収)

「名探偵コナン」47巻、"名探偵図鑑"

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照柿(文庫・下)

 朝、出がけに元義兄の書棚から適当に失敬してきたそれは、ラシーヌの短い詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生したことぐらいしか覚えていなかったが、無理やりページを繰るうちに、一寸記憶が甦った。(p.12)

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 自宅のある三十八号棟へ辿り着くと、一階の郵便受けにあるはずの一日分の朝刊と夕刊が見あたらず、加納祐介が立ち寄っていったのが分かった。一昨日水戸で会ったばかりの元義兄がわざわざ足を運んできたのなら、思い当たる用件は一つ。八王子署に入った監査でばれた関連照会の不正が、またしても電光石火のごとく耳に入ったに違いなかったが、それだけのことであれば電話で怒鳴りつければすむのに、元義兄はそうはしない。自分の存在ゆえにいつまでも貴代子と元義弟の関係が終わらないことをいやというほど知りながら、すでに消えたはずのろうそくの火を、雄一郎のいない間にまた燃え立たせるために足を運んでくるのであり、個々の用件はみなその言い訳に過ぎない。それはもう、幾分かは双子の片割れに特有の心象にしても、大半は加納祐介という男の感情の中身の問題であり、端的に女より面倒な―――というところで、しかし雄一郎自身の頭も停止してしまうのが常だった。そしてそのときも、雑多な考え事の周りにもう一枚膜が張ったような心地になったに留まり、世間を憚る妄執は自分も同じだという自嘲で、それ以上の思案をやはり回避したのだった。
 元義兄が空気を入れ換えていった部屋は、昼間にこもった熱気の代わりに、かすかな整髪料の匂いが残っていた。明かりをつけると、台所のテーブルに取り込んだ新聞とコピー用紙一枚が載っており、B4判の用紙は案の定、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊コピーだった。昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所で、欄外には元義兄の達筆な走り書きで『某所より入手。やるならもっとうまくやれ』とあった。
《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者か。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つでいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の元義兄の机に回ってきたに違いなかった。そしていつものごとく、雄一郎としては、政官財の巨大な網の目にからめ捕られた権力機構の一隅に、遠い元係累の一寸した非をあげつらった怪文書が飛び交う下らなさのほうに感銘を受け、そこにいる本人の代わりに呆れ果てただけだった。たしかに《やるならもっとうまくやれ》だ。遵法の精神を生きてきたはずの男がいうのだから間違いない、などと思いながら、皮肉も失望も力なく湧いては消え、泥のようなため息に溶けて見えなくなった。
 いや、さすがの加納祐介もやはり怒ってはいるのだと、一寸思い直してみることもした。思い通りにゆかない他者との関係について。もはや矯正不能で理解しがたい他者と、それが自身の感情に及ぼす影響について。失望を重ねてもなお断ち切れない自身の思いについて。妹の貴代子にも言えなかった自身のそういう不明を、他人の男に言おうとして果たせないこと、そのことを祐介は怒っているのだ、と。そして、この直截なのか韜晦なのか分からない複雑な感情の持ち主と、いまも付き合っているのは結局俺自身なのだと思うと、最後はまた女より面倒な―――というところに戻るほかなかった。
 いや、なにかしら失望し、諦め、ある日決断した後に、さっさと男二人を捨てて出て行った貴代子に比べれば、残された男二人の未練や執着は目も当てられないというだけだった。その証のような書き置き一枚を雄一郎はその場で破り捨て、ウィスキーとグラス一つを手に隣の襖を開けていたが、しかし、そこもまた結婚生活の残骸そのものだった。(中略)
 十一年前の春、突然数式が一つ解けたような顔で、私たち結婚しましょうよと貴代子が言出だしたとき、君と俺では釣り合わへんと雄一郎は応えたのだったが、それは本心に忠実な直感だった。また、いくぶん思慮を欠いた貴代子の突進には兄祐介とのいわく言い難い密着からの逃亡願望があること、ならば相手は必ずしも自分である必要はないことを、雄一郎は気づいていなかったわけでもなかった。(中略)
はたまた、貴代子をはさんであれほど剣呑だったはずの男と、十年経ったいままた微妙に生温かい近さにあるような、ないような自分。(p.160~166)

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もっとも、続けて元義兄宛てに書き始めた返信のほうは、そうはゆかなかった。元義兄に対しても嘘は山ほどついてきたが、そのつどなぜか後ろ髪を引かれる思いがし、陥る必要のない後ろめたさに陥って、結局いつも筆が進まない。(中略)
『(略)
 八月七日
 加納祐介様
    雄一郎拝』(p.179)

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「そうそう、始める前に言伝てがある。半時間前に電話があった」そう言って、辻村が机に置いたメモには、『手が空いたら四階まで電話されたし。カノウ』とあった。
 どうせまた、噂は桜田門を駆け巡って検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、慎重の上にも慎重な加納祐介が、警察に直接電話を入れてきたのは初めてだった。いったいそこまで案じるべき事態なのか。あるいは特捜部検事がこれを機に、かけなくてもいい脅しをかけて、桜田門の特定の何者かに対して意趣返しをしてきたということなのか。雄一郎にはどちらとも分からなかったが、もともとやる気のなかった重い心身に、鈍い一撃を食らったような気分でメモを握り潰した。一方辻村は、カノウが何者かをもちろん承知しているようで、「その人にはくれぐれも、内輪の話だと言っておいてほしい」と呟いただけだった。(p.279)

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『祐介殿
 長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従い、先週休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』
『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。(中略。セリフ集を参照してください)』

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照柿(文庫・上)

 そうして八王子駅に辿り着くと、雄一郎は公衆電話からまず私用の電話を一本かけた。相手は分かれた貴代子の双子の兄であると同時に、雄一郎にとって大学時代からのほとんど唯一の知己でもある男で、先週久しぶりにハガキをよこし、法事がある八月二日を避けて一度水戸の実家のほうへ寄るように言ってきたのだった。しかし、かくいう本人も警察以上に多忙をきわめる東京地検におり、春先から続いているゼネコン数社と地方自治体首長の大がかりな贈収賄事件のさなかに帰省などしているのは、捜査が国会閉会中の永田町に及んでいることの証でもあったから、昔の友とのんびり旧交を温めているようなときではない。ひょっとしたらアメリカにいる貴代子が戻っているのかといった想像も巡らせてみたが、それなら雄一郎としてはなおさら連絡を取りづらく、一日また一日と先伸ばしにしてきたあげくの電話だった。
 すでに半日前に法事は終わっていたが、大きな旧家のこと、誰が残っているか分からないと思ったが、電話口に出たのは本人で、《ちょうどひとりで呑み直していたところだ》というのが第一声だった。
「俺のほうは明日は大阪へ出張だ。あんたは、そこにはいつまでいる」
《五日の朝、東京へ戻る》
「四日の夜、顔を出していいか。この季節を外したら、またいつ会えるか分からないから」
《では四日に。泊まっていけよ》
 元義兄は、貴代子が来たとも来なかったとも言わず、雄一郎も尋ねなかったが、毎夏、双方がいくらか平静を欠き、愚かな困惑と遠慮を繰り返して懲りることがないのだった。いくら大学時代からの付き合いでも、妹との結婚を破綻させた男に向かって、昔と同じように自分の実家に来いという男は、未だに妹と自身の友人関係について、何かの幻を見続けており、貴代子もまた、いまは別の男と外国で暮らしながら、なにがしかの目に見えない執着と悔恨の秋波を兄に送り続けている。そして雄一郎自身もまた、戸籍の手続きのようにはその兄妹との関係を切ることが出来ずに、いまなお元義兄とハガキや電話のやり取りをしているのだ。かくして三者三様の未練は消えかけては蘇生し、じりじりと熱をもち続けて、毎年夏がやってくるのだった。
 短い電話一本のなかに、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも開いての熱ともつかない息苦しい靄になって、電話線を伝わり合ったかのようだった。常磐線の急行に乗れば今夜にでも行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している元義兄との当たり障りないやり取りは不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.112~114)

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 雄一郎はほとんど聞いていなかった。頭の中は、土井を追い込むための方策が一つ、水戸の義兄を訪ねるという約束が一つ、佐野美保子の顔が一つ、浮いたり沈んだりしていた。(中略)氷をひとかけら入れたウィスキーにありつけるなら、約束通り、水戸まで義兄を訪ねていくのもまあいいかという気になった。(p.352)

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 その後、新宿の歌舞伎町に立ち寄って生花とウィスキー一本を買い、遅くなる、と水戸に詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で元義兄は《無理するな》と繰り返したが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
 声を聞くだけで双子の妹と重なってしまうその遠い顔を押し退け押し退けしながら、雄一郎はわずかな時間も惜しんですぐに寝入り、一昨日と同じ夢を見た。(中略)
 雄一郎も泣く。崩れた視界に広がるのは臙脂色に燃える空で、まるでいくつもの顔や声を投げ込んだ炉のようだと思いながら、目を凝らし続けた。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か。(中略)
 水戸まで約一時間半、爽快とは言いがたい時間を過ごした末に辿り着いた旧家の、磨かれた広い玄関の上がり框に、加納祐介は優雅な紬の着流しを着て立っていた。いくら元は身内だったと言っても、常識で許される範囲を超えた深夜の来客を、当主としては歓待するわけにもゆかず、さりとてそれを承知で招いたのは自分だという事実を鑑みるに、とりあえず見た目の威厳をとりつくろってみたといった風情だった。ともにまだ十八、九だったころから、何につけ数ヶ月の年長や、教養や、家柄という社会的基盤の違いを理由に、雄一郎の庇護者を任じてきて、いまやそれが習い性になった永遠のお殿様。兄上様。雄一郎は一秒考え、自分がハガキの返事を先伸ばしにしてきたほんとうの理由はこれだなと思った。しかしまた、その一秒後には従順な弟の役回りに甘んじている自分がおり、他人には見せられない隠微な兄弟ごっこをやりたかったのは自分も同罪だと認めると、まずは苦笑いを噴き出させるほかはなかった。そして相手も同様に苦笑いで応え、開口一番言ったのはこうだった。
「いま、君は水戸くんだりまで何をしに来たんだと考えていただろう?」
「着流しが似合うなあと考えていただけだ。遅くなってすまん」
「早く上がれ。仏壇に線香をあげて、一風呂浴びて、それから痛飲だ」
 元義兄は顎で早く上がれと促し、先に立って中庭をかこむ回り廊下を奥座敷へ進んだ。
 この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合って以来、その両親にほとんど息子のように迎えられて、夏休みや正月休みを過ごした家だった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の飴色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物に積もった埃の深さ。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書の日向臭さ。そのどれもが自分には無縁の暮らしや、伝統とか血筋といったものの動かしがたい現実のあることを若い雄一郎に思い知らせたが、雄一郎自身はそれに対して一定の敬意を払うというかたちでしか相対することが出来ず、どこまでも自分が同化することはなかったのだった。しかし、加納家の人びとはそれをまた人間の品格だなどと言い、母親を亡くして天涯孤独になった雄一郎をことのほか慈しんだ。そして、そんな過ぎた時間がみな幻想だったことを、先代当主夫妻が知らずに他界したことこそ幸福というもので、家を継いだ息子はいまだに結婚もせず、管理人に家を預けて盆暮れにしか戻らない気ままさだけならまだしも、妹の結婚生活を破綻させた男をいまなお亡父母の仏前に招き、雄一郎もまた本来なら上がれるはずのない家に上がり、たまに泊まったりもするのだ。
 それはほとんど加納祐介と自分の共犯というものだったが、たくらんでいることの中身まで同じだという確信は雄一郎にはなかった。元義兄がいまでは別の男とアメリカで暮らしている妹への未練を抱き続けているというのは自分の想像に過ぎず、片や自分自身も、たんに兄弟ごっこのために十六年も一人の男と付き合っているはずがない。いまなお何かにつけ貴代子が、貴代子がと話題にし続けている反面、どちらにとっても年々遠いものになってゆく貴代子はいまや言い訳に過ぎないのではないかとも思うと、すべてが靄のなかというのが真実ではあるのだった。しかも、それにもかかわらず自分はなおも元義兄に会い、元義兄もまるで当たり前のように庇護者もしくは年長の友人の顔をつくる。そうして顔を合わすたびに記憶は更新され、改竄され、二人してとりあえずいま問題がないのであればとすべてを未決に留めるのだが、しかしいったい何のために?檜の廊下を進みながらそんなことを考えるともなく考えていると、「そら、また俺の背中で何か考えているだろう」と元義兄は言った。
「そうかも知れない。今夜はお参りはやめておくよ。花だけ供えてさしあげて」
 生花を渡してそう言うと、元義兄は「正直なやつ!」と声を上げて笑い出した。
 正直?違う。どちらも不実だ。本心などどこにもなく、どちらも少しも相手のことを知らないことを知っていて踏み出そうとしない。これは不実だ。雄一郎は思ったが、それにしても不実にすら意味がない。自分たちはまったく意味のない時間をこうして積み上げているというのが、一番当たっているのだった。
 とはいえ、一風呂浴びて浴衣に着替えたころには、自分もそろそろ生活を落ち着けることを考えなければといった方向へ頭は逸れてゆき、あまりの現実味のなさに辟易したところで、広縁のほうから「おい、トマトが冷えてるぞ!」と呼ぶ元義兄の声が響いた。
 元義兄は昔の自分の部屋に面した広縁を開け放して、ウィスキーの用意をしていた。管理人夫婦の畑でとれたトマトとキュウリが氷の入った手桶に放り込んであり、七輪の網にはこれも頂き物に違いない笹ガレイと蛤が載っていた。雄一郎は薦められるままにトマトにかぶりつきながら、去年のなつにも同じようにして同じトマトを食ったと思い出したが、何か言おうとしてもろくな言葉が出てこなかった。美味いとか何とかどうでもいい言葉を吐いて、注がれたウィスキーを呷りながら、何もかも見透かしているような元義兄の視線を感じた。
「昨日、東京駅で十八年ぶりに大阪の幼馴染に会うてな。太陽精工の羽村工場に勤めているということやったが、あそこ、国税の内偵が入ってなかったか」
「社有地の売買に、その筋の不動産会社が関わっているという話は聞いたことがある」
「そうか。特捜部が関知するような話でないんなら、よかった。ところで、ゼネコンの収賄事件のほうは夏休みか」
「夏休みというか、中休みというか。永田町を疑心暗鬼にさせておくのも悪くない」
 元義兄はいかにも特捜検事らしい物言いで、さらりとかわした。十年前には、書物に手足が生えたような、こんな高等動物が地検のなかにもある不毛な権力闘争を渡ってゆけるのかと思ったが、いつの間にか得体の知れなさや厚顔までしっかり身につけて、少なくとも社会的には磐石そうな加納祐介だった。
「それで、君のほうはまだ八王子の殺しをやっているのか」と聞かれ、雄一郎はまた少しなげやりな気分に戻りながら「まあな」と応じた。
「行き詰まりか?話なら聞くぞ」
「いやや。ウィスキーが不味くなる」
「その前に、賭場になんか出るな」
 そらきた、と思った。地検内部の隠微な権力争いのなかで、一度は身内だった刑事一人の身辺までがネタになって飛び交い、元義兄の耳に入る。いつものことではあったが、見ず知らずの何者かの悪意や中傷よりも、元義兄に知られることそのことが神経にこたえた。いや、元義兄の善意がこたえたのだと自分に認めた一方、ほんとうは賭場どころではない、俺はいまは私生活のなかで嫉妬を一つ飼っているのだ、この男は何も知らないのだと思い直して、やっと自分を落ちつかせた。
「検事の名刺一枚で代議士でも呼びつけられるような人間に言われたくない」
「言っておくが、俺が博打なんか許さんのは違法行為だからではない。それが裏社会という暴力装置につながっているからだ。俺は暴力が嫌いだ。暴力の薄暗さが嫌いだ。同じ理由で、この国の政治の系譜にも憎悪を覚える。警察や検察権力の系譜も同じだ。ああいや、政治家や官僚はどうでもいい。君だけは暴力装置と無縁の人間でいろ」
「カレイを焼きながら言うことか。それ、もう焼けているやろ。食うてええか?」
「食ったら、話せよ」
 黄金色にぷっくりと焼けた笹ガレイは美味かった。雄一郎はつい昨日、大阪の飛田新地の小料理屋で何を食ったのか思い出せないまま、俺はいったいここで何をしているのだと思い思い一枚を平らげ、元義兄のほうはたったいま披瀝した暴力装置云々ももう頭にないかのような顔で、二杯目のウィスキーを悠々と啜っていた。
「それで、八王子のホステス殺しのどこが、どう行き詰っているんだ」
「被害者は一人。現場も一つ。そこにホシが二人。各々わずかな時間差でまったく別々に関与した、いわゆる同時犯の話だ。今日現在、別件で逮捕された第一のホシが、被害者の首を手で絞めたことを自供している。これは被害者の顔見知りで、犯行は居直り。殺意はあった。二人目はベランダからの侵入で、被害者の爪から検出された汗の成分などから、容疑者はほぼ割り出されているが、捜査幹部は二人目の存在そのものを認めない。そういうわけで今日の夕方、一人目のホシを殺人と窃盗で再逮捕したところだが、剖検の所見では、一人目が被害者の頸を絞めたとき、すぐには死ななかった可能性があるというだ。実際、二番目の賊がさらに被害者の頸を絞めたと思われる、扼痕とは別の索状痕もある」
「その二度目の索状痕に、生活反応はあったのか、なかったのか」
「わずかにあった。だから厄介なんだ。二度目に頸が絞められたとき、被害者が生きていた可能性も、死亡直後だった可能性もある。もっとも常識的には、二番目の侵入者がわざわざ被害者の頸を絞めたのであれば、絞めなければならない理由があったと考えるのがふつうだろう。つまり、少し前に第一のホシに頸を絞められて失神していた被害者が、急に息を吹き返して起き上がったとか、物音に気づいて声を上げたとか」
「まず、一回目の扼頸で被害者がすぐに死ななかったというのは、殺人もしくは殺人の構成要件を阻害しない。その上で、第二の絞頸については、そのとき被害者が生きていたのであれば、第一の扼頸に対する因果関係の中断となり、この第二が殺人の既遂、第一は殺人未遂となる。これは、仮に第一の扼頸がなければ第二の扼頸は起こらなかったとする場合でも、第一の扼頸と死亡との相当因果関係は認められないので、答えは同じになる。次に、第二の絞頸が行われたときに被害者が死亡していた場合は、この第二の絞頸はふつうは客体がないものとして不能犯となるが、行為無価値論に立って未遂犯とする考え方もないではない。ちなみにこの場合、どちらの論を採用しても、当然のことながら第一の扼頸が殺人の既遂となる」
「だから現場は悩んでいるんやないか。第二の絞頸が行われたときに、被害者が生きていたか死んでいたかが証明不能なんだ」
「先に言っておくと、第二の賊を挙げてもいない段階で、いかなる断定もすべきではない。その上で言うが、仮に第二の絞頸が行われた時点での被害者の生死がどうしても不明の場合、結論から言えば、死亡を採用するほかない。君が言うとおり、第二の絞頸は、その時点で被害者が生きていたから起こったと見るのが合理的ではあるが、被害者が生きていたことの立証責任は訴追側にあるから、立証が出来ないのであれば仕方がない。いずれにしろ現時点で君がすべきことは、ともかく第二の賊をひとまず殺人容疑で引っ張ることだろう。その上で、被害者の生死についてはあらためて精査すればよいのだ」
 元義兄の意見は筋が通り過ぎていて、苦笑いしか出なかった。雄一郎は首を横に振った。
「あんたに言われなくても、問題が捜査のいろいろな不足にあるのは承知の上だ」
「物証が揃わずとも、犯罪を構成したという合理的な疑いがあれば引っ張ることは出来る。二人いるホシを一人にすることだけは許されんぞ」
「とにかく、送致までに第二の賊をせめて自首に追い込むことができれば―――」
「自首は、第三者が追い込んだら自首にはならない。頭を冷やせ」
「頭を冷やしていたら、一つ失い、また一つ失い、自分が立つ場所もなくなってゆく。一つ失うたびに、確実に何かが減ってゆく。少々強引だろうが違法だろうが、眼の前のホシを挙げることで、自分がやっとどこかに立っていられる。こんな感じはあんたには分からんだろう。もうやめよう、こんな話」
 雄一郎はそういって話を打ち切り、「じゃあ呑もう」と元義兄は新たなウィスキーを二つのグラスに注ぎ足した。貴代子との離婚以来、どちらも互いの神経に触れるところまでは踏み込まない習慣がついて、やめようと言えばやめる。呑もうと言えば呑む。ずいぶん大人になったということだった。しかし、そういて新たに呑み始めてすぐ、元義兄は今度は雄一郎の左手を取って素人の手相見を始め、また少し、やめろ、やめないといった子どもじみたやりとりになった。
「そら、この間見たときからずいぶん皺が増えている―――。寝ても醒めても何事か考え続けて、悩みを溜めて、じっとちぢこまっている子どもの手だ」元義兄は言い、
「猿でも悩むんやそうや」雄一郎は言い、今度は自分が元義兄の手を取って覗き込んでみたが、それも細かい皺に満ちた繊細な掌だった。しかも、貴代子と実によく似た掌。
 そら見ろ。人知れない悩みの深さという意味では、この男は自分よりずっと上のはずなのだ。そして、この目。貴代子と同じ目。旧家の奥深い静けさのなかで、双子にしか分からない隠微な情念を溜めていた兄妹の目。貴代子と雄一郎の間に立って、理性の采配をふるいながら、その実ひそかに二人に対する嫉妬の火を燃やしていた男の目。どんなに理知の覆いをかけても、必ず愛憎と苦悶の下地が浮き出してくる目。
 雄一郎は、自分と相手の双方に対する解きほぐせない感情の塊を認めながら、ひねり潰したいような思いで、自分の手のなかのもう一つの手を締めつけ、ふりほどいた。しかし、そのとき元義兄のほうあまったく別のことを考えたに違いなく、少し間を置いていかにも元義兄らしいやり方で韜晦してみせたものだった。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だと言ったのはダンテの―――」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「しかし、ほんとうに意志の問題なのか、どうか」
 元義兄は自分で言い出しておきながらめずらしく言葉を濁し、雄一郎のほうはふと、この元義兄に尻を叩かれて貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは二十歳のころだったことを思い出したものだった。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられたが、頭脳明晰な貴代子は『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだ、と。もうはるか昔、雄一郎の目のなかで永遠の光と一つだった時代の、輝くばかりの貴代子がそこにいた。
「あんたにも、意志ではどうにもならないことがあるわけか」
「目の前にいるよ」
「そんな真顔で言わんといてくれ。ドキッとするやないか―――」
 雄一郎はあまり正確ではないと思いながら、そんな返事しか出来なかった。
 午前三時前、元義兄は先にベッドに横になった。広縁からその姿を眺めながら、雄一郎は二十一歳の秋、その同じベッドで貴代子を初めて抱いたことをまた一つ思い出した。加納祐介が司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家出連休を過ごしたのだが、それは貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じるかたちで抱き合ったとき、二人して今から始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかったはずだが、そうして兄妹の絆や男同士のある種親密なつながりを一気に瓦解させるに至ったそのベッドで、ひとり己の立場のなさや嫉妬と折り合いをつけてきた男が、いまは安らかに手足を投げ出して眠っていた。そして、その魂を再々裏切って、いまや貴代子ではない女のことを考えている自分がいた。(p.363~375)

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照柿

 早足で八王子駅にたどり着き、もっと早くにかけなけれなならなかった私用の電話一本をかけた。その日は、分かれた妻の水戸の実家で、先代当主の七回忌の法要があったのだ。法事は半日も前に終わっているが、そういう日には親戚や手伝いの人間が何かと残っているものだし、電話にも誰が出るか分からないと思ったのだが、つながった電話に余計は物音はなく、応えたのは若い当主の静かな声が一つだった。
「すまない。行けなかった」と言うと、《無理することはない》と返事があった。
「忙しかったんだ」
《分かってる。気にするな》
「そちらには、誰かいるのか」
《俺とお袋だけだ》
「貴代子は」
《来なかった》
「……そうか。あんたはそっちにはいつまでいる」
《四日まで》
「四日の夜、顔を出すよ」
《無理するな》
「いや。あんたにも会いたい。どうぞ、ご母堂様によろしくお伝えしてくれ」
《ああ。では四日に》
 電話の主は、貴代子の双子の兄だった。本人も東京地検の現職検事で、夏休みをかねて法事のために帰省しているだけだ。春先から続いているゼネコン各社と地方自治体首長の贈収賄容疑の捜査も、夏に入って永田町に内偵が入り始めたのか、特捜部は表向きの動きを止めている。そのせいもあって、今ごろ水戸へ帰っているのだろう。
 先日、法事の段取りを電話で知らせてきたとき、義兄はアメリカにいる貴代子にも知らせたと言った。貴代子は分かったとだけ答え、行くとも行かないとも言わなかったらしい。(中略)
 なにしろ、誰もが少し平静を欠き、相も変わらず愚かなのだった。どんな事情があれ、女房を不倫に走らせたこの自分に向かって、顔を出せるはずもない法事に来いという義兄は、未だに妹の壊れた結婚や、雄一郎との兄弟関係について、何かの幻を見続けている。(中略)誰もが果てしない絆と矛盾をひきずって、毎年夏を迎える。
 しかしこの六年、疼いては鎮まり、膿み続けてきた怒りの根も、月日とともに少しずつ変化し、表向き散漫になってきているのは事実だった。電話に出た義兄の声も、以前に比べればずいぶん淡々としてきていた。大学時代からの十六年の親交だから、互いに心のうちはいやというほど読めるのだが、それでも最近は、何を分かるとも分からないとも言わず、互いの感情に触れ合うことも少なくなった。法事については、義兄は一応声をかけただけだと言うだろうし、雄一郎はあれこれの事情で行かなかったと言うだけのことだ。
 しかし、短い電話一本の中には、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも相手の熱ともつかない息苦しい靄が電話線を伝わりあった。常磐線の急行に乗れば法事に行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している義兄との当たり障りないやりとりは、不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.73~75)

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 水戸の義兄を訪ねる約束を頭の隅で気にしながら、雄一郎はそれを押しやって、いったん出てきた署へ舞い戻り、玄関をくぐった。(p.241)

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 遅くなる、と詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で義兄は《無理しなくていいのに》とくりかえしたが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
 学生のころから、めったに感情を覗かせない物静かな物言いをする男だったから、大学三回生で司法試験に合格した後、検事になりたいと本人から聞かされたときには、判事の方が向いてるんじゃないかと真面目に意見した。それも昔話だ。司法修習生時代を含めて、大阪、京都、福井、新潟、また京都と、地方の地検を転々とした十一年の後、結局は東京地検の特捜部に迎えられて二年、首が飛ばないところからみて、それなりに何とかやっているらしい。
 考え始めると、どうしても双子の妹貴代子の顔と重なってしまう義兄の顔を押し退けて、雄一郎は缶ビールひと缶を空けてすぐに眠ろうとした。(中略)
その色と一つになって絡みあいうごめく肉体の気配がそこここに満ち、それが誰と誰なのかと目を凝らす。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か、あるいは自分なのか。

 加納祐介は、紬の着流し姿で広い玄関の上がり框に立っていた。雄一郎が「遅くなって……」と詫びると、「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」と義兄はのたもうた。
「とりあえず、お父上にお祈りさせてもらおう」
「それから、風呂だ」
 義兄はわずかに顎だけ動かして早く上がれと促し、先に立って中庭を囲む回り廊下を奥座敷の方へ進んだ。
 この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合い、その実家にほとんど身内のように迎えられ、夏休みや正月休みを過ごした。その時代とまったく変わらない佇まいだった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物にわずかに積もった埃の輝き。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書のカビ臭ささえ、優しく芳しい。当時健在だった加納家の人々はこの家を、物静かな話し声、ときに闊達な笑い声、控えめな笑み、真摯で厳しい学究の眼差しで満たした。どれもこれも雄一郎の知らなかった世界であり、十八にして吸収し始めた新たな世界のすべてがそこにあった。それらの面影が、人けの絶えた暗がりのすみずみにしみつき、匂い立っていた。そして、最高検察庁の検事総長を務めた先代が亡くなって六年、今は先をゆく男がそれらの見えない空気を受け継ぎ、背負っている。それが似合い、荷重な務めでもない加納祐介だった。
 それにしても、廊下を進む間、いくつかある座敷はすべて静まりかえり、人が動き空気が動いた気配もなかった。ご母堂をはじめ、古くからの手伝いの者も住んでいるはずなのに、誰もが足のない精霊か空気のように障子や壁を通り抜け、今はどこかの部屋で眠っているのだった。人も精神も時間も、微動すら拒否しているように感じられる。こんな世界もあったのだとあらためて思い出すのは、一度は自分自身もその中にいた時代からすでに時が経ち、そこから離れて久しいということの証だった。そうしてこの家が年々遠くなっていくのは、貴代子が去ったことと無縁ではないだろうが、それだけの理由でもなかった。東京での、高潔とは言いがたい日常に汚れた頭には、何もかもが切ないほど遠く、白々しく感じられるのだ。
「お袋さんはお変わりないか」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
 先代の時代から、この家は旧家にもかかわらず冠婚葬祭は質素にやるのが伝統だったが、祐介が家を継いでから質素は簡素になり、宴席なども一切やらなくなった。しかし、それはたんに合理主義や清貧を尊ぶせいばかりではなく、ある断固とした思いや事情があって、祐介はこの六年あまり、法要であれ何であれ、この家に一切の他人を入れないできたのだった。雄一郎と貴代子の結婚生活が破綻し、貴代子が大学時代の友人とアメリカへ行ってしまったときから、いつか貴代子が戻ってくる日が来ると信じてきた故の、かたくなな愚行だった。その不動の思いがこの家の凛とした暗がりに響いていた。多分、それはこの先も変わることはない。愚かだと気付いても、自分の道を曲げることはない。それが祐介という男だ。
 しかし、ここには同時に、その父母や先祖がもたらしたものではないある種の奇妙な緊張が満ちていて、それは大部分、兄弟と雄一郎の激しい確執からつむぎ出されてきたきたものだった。十六年も続いてきたのだから、いいかげん色褪せてもよさそうなものなのに、顔を合わすたびにすべてが新たになる。何ひとつ減りもせず、前進もなく、解消の道も見えない。合理主義とは裏腹もいいところだが、それに毅然と耐えているところを見ると、祐介という男の中身は先代とはかなり違う、前世紀のロマン主義に毒された夢想家なのかも知れなかった。もっとも本人は、己の理想とするものを守って何が悪いと言うだけだろう。その理想というのが、雄一郎の目には世界の秩序に対する懐疑と紙一重のものに見えるのだが。
 それにしても、ただ貴代子が帰ってきやすいようにという配慮のために人を遠ざけ、毎年性懲りもなく一族の非難の目を浴びつつ形ばかりの法要を営み、そのあげくにせっせと若白髪を作っているというのは、もはや滑稽の域に達していた。
「また増えたな」先をゆく義兄の後ろ髪を見ながら、雄一郎がそう言うと、「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」という几帳面な返事があった。
 祐介は、かつて先代の居室だった奥座敷の障子を開けた。床の間の横の付け書院に故人の写真と十字架と鉄砲ユリ一輪が飾ってあり、聖書が一冊置かれ、蝋燭が灯っていた。雄一郎は差し出された座布団に正座し、聖書を開いた。
 遺影の人は生前、「雄一郎君」と呼んでかわいがってくれ、何も分からない青二才に向かって懇切丁寧に遵法の精神について語り、ときどきの法解釈の問題について論じてくれた人だった。しかし、年に数回も開かない聖書を開いても、雄一郎の方は、追悼の祈りに読むべき箇所など思い出せない。結局、詩篇の中から葬式用でないことだけは確かな一篇を選び、読み上げた。
 もろもろの天は神の栄光をあらわし……この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ……という一篇だった。
 雄一郎がそれを読み終わると、義兄がさっさとあとを継いだ。
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
 アーメン、と雄一郎も応唱した。
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「布団は要らない。明日の朝は、始発で帰るから」
 雄一郎がそう言うと、「夏だから畳に寝ても風邪を引かんだろう」と義兄は独りごち、「とにかく風呂から上がったら、ちょっと飲もう」と言って、先に部屋を出ていった。

「あんた、今、忙しいんだろう。ゼネコンの贈収賄の方は中休みか」
 雄一郎がそう探りを入れてみると、義兄は「今、ほされてる」とあっさり応えた。
「へえ……」
「そういうときもあるさ」義兄は恬淡としたものだ。
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票めくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだと言う空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「上と意見が合わへんのか」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
 雄一郎には詳しい事情は分からないが、地検にも不毛なパワーゲームがあるらしく、霞が関や永田町の意向が絡んでくるとさらに泥沼になり、土台、そういう駆け引きは向かない義兄だから、それなりに苦労はしているようだった。とくに貴代子が雄一郎を捨てて選んだ男が反体制の傾向のある人物だったことで、雄一郎ともども身内の思想偏向を問われているという事情もある。雄一郎にしても、今でも定期的に公安が自宅周辺をうろついているし、人事考課の覚えもよろしくない。
 義兄との間には、貴代子をはさんでずいぶんいろいろな事があった。大学出たての尻の青い警官一人の女房が、町内会に誘われて原発反対の署名一つをしたのが、つまずきの始まりだった。貴代子自身はまったく思想偏向はなく、町内会での反対運動の音頭とりをしたのが労働団体の女性幹部だったことが後になって分かったときも、きょとんとしていたぐらいだった。ともられ、そのおかげで亭主にはアカのレッテルが付き、義兄も同じく十年近くも冷や飯を食わされる羽目になったが、貴代子の自由な精神こそ、身に覚えのない中傷で癒せないほど傷ついた。そして雄一郎も義兄も、それをどうすることも出来なかったのだ。
 保身のために、男二人がどんなに臆病だったか。中傷には耐えたが、貴代子を守るために男二人は具体的に何をしたか。義兄が、こうして毎夏貴代子を待つのも、己の自責や後悔の念と無縁ではないだろう。しかし、雄一郎が亭主として女房一人守れなかった事実の何分の一かは、もっと卑近な男と女の話だった。それは、結婚したことのない義兄には分からないだろうし、雄一郎も口にしたことはない。
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「ああ」
 義兄がウィスキーと氷を運んだのは、昔の自分の部屋だった。裏庭に面した広縁があり、そこに籐の椅子とテーブルが置いてある。開け放した縁側にすだれを下ろし、蚊取線香をたいてそこに座った。本棚にはかつての書物がそっくり残っていて、机もスタンドもベッドもそのままだ。多分、帰省している間はそこで寝ているのだろう。寝具のカバーが乱れていた。
 しかし、懐かしいそれらの光景を眺めても、雄一郎の頭からはまだ現世の雑事が離れず、気がつくとそれとなく義兄の顔を窺っている有様だった。
「そういえば……太陽精工の総会屋対策の話、そっちでは聞いてないか」
「小耳にははさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「いや、別に。知り合いが羽村工場に勤めていて……。四課の方からちらりとそんな話を聞いたんで、思い出しただけだ」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったところだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「そうだな」
 この優秀な義兄相手にヘタな探りを入れると、逆に痛い腹を探られる。義兄のもとへは、義弟の賭場通いの噂は届いているのかいないのか、そんなことはちらりとも窺わせない淡々とした表情で、義兄は雄一郎を見つめていた。
「祐介。八王子のガイシャなんだが……。ホシが二人いて、それぞれ別々に侵入した、と考えてみてくれ。最初の賊がガイシャの頸を絞めて逃げ、それから二番目の賊が知らずに入ってきた。この二番目の奴が、もう一度ガイシャの頸を絞めた可能性があるんだ……」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「それははっきりしない。しかし、最初の賊の自供では、頸を絞めた後に女は鼾をかいて眠り込んだというんだ。だから、すぐには死ななかったんだろうし、いつ死んだのかも分からん。第二の賊の侵入前か、侵入後か……」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「凝血や肺臓の水腫が見つかった。多分、急性の窒息死ではないだろうという程度の話だが」
「圧痕はどうなってる」
「一回目のは扼頸で、はっきりした表皮剥脱や皮下出血がある。二番目の圧痕は、肉眼で判別できる所見はない。ただし、たしかに何かの圧迫があったということは、弾力繊維の染色検査で確認された」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「ああ。それは出来ない。二番目の賊がガイシャに触れたというのは、あくまで可能性の話だ。ガイシャがそのとき、二番目の賊を自分の手で掴んだらしい形跡もあるんで、ならば賊もガイシャに触れたのかなと……」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「ほんの少し、生活反応の痕跡が見つかったから、生前の圧迫だったとも言えるんだが、ひょっとしたら死亡直後だった可能性もあるしな」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「ああ」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「ああ。頸絞めた後に、金品を盗んだ」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」と義兄は言った。「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に頸を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
 義兄の意見は筋が通り過ぎていて、いつも思わず苦笑いが出る。雄一郎は首を横に振った。「それが出来たら苦労はない。第二の賊は目星はついているんだが、引っ張るにしても、物証がまったくないときてる」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「ああ、今のところはな。でも、このまま引き下がるわけにはいかんから、なんとか物証は探す」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないからやったやらないの水掛け論だ」
「でも、あんたは針の目でも探すだろう?」
「それで、ほされてるのよ」
「なあ、あんたが担当検事ならどうする?仮に頸を絞めたという自白が取れて、状況証拠も固まったが物証が出ないケースの場合、起訴する?」
「そうだなあ……・。場合によりけりだが、公判で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「あんたならそう言うと思った」
 ウィスキーは美味かった。風呂上りの火照った身体に夜風が心地好かった。さまざまな懸案はとりあえず浮きも沈みもしない状態で、ウィスキーの池に漂っていた。これといった理由もなく「東京へ帰りとうない」といった愚痴がぽろりと出たら、義兄は聞こえたのか聞こえなかったのか何も応えず、ただちらりと微苦笑を見せた。
「雄一郎。お前、目が赤い」
「この二ヶ月休みなしだから」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「それまでには何とかなるだろう。とにかく、今抱えている事件を片付けないと」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「それは違う。登山は、退いても何も減らへんやないか。刑事の仕事は、一つ退くたびに、確実に何かが減っていく」
「何か、というのは」
「地歩みたいなもの……かな。手柄や地位の話やない。休みなく一歩一歩固めていかないと、己が立つ場所もないような感じだ。事件というのは、毎日毎日起こるからな……。退きたくても退く場所もない。せめてホシを追うことで、自分がやっとどこかに立っているという感じだ……」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「ウィスキーのせいだな、多分」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
 別に構えたふうな口ぶりでもなく、義兄はさらりと言った。どうせ、義兄の耳には届いているだろうと雄一郎も思っていたので、驚きもなかった。広い東京のかたすみをごそごそ這い回っている刑事一人に過ぎなくとも、間違いやミスだけは見逃されることはなく、さまざまな口を借りて、あちこちへ漏れていく。ただし、それをわざわざ義兄の耳に入れる連中には、例によって積年の悪意がある。
 しかし義兄は、だからどうだといった表情も言葉も漏らさず、ただ「大丈夫か」と尋ねてきた。《何が?》と思いつつ、雄一郎はうなずくだけに留めた。
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「そうかな……。多分、そういう時期なんかも知れへんが、俺はいったい悩んだり恨んだりするために、生きてるのかと思うことがある」
「猿でも悩むそうだ」
 義兄はさらりとかわして、微笑む。
「俺は猿より邪悪だぞ。邪悪に悩んでる」と雄一郎は言い返す。
 雄一郎は、自分と相手の双方に対する悪意や焦燥を感じながら、しかし、やはり微笑みしか出てこなかった。三十四年間にわたって根を張ってきた邪悪には、恨みや憎悪や、後悔や愛情などの細かい根が無数にからみつき、どれをほぐすことも出来ないところにウィスキーが沁みこんだからだ。
 義兄は俺の邪悪な心根を分かっているのだろうかと訝りながら、雄一郎は義兄の清涼な顔を眺めた。義兄はこちらを見ていた。高潔そのものの精神の上に、貴代子とほぼ同じ造形の顔がのっているというのは偶然だとしても、何よりその目の表情が貴代子と同じなのだ。この旧家の凛とした静けさの裏で、激しい情念をためていた貴代子と同じ目をしている。
 ああ、この男は分かってるのだなと雄一郎は思う。貴代子と雄一郎がこの家の空気から飛び出して堕ちていった世界へ救いの手を差し延べながら、その実、ひそかに雄一郎と貴代子の世界に吸い寄せられていた男の目だ。憐れみと懐疑と愛情が分かちがたくなっている男の目だ。その目に、理性の靄がかかっている。
 雄一郎は、際限なく自己嫌悪と悪意の螺旋階段を下りながら自分の片手を伸ばし、テーブルの上にのっていた義兄の片手の甲に触れた。ちょっと撫でた。
「邪悪の手か」と義兄は微笑む。「痛恨の手」と雄一郎は応え、手を引っ込めた。そのとたん、何かを引きちぎりたいような衝動に駆られる。
 少し間を置いて、義兄の声がした。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「意志だよ、意志。すべては」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
 あははと義兄は笑い、「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」などと言った。
 そういえば、この義兄に尻を叩かれて、貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは、二十歳のころだったか。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられた。
 しかし、頭脳明晰な貴代子はたしか『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだった。もうはるか昔、雄一郎の目の中で、絶対や永遠という言葉と一つだった美しい貴代子がそこにいた。
 男二人で飲み続け、午前三時ごろに義兄はベッドに横になった。広縁の籐椅子からその姿を眺めながら、雄一郎はその同じ場所で初めて貴代子を抱いたことを思い出す。
 二十一歳の秋、祐介は司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家で連休を過ごした。貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じた。初めてだから拙いやり方になったが、そのとき二人で喘ぎながら、そこから始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかっただろう。兄弟の絆や男同士の精神のつながりが、そのとき一度に変質したそのベッドで、強固の一言に尽きる意志の力で己の孤独や嫉妬と折り合いをつけてきた男がひとり、安らかに手足を投げ出して眠っている。
 そして、その高潔な魂を再々裏切って、貴代子ではない女のことを考えている自分がいる。(p.245~255)

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実生活に何の役にも立たない歴史や古典を読むのは義兄の感化だが、義兄のようにそれを精神の糧だと思うことはない。
 朝、出がけに義兄の書棚から失敬してきたカビ臭い文庫本はラシーヌの詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生した記憶がある。(p.265)

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加納祐介が涸沢で雪崩に埋まったときか。(p.296)

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 三日未明に駆け戻って以来の部屋は、義兄が空気を入れ換えたために、四日間こもっていたはずの臭気は消えていた。明かりをつけると、台所のテーブルに重ねてある新聞のほかに、紙一枚が目に入った。その瞬間、ある予感に頭を刺し貫かれながら、雄一郎はそれを手に取った。
 B4判のコピーは、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊から写されたもので、昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所だった。その欄外に、義兄の直筆の走り書き。
『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』
 普段、達筆な義兄の字が、憤りのせいか跳ねていた。《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者かだった。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つで内々にいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の義兄の机に回ってきたのだろう。しかし、贈収賄疑惑を楯に、永田町と霞が関と建設業界の癒着構造という絶対の聖域を切り刻もうとしている検事一人、最終的には更迭もありうることを思えば、係累のちょっとした非をあげつらった紙一枚の脅しなど、実質的名被害は何もない。ただ、四方八方動脈硬化だれけの権力機構の片隅で、検事一人と刑事一人が共通の弱みをまた一つ握られて、辞職する日まで積み重なっていくだろう中傷の一ページになるだけだった。
 雄一郎は続いて《問答無用》の一語を咀嚼した。普段の中傷には耳を貸さずとも、たまたま目の当たりにさせられた義弟の不実に驚き、憤った男の一語だという気がした。遵法の精神と、社会に対する清廉潔白だけは守りぬくことを肝に銘じ、義弟も然りと信じてきた男の驚愕と同様が伝わってくる。不正に大小はなく、身内の感情もないと言い切る男が、実は個人的な心情に駆られて、雄一郎の不実を激しく責めている一語でもあった。これも撞着といえば撞着だが、相手の痛い腹に錐を刺し込むような直截さが、いかにも加納祐介らしかった。
 いや、直截だろうか。《問答無用》はむしろ、なぜなのだ、なぜなのだと自問し、うろたえ、思い余った末の一語かも知れない。
 そして、最後の一文。雄一郎はそれを長い間見つめ、何なのだこれはと独りごちた。義兄のいう《罪》は、職権濫用そのことより、不実に落ちて生きている人間の弱さを指していた。あえて悪事と言わずに《罪》と言い、事を抜き差しならないところまで突き詰めて、あんたは何が言いたいだと、雄一郎は虚空に呟く。人を罪人と断罪しておいて、その罪を自分が代わりに負うことが出来たらというのは、いったいどういう了見なのだ。何の権利があって、そんなことが言えるのだ。罪といえば、どちらも腐るほど背負っている者同士、誰が誰の罪を贖うというのだ。(中略)
貴代子もその兄も、今は亡い父母さえ心から慈しんだことはなかった。(p.380~385)

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 辻村は受話器を取り、「加納という人から」と言って、受話器を差し出した。
 受話器を受け取りながら、雄一郎の腹には疑心暗鬼が渦巻いた。どうせまた、噂は桜田門を駆けめぐって検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、義兄の加納祐介が警察に電話を入れてきたのは初めてだった。何をそこまで案じることがあるのかと思うと、雄一郎の方が当惑した。
 しかし、予想に反して義兄の電話はひどくそっけなかった。《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》
 義兄はそれだけ言い、相手の声も聞かずにさっさと電話を切ってしまった。(p.470)

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『義兄殿
 長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従って先週、休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』

『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに(中略。セリフ集を参照してください)』(p.496~498)

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マークスの山(文庫・下)

 ラッシュアワーにはまだ少し早い午前七時、東京駅の山手線ホームにはめっきり低くなった秋の日差しがあった。開店したばかりのキヨスクの脇に、加納祐介は片手に書類カバン、片手に朝刊というサラリーマン然とした恰好で立っており、スニーカーのゴム底の足が隣に近づくと、朝刊から上げた目をまたすぐ紙面に落として「お早う」と言った。
「お早う」と合田も言った。
「可笑しいな。なんでこんなふうなんだろう」加納は言い、それはこっちの台詞だと思いながら、合田も「ああ」とだけ応えた。共にろくに寝ておらず、食っておらず、あれこれの公私の懸案を避けがたく一緒にして思い巡らし続けた末に、こうして公共の場で面を突き合せて出てくる第一声が「お早う」とは。そして、それに続くのは当面の仕事の話なのだが、思えばこの男とは、昔から山ほど抽象的な議論はしたのに、日常会話はおおむね貧しくぎこちなかったのだった。それを貴代子はいつも嗤い、無口の男二人揃ったら、黙って山でも歩くしかないわねと、最後の日々は刺すように冷ややかだった。
「俺も、蛍雪山岳会の名簿がこんなところで日の目を見るとは思わなかった。平成二年の年明けに君に手紙を書いただろう?前の年の夏に北岳で発見された白骨死体の身元が割れて、それが暁成大学の出身者だった。野村某という名前だったと思うが……」
 加納は朝刊に目を落としたまま言い、合田もまたあらぬ方を向いたまま耳を尖らせ、寝そびれて冴え冴えと痛むこめかみに、その一言一句を刻み込んだ。
「わざわざ名簿を入手した理由は」
「野村を殺したという男が出てきたのが平成元年夏。(中略。セリフ集を参照してください)」
「あんたの担当事件だったわけじゃないのに」
「いろいろ耳に入ってきたからだ。野村という男の身辺がきれいとは言いがたかったのが一つ。実は単独行ではなかったという話もあったのが一つ」
「そんなバカな話。単独行でなかったら、一緒にいた仲間は死体遺棄やないか」
「だから調べたんだ」
「不正な事件処理があったとか言ってたが」
「平成元年に甲府地検が被疑者を起訴したとき(中略。セリフ集を参照してください)」
(中略)
「ともかく、北岳の事件と今回の君らの事件は関係ないと思うが、圧力のかかり方が何となく平成元年のときと似ている感じがする」と加納は言った。「本来問題があるはずのない資料がなかなか出てこないこととか、大学事務局を刑事が訪ねただけで過剰な反応があることとか……」
「きっと考えすぎや」
「そうかも知れない。高島平の事件を聞いてちょっと感情的になったんだろう」
「そうか。それで髪、立ってるんか」
 合田はかろうじて笑ってかわし、加納は二秒遅れてやっと、やられたというふうに悠長な照れ笑いを漏らした。「一応、梳かしてきたんだけどな」と。
「特捜部には今、大事な仕事があるんやろ?東邦の根来という記者に聞いた。もういい、その話は忘れよう。俺も北岳の事件はもう一度調べてみる」
「少し時間を置いた方がいい。その調書もどこかが押さえているかも知れないから」
 すでに電車を一本やり過ごしており、二本目が近づいてくる音を聞きながら、加納は手にしていた四つ折りの新聞を合田の手に載せた。間に薄めの冊子がはさんであるのが分かった。
「《S》と《K》には印をつけておいたから、へたに嗅ぎまわるな」
 それだけ言い残して、加納は滑り込んできた電車と入れ違いにホームを立ち去っていった。合田はそのまま電車に乗り込み、動き出した電車の窓から加納の姿がかき消えるまで、手の中の新聞をしばし握りしめていた。(中略)それこを加納が「何となく似ている」と言った、その々ことが代官山の泥棒のときもあったような、なかったような―――――――。
(中略)役職のページにまず一つ、加納の付けた○印があった。
(中略)そして、加納の付けた二つ目の○印は経済学部卒の《佐伯正一》。(p.11~16)

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《(略)うちとしても放っておくわけにいかないので、さっき加納検事に一報を入れました》(p.65)*根来さんです。

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あんたのお知り合いの話じゃないですよ、念のため。*又三郎です。
(中略)佐伯家の手伝いの女が、佐伯から『近々捜査当局の事情聴取があるから』と聞いたというのなら、それは特捜部内で加納らのチームの内偵を潰す力が働き、佐伯を追い詰めるための情報が故意に流されたということだろう。(中略)
「おい、又三郎。俺の知り合いがどうしたって?」
「聞いてたんですか。地検の奴らにあんまり頭に来たもんで」
「いっぺん紹介してやるわ。名前は加納だ。のんびり屋で真っ直ぐな、ええ男やぞ」(p.120)

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そして、それを耳にした加納祐介がいち早く手持ちのネタを流してきた様子を。
(中略)また、そんな言い訳を許すような吾妻や加納でもなかったが、それでも滅多にない同情や援護の手がそれとなく自分に差し伸べられているのを感じると、合田はあらためて忸怩たる気分だった。(p.158~159)

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そんな着地に至る間、合田の腹には今すぐ加納に会いたい、信頼に足る意見を聞きたいという思いが噴出したりしたが、それも無意識に自分で否定した。(p.162)

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「(略)今日、亀有に召集がかかる前に、本部にファックスを送ってきた人物から匿名の電話があってな。その男が、岩田の犯歴を調べろと言うから調べたら、岩田は同じ五十一年にもう一人登山者を殺していた。(略)」(p.179)

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用賀の馬事公苑そばの公務員住宅に住む特捜検事はまだ帰宅しておらず、留守番電話が応答した。(p.189)

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 赤羽台団地三十八号棟に辿り着いたとき、一階郵便受けに溢れているはずの新聞が見当たらず、元義兄がまた寄っていったのかと思いながら五階に上がると、珍しいことに本人が中にいた。セーターにスラックスという普段着で加納祐介は畳みに散らかった本の山を片づけており、台所のテーブルには飲みかけのウィスキーがあった。
「今日は官舎の秋祭りでな。うるさくていられないから来たよ」
 そうか、今日は日曜だったかと思いだしながら、日中に元義兄の姿をこうして見るのはずいぶん久しぶりだと合田はぼんやり考えた。それにしても、日曜日に官舎を抜け出して足を運んでくるのが元義弟のアパートというのは、この男にも家は家でない、生活は生活でない。ともに三十も過ぎて人並みの人生をなお持てないでいることの原因が、自分と貴代子の離婚にあるのはいやというほど知りながら、改善しようとしない怠惰はお互いさま、どうしていいのか分からない困惑もお互いさまなのだった。
「この間、君の留守番電話を聞いた」
「仕事が苦しいと、人の声を聞きたくなるんやろうな。(略)」
 そうと聞けば、加納には状況の厳しさは即座に判断出来たはずだった。ちらりと普段の検事の顔を覗かせ、「時間があるんなら、一風呂浴びるか?すぐに沸かそう」とだけ言って風呂場へ姿を消した。
(中略)風呂場から戻った加納に「これ、あんたも興味あるはずだ。読んでいいよ」と言った。
 加納は入手の経緯は尋ねず、野村久志を北岳に埋めた男の遺書をしばらく見つめ、読み始めた。その間に、合田は押入れに眠っていたザックや防寒具の上下、雨具、アイゼンなどの用意をし、あえて台所の加納には声をかけずに先に風呂に入った。どちらもひときわ上背のある大の男が二人、面を突き合わせるには古い公団住宅はともかく狭すぎ、息苦しすぎるのを久々に感じ、それが今さらながら急に面はゆくなったせいもあった。
 しかし、加納には元から分かっていたはずだ。昭和五十一年十月、木原たち五人が野村久志を連れて北岳に登ったことを京都府警の公安が知っていたのだろうことは、野村が消息を絶った後、野村を監視下に置いていた証拠を含めて警察と検察が一体となって隠蔽を図ったことから明らかだった。おそらく木原郁夫の出自や閨閥と、大学時代の警察との関係の二つの理由から隠蔽が行われたと思われるが、さらにそれは司直各々の内部の権力争いに利用されたのであり、平成元年から二年の初めにかけて京都にいた加納が過去の不正を掘り出したのも、いくらかは検察内部の派閥抗争の末端に巻き込まれたのが始まりに違いなかった。そして、畠山殺しに始まる一連の事件のおおまかな姿を、霞ヶ関や桜田門があらかじめ知っていたとすれば、加納も例外でなかったはずはない。
 しかし一方では、折りにふれて元義弟にそれとなく「こんな話がある」と事件の背景を知らせてきた男の真意は、一貫して真実を求めるものだったはずだと、合田は信じた。現場の刑事の比でない派閥抗争の中に身を置きながら、直接に事件と関わりのない部署で、どうやって故人の良心や社会正義を守るか、自分の職と人生を守るか、加納は加納なりに苦闘してきたのだ、と。それにしても、すでにそれぞれ学生時代とは違う顔をし、違う屋根の下にいながら、こうして今も幸福だった過去の記憶を通して独りの男を見ている自分は、《マークス》の五人とどこが違うのだろうとも思った。
 合田が風呂から上がったとき、加納は台所の上がり框に腰を下ろして元義弟の登山靴を磨いていた。長く履いていなかったので、皮革に少しカビが生えていたやつだった。加納はそれにクリームをすり込みながら、背を向けたまま一言、「山とはなんだろうな……」と呟いた。
「そうだな、なんだろう……」
 合田は同じ言葉を返しながら、ふいに自分の胸をよぎっていくものがあるのにきづいては、何十秒か元義兄の背中を見ていた。(中略)あのとき、たったの一言が出なかった理由はいったい何だったのだと一瞬思い、結局、互いに口に出したら最後というような何かの塊だったことだけ呼び戻した後、合田は元義兄の方を叩いて「おい!」と声をかけていた。
「正月までいつ会えるか分からんから、一杯やろう」
「へえ。登山の約束、覚えてたか」
「忘れれるわけがない」
 午後三時、加納持参のスコッチを軽く一杯ずつ空けた。「無理だけはするな」という可能の言葉に送られて再び部屋を出たとき、合田は理由もなく、自分の心身が少し落ちついたような心地がした。(p.328~332)

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マークスの山(文庫・上)

マークスの山(上) 講談社文庫
マークスの山(上) 講談社文庫
マークスの山(下) 講談社文庫
マークスの山(下) 講談社文庫

 その夜は、四日分の新聞と一緒に封書が一通届いていた。もう何年もの間、近しい身内もいない一刑事に宛てて私信をよこすような奇特な人間は一人しかおらず、差出人の氏名は確かめるまでもなかった。名を加納祐介といい、大学時代からの知己だったが、ある時期その実妹との婚姻で義理の兄になり、その後離婚によってまた他人に戻った人物だった。もっとも、その間の経緯も種々にごじれた感情も、最近はもうどうでもよくなって、年に数回相手が自分に手紙をよこす理由をもはや深く詮索することもない。当人は、ほぼ二年毎に地方転勤を繰り返す検事稼業のせいで、いまは京都におり、先月か先々月には嵯峨豆腐が云々と、浮世離れした長閑な話を書き寄こしたところだった。そうして、今度は何を言ってきたのかと思い、手紙を開きながら、合田は自分が変わったのだろうかと一寸自問していたりしたが、数年前なら開封もせずに捨てていただろうに、最近は内容によっては返事を書こうという気持ちにさえなるのは、自分でも不思議な気分だった。
 その日の元義兄の手紙は、『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』という達筆の書出しに続いて、『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった』などと続いていた。
『……あれは実に醜悪だった。(中略。セリフ集を参照してください)』
 新年早々、なんということを書いてよこす奴だと思いつつ、合田は加納の若々しい美貌を思い浮かべた。一人一人が独立した国家機関である検察官の建前が、加納という男の中では名実とも生き続けている。その結果の若白髪だが、あと十数年我慢すれば、それも美しいロマンスグレーになるだろう。同じように私生活は最低だが、貴様の方がまだマシだと思いながら、合田は、四日分まとめて呷ったウィスキーの勢いで、拙い返事を書いた。(p.104~106)

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何ひとつピンと来ない肩書一つの向こうに、ふと疎遠にしている現職検事の加納祐介の顔が浮かんだりした。(p.198)

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 下世話な詮索をめぐらせたのも束の間、又三郎がまたちょっと《ほら》と顎で示した裏口から、刑事とは一見して立ち居振る舞いの違う男たちが三人出てくるのが見えた。その一番後ろの一人は、自分の身一つをもてあますような所在なげな様子で少しうつむき、長身を飄々と夜風にたなびかせており、アッと思ったら、虫の知らせというやつで向こうも気づいたか、合田の方へ目を振り向けるやいなやニッと笑って見せた。それは春の異動で東京地検へ移ってきた加納祐介で、思わぬところで面を合わせた戸惑いを、先ずはそうして一足先に笑い流してしまうところなど、いかにも老獪な元義兄らしかったが、合田のほうがひとまず、あんたまで何しに来たのかと思わず声に出しそうになった。
 すかさず、目敏い又三郎が《ほう、地検に知り合いがいるんですか》といった目をよこす。合田は、身にしみついているはずの公私の峻別の不文律が、一瞬にしろ自分の中から消えていたことに密かにうろたえ、苛立った。足早に背を向けて立ち去っていく加納の恬淡とした後ろ姿は、元義弟の戸惑いなど斟酌もしないといったふうで、毛k冊が警察の庭に踏み込むときは踏み込む理由があるのだと言い放っているようにも感じられた。これはたんに検事と刑事という似て非なる立場から来る確執なのか、それとも学生時代からの個人的な人間関係が捩れに捩れてきた末の感情なのか。合田はちょっと考え、くるりと自分も背を向けて「引き揚げるぞ」と又三郎に目で合図を送った。
(中略)また少し元義兄の顔を呼び戻したりした。水戸の旧家の出身で、おおむね挫折というものに無縁な秀才の男と偶然大学のゼミで知り合い、一時期義理の兄弟にまでなった年月も、今となればほんとうにあったのか、なかったのか。近頃は何もかもがひどく不確かだと感じながら、そういえばそろそろ母親の十三回忌だとふと思いだしては、ホームのベンチで開いた手帳の十一月の日付に印を付けてみたりした。(中略)
遠くから聞こえてくる始発電車の響きを聞きながら、合田はまたちょっと元義兄の顔を慰みに思い浮かべ、続いて二卵性の双子であるその妹の顔を思い浮かべていた。大学を出てすぐに結婚し、五年前に離婚して今はアメリカにいるその妹は、名を貴代子といった。種々の事情で終止符を打つしかなかった結婚生活の記憶には、なおも消えない棘が刺さっていたが、そんなことを久々に思い出すのも、貴代子の実兄である加納祐介にでくわしたせいだ、それ以外に何がある、と思った。(p.215~219)

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この春に東京地検に異動になってから、いつも留守の間にやって来て、ちょっとした資料整理や書き物に使い、そのつど簡単な書き置きと仄かに整髪料の匂いを残していく男が、その夜も寄っていったのだ。五年前に合田が加納貴代子と離婚して以来、気まずさもあって疎遠になった加納との仲だったが、互いにあえて顔を合わさないようにしている今の関係を、部屋に残されていくその香り一つがいつもちょっと裏切っていく。そういう加納も、その本人にこうして合鍵を渡している自分自身も、どちらもが何か必要以上に隠微だと思いながら、合田は書き置きをざっと斜め読みした。

《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。(中略。セリフ集を参照してください)》

《そうそう……》と、加納は髪の端に小さな字で書き足していた。《山梨の友人から入手したニュースを一つ。(中略。セリフ集を参照してください)》
 合田は、三年前に隅田川沿いの工場で見た老人の顔をちらりと思い浮かべた。代官山周辺でいくつか些細な窃盗事件が重なり、一件で家人が怪我をしたため強盗罪が適用された事案の参考人だったが、別件で老人の事情聴取に来た山梨県警の警部から、後日『殺人を自供した』と聞かされたときは、ちょっと狐につままれたような感じだった記憶があった。そういえばそれと前後して届いた私信で、加納は山梨の事件にちょっと触れていたのだったが、借りに県警や地検の捜査に何らかの《問題があった》としても、自分の担当でもないそんな一件に、今もなにがしかの関心を払っているというのは、多忙な検事生活から考えて少し奇異な印象も受けた。警察以上に魑魅魍魎の巣窟らしい検察の中で、おおかた何かの見えない糸が今の今も張りめぐらされており、山梨の事件の処理をネタにした内部の潰し合いがあるのかも知れないと思ってみたが、元よりそんなものは一刑事に想像出来る世界ではなかった。(中略)
 手帳をしまって、ぴかぴかに拭き上げられた手元の食卓をちょっと眺めた。早朝着替えに戻ったときに自分が放り出していったはずの新聞や湯飲みを片付け、生ゴミを片付け、ついでにテーブルを拭いていった男は、布巾を絞りながらいったい何を考えていたか―――――――。考えだすと、加納の顔は貴代子に重なり、微妙であったり単純であったりした大学時代からの男二人女一人の年月に重なり、また少し中心を失った位相に落ち込むような脱力感とともに、合田はいつもの当てどない気分にたどり着いていた。別れた女への執着はもうないが、一方でその双子の兄である男の残り香を自分の住まいで嗅ぎながら、俺は何をしているのだ。加納も加納で、いくら十五年来の友人でも、実の妹との結婚を破綻させた男の家へ足を運んできては、何を考えるのだ。どちらも、まるで傷が治るのを恐れるようにつかず離れず、利害はないが、明確な感情があるわけでもない。なぜここにあるのか分からない、さして意味もない、他人の整髪料の匂い一つが苛立たしく、切なかった。(中略)
 明日の葬儀で自分は場内整理係だと、わざわざ書き置いていった男の意図はあえて考えずにおいた。(p.237~240)

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 二百人ほど入れる館内には、黒い頭がほんの五つか六つ散らばっているだけだった。その中に一つ、深く垂れた頭をみつけるやいなや合田は急いで後ろの席に着き、前の座席の方を揺すって「おい」と声を殺した。「こんなところで寝るな」
「ああ、来たか……」と呟いて、加納祐介は欠伸をした。
「まず財布を確かめろ」
「財布は……」加納はダスターコートの胸を探り、「無事だ」と悠長にうなずいた。
 人けのない暗がりに無条件に危険を感じ、暗闇に散っているいくつかの頭が全部スリと痴漢に見えた自分がおかしいのか。昔、加納兄弟と一緒によく来た映画館だが、以前はこんな感じではなかったと合田は思った。昔はスクリーンも明るく、見たのは貴代子の好きなコメディーが多かったが、今スクリーンに映っているのは、モノクロのうっとうしい冬の画面だ。
「ここも変わったな」などと可能は呑気に呟いた。
「ああ……」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「葬儀、どうだった」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
 そんなことを言いながら、加納は前の座席からひょいと、告別式の式次第を印刷したカードを後ろへ差し出した。弔辞を読み上げた関係省庁職員、団体などの名前が並んでいたが、その数は少なく、加納の話では、刑事局長のほかはみな次長級で、弔辞も短かったという。式はことさらに質素で、花輪には献呈者の名前も付かなかった。会葬者以外には誰が参列したのか分からないような配慮がなされたのは、徹底したマスコミ対策だ。遺族は香典も辞退したので、会葬者には会葬御礼のハンカチ一枚が一律に配られただけで、葬儀社側も会葬者の名前は知らず、記帳簿はそのまま遺族の手に渡された。
 加納は、参考までにと言い、参列した役人の主だった顔触れの肩書を淡々と連ねた。合田は後ろの座席で素早くメモを取った。
「故人の風評はどうだ」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない」
「何もなくて殺されるはずがない」
「結論を急ぐな。王子の事件については、法務省も検察もあくまで、一現役検事を被害者とする事案という認識だし、それ以上でも以下でもない。にもかかわらず今日の葬儀はなぜ、あんなふうになったか、分かるか?」
「いや」
「分からなくていい。常識では考えられない口出しをしている者が、法務省の上のほう、ないしは永田町周辺にいるということだからな。その結果、我々検察ははなはだ不本意ながら、組織として常識では考えられない過剰反応をして、わざわざ君らの耳目を集めるというバカをやったというわけだ」
「あんたたちが過剰反応した《上の方》って、誰だ……」
「それは分からん」
 合田は、どこまでも物静かな加納の声を耳に沁み込ませ、ゆっくりと反芻しては、一つ一つ慎重に判断を保留した。ふと我に返ると、その短いひとときは、常に追われ続けている日々の中にあいたエアポケットのようだったが、そういえば加納兄妹と過ごした賑やかな年月の底にあったのは、この静かに満たされていく時間だったのだろうと思うと、場違いと知りつつ、何かしら渾然とした無名苦しさが湧きだしてくるのを止められなかった。これがいやで会わないようにしてきた男なのに、いざとなればネタが欲しい一心ですり寄っていく自分が切なかった。あるいは、大事なネタの話をしている最中にふと脱線して、一人の男のことを無性に考えていたりする自分が。
「ともかく《上の方》の横やりが、あまり世間に騒がれたくないという程度の動機だとしたら、一番ありそうなのはご大層な縁戚関係か閨閥。もしくはその式次第にある、法曹界や大学OBのネットワークとか……」加納は言った。告別式の式次第には、暁成大学法学部同窓会、同大学蛍雪山岳会OB会などの肩書が並んでいた。斎場周辺で七係が把握した会葬者のうち、素性不明のスーツ姿の男たちの大半は、出身校の同窓会関係者だったようだった。
「ただし、同窓会はまずい。そこは日弁連会長や霞ヶ関の住人がいろいろ揃っている。当たるんなら、山岳会のほうが安全だと思うが、そこも事前に勤め先を調べてからにしろ」
「松井浩司は山に登っていたのか……。遺体は日焼けしてなかったが」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
 加納は、自分の座席の背にのっている合田の手をつつき、微笑んだ。その加納の手も白かった。ともに山歩きで真っ黒になっていたころ、夜に大学の守衛に泥棒と間違われ、学生証を見せたら、写真と顔が違うと言われたのはもう遠い話だった。
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「ああ。新宿と上野で外国人の殺し合いが五件。盆休みも取られへんかった」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「疲れてるんやろ。つい出てしまう」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「やめてくれ、アホ」
「本、読んでるか」
「ああ。ぼつぼつ……」
「なあ、正月に穂高へ行かないか。二人で……」
「穂高のどこへ……」
「北鎌尾根から槍ヶ岳。前穂北尾根でもいい」
 加納はスクリーンの方へ向けたままの顔を動かそうともしなかったが、少しトーンの上がったその声から、ちょっと顔を緩ませているのが分かった。学生時代からずっと、年に数回は加納と二人で山へ登ってきた年月も自分の離婚とともに終わり、二度と一緒に歩くことはないと合田は思ってきたのだったが、閉ざしていた扉を再び軽々としなやかに開けてみせたのは、今回もやはり加納の方だった。春からそれとなく周到に機会を窺っていたか、それともたった今思いついたのか、どちらにしろこの男には自分の裸の心を覗かれている、この自分自身がそれを許している、と認めざるを得なかった。
「ええな……。北鎌か……」と合田は呟いた。
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「俺は二年ぶりやな……。ザイル、腐ってるわ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ああ」
「ところで、会葬者の記帳簿だが、警察は最低限遺族と交渉する権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、本心は複雑なはずだ。俺なら何とかして当たってみるが」
「そのつもりだ」と合田は答えた。
「気をつけろ。深追いはするな」
「ああ」
 前の座席から、加納は後ろ向きに手だけ出してきた。合田はそれを握り、席を立った。「居眠りするな」と声をかけると、「心配するな」と加納は応えた。
 帰り道、合田はどこかのショーウィンドーに映った自分の顔を見た。変わりばえしない自分の顔だったが、個人生活の範疇にいる一人の男と会っていた短いひとときの間は、たしかに何かの覆いが一枚剥がれていたような面はゆい感じだったと思った。(p.251~256)

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八日未明の王子署の裏口で、合田が一検事と交わした一瞬の目線を見逃しはしなかった男だ。いざとなれば、それをネタにあれこれつついてくる気だと見て取ったとたん、入手先を伏せて仲間には見せようと考えていた告別式の式次第は、合田のポケットの中で再度日の目を見る機会を失った。そのとき、合田の中で数秒の葛藤はあったが、どこまでも職務の世界に、元義兄を含めた私生活の人間関係を持ち込むのはいやだという思いが、あらためて噴き出したのだった。(p.273)

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 貴代子は、双子の兄祐介と理想主義の骨を分かち合って生まれてきたような女だったが、その頭脳は兄以上に浮世離れしており、当時は東大理学部の研究室で量子論の博士論文を準備していた時期だった。(中略)
兄の加納祐介も、六十年の春の異動で大阪地検から福井へ飛ばされ、以来地方を転々とした後、東京へ戻ってくるのに七年かかった。しかしそれについて本人は一度も触れることはなく、合田に宛てた手紙ではただ、貴代子を責めてくれるなと折にふれて懇願してきただけだった。誰が悪かったのか、何がほんとうの原因だったのかという自問は、そうして今もそれぞれの胸のうちにしまわれたままになっている。(中略)
最終的に妻より警察を取った自分という人間への憎悪や自嘲を、『アカ』という言葉で他人から突きつけられる不快も、結局のところ、どこか快感と紙一重の隠微さなのであり、たとえば加納祐介もそれを知っているから沈黙するのだ。(p.281~283)

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 合田はちょっと考えてみる。十九の夏、大学の図書館で知り合った加納祐介に誘われて初めて登った夏の穂高に始まり、去年夏に最後に独りで縦走した奥秩父まで。貴代子と離婚するまで夏も冬もいつも加納と二人で登り続けた日々は、ひたすら長閑に浮世離れしていたような記憶だけが残っているのだったが、あの世界は狭かったのか、広かったのか。あるいは、加納兄妹と疎遠になってから独りで近場の山を歩き続けてきた日々は、いったい閉じていたのか、開かれていたのか。(p.339~340)

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「地検の方です。そうそう、加納祐介検事にはお世話になってますよ。虫も殺さぬような端正な顔をして、六法全書が服を着て歩いているようなあの細密主義はなかなか潔い。今はちょうど国税が告訴に踏み切ったある法人の、会計処理の解釈でもめてましてね。加納検事は六十からある関連子会社の帳簿を全部見るまでは起訴に慎重なんで、私ら新聞もお預けを食らってる状況でして。……ほら、ちょっと歩きましょうか」
 立ち話は目立つとでもいうふうに根来という記者はぶらりと歩き出したが、その用心深い目配りは、指したり指されたりの検察社会の暗闘を長年覗いてきたら人間はこうなるという見本のようだった。一方合田は、思わぬところで見知らぬ人間から元義兄の名前を聞かさせる戸惑いと、この地検詰めの記者から何か聞けるかも知れないという期待の間で一旦は逡巡したものの、つい後者の方へ気持ちが傾くのを止められなかった。(中略)
 九日夜、池袋の映画館で元義兄に告別式の式次第を渡した加納祐介にも、何かの深謀遠慮があったのだろうか。合田は一瞬考えてみたが、あり得るともあり得ないとも言えなかった。昔ならあり得ないと断言出来たが、長い疎遠の月日を経てこの春にやっと少し取り戻したと思っていた互いの距離も、実はさほど近いものではなかったのかとあらためて考えもした。
 合田が黙っていると、根来は続けて「そういえば最近、どこかで加納検事にお会いになりましたか」と尋ねてきた。合田は即座に「いいえ」と応えた。
「そうですか。加納検事には警察に身内がいるから、リークはそこら辺りからだろうと言う声も耳に入ってきてますよ。あくまでそういう声もあるというだけの話ですが。ご本人にその話をしたら、自分ならもっとマシな話をでっち上げると笑っておられましたけど」(中略)
 池袋の映画館で加納祐介が一捜査員に渡した告別式の式次第は、九日夜の時点では確かにある種のリークだったが、地検の一部で蛍雪山岳会というキーワードが持っていた何らかの意味を承知の上で、加納はたんに警察の捜査を不当に妨げるような情報操作をよしとしなかっただけだろう。地検の一部がやっているリークをリークで牽制し、警察に情報を握らせることによって、警察の捜査への不当圧力を排除しようとしただけだろう。そして加納は当然、今日のような事態に至る何かの鬼門がそこに潜んでいることを、今日まで知らなかったのだ。(中略)
「四、五年前に加納検事が京都地検におられたころに言っておられた。その話も内部の潰し合いの一端だったようですが、山の話で地検内部に不正な事件処理があったと……。今回、蛍雪山岳会の名前が地検の中で流布しているのは、ひょっとしたらその関係化と思ったんですが、ご存じないですか」(中略)
 だいいち、七日の王子の事件発生当初から介入してきた地検が、一部の報道関係者に蛍雪山岳会の名をリークしたのが九日。一方、合田がその名を同じく地検の元義兄から聞いたのは九日夜。(中略)
そしてたぶん、加納祐介もそこまでは知らなかったのだと合田は再度自分に言い聞かせて、元義兄でもあった男については、それ以上考えるのを自分に禁じた。(中略)
 午前四時前、着替えのためだけに赤羽台の団地の自宅に戻り、扉を開けたとき、頭のどこかで予想はしていた通り、空気の中にいつもの微香が残されており、当の加納が少し前までいたのだと分かった。食卓に折り込み広告の紙が一枚載っていて、そこには普段より少し堅さの窺える字でこうあった。
『高島平の一報を聞いて取り急ぎ駆けつけた。(中略。セリフ集を参照してください)』
(中略)そして、加納が京都時代の平成元年に蛍雪山岳会の名簿を入手していたというくだり。根来には白を切ったが、確かに平成二年ごろ、加納が京都からよこした手紙には南アルプスの白骨死体の復顔が云々と書いてあり、々事件の話はついこの間も、かの老受刑者が再審請求を出したという書き置きの文面で触れられていたのだった。もはや、今回の地検の口出しは王子の被害者が法務省官僚だからといった次元の話でなく、もう何年も前から伸びていた地下茎に早々と気づいた結果だという憶測が成り立つところまで来たということだった。また、さらに言えば、九日の時点で蛍雪山岳会を『松井某の一般的な鑑の範囲と考えていた』という加納は、この件の情報に関してはむしろ内部で遅れを取っていたということだろう。元義兄について、そうして三度個人的な感情や疑念を押し退けてみた後、合田の刑事の頭には《山の話》が残った。平成元年の時点ですでに、山岳会の名簿を入手してまで地検が関心を寄せていた《山の話》―――――――。
 合田はその場で押入れを開け、自分宛の古い私信をしばし手当たり次第にひっくり返し、ひっくり返しした。地方勤務の間、ときどき加納が書きよこした手紙はどれもこれも浮世離れした本の話、身近で見聞きした滑稽な人物評、ヒマに任せて訪ね歩いた郷土の旧跡などの話に尽き、実妹貴代子の思想偏向を問われて地検で不遇をかこつ我が身を茶化して恬淡としている印象があるばかりだったが、大事な話をそうだとは言わない検事の習性で、たぶんに日常を装っていたのかも知れない。多くは読み飛ばしただけだったそれらの手紙の中に、南アルプスの白骨死体のほかにも《山の話》はなかったか。どこかの山岳会や暁成大学の話はなかったか―――――――。何もかもがあったかも知れないし、なかったかも知れない。渾然とした記憶の霧の中だった。見たり聞いたりしたのが自分だったのか、手紙の中の男だったのかもときどき分からなくなる。(中略)
それからまた元義兄の私信を当てもなく探し続け、手元がかすかに明るくなり始めているのに気づいて顔を上げると、壁の時計はすでに午前五時過ぎだった。合田は僅かに白んでいくベランダの外の空を仰ぎ、今頃森義孝ははち切れそうな昏い抱負を腹に抱いてもう始発電車に乗っている、とぼんやり考えた。加納祐介は世田谷の官舎で眠れぬ夜を明かし、山のような懸案に占領された頭の片隅で、元義弟のアパートで折り込み広告の裏にしたためた中途半端な文言のことを考えている。そして、片やその元義弟は寝室の畳一杯に古い手紙を散らかしたまま、欠伸の一つも出口を失ったような脳髄の痛みをしんしんと感じているのだ、と。どんな事件も所詮は他人の時間であり、森のように常に強烈な意思力で突進し続けない限り、一刑事や一検事にあるのは自分のものでさえない宙吊りの時間だけだった。(p.353~366)

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マークスの山

マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)
マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)

 年に数回、忘れたころに手紙をよこす男がいる。高校・大学時代の友人。義兄。地方検察庁検事。いろいろ肩書はあるが、十四年も付き合っていると、相手が手紙をよこす理由など、もはやどうでもよくなってくる。ただし、その男の手紙は、普段は筆不精で賀状一枚書かない怠け者に、曲がりなりにも数行の返事をしたためさせる特別な力を持っていた。もっとも切手にあった京都の消印を見たとき、最初に思い浮かべたのは嵯峨豆腐だったが。
 男は加納祐介といった。ほぼ二年毎に地方転勤を繰り返す検事稼業のせいで、今は京都にいる。その夜の手紙は、『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただ」いた』という達筆の書出しに続いて、『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった……』などと続いていた。
(中略。セリフ集を参照してください)
 新年早々、何ということを書いてよこす奴だと思いつつ、合田は加納の若々しい美貌を思い浮かべた。一人一人が独立した国家機関である検察官の建前が、加納という男の中では名実ともに生き続けている。その結果の若白髪だが、あと十数年我慢すれば、それも美しいロマンスグレーになるだろう。同じように私生活は最低だが、貴様の方がまだマシだと思いながら、合田は、四日分まとめて呷ったウィスキーの勢いで、拙い返事を書いた。(p.66~67)*1990年のお正月です。

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 署を出たとき、玄関前の路上に散っていく人影の中に、合田はふとスーツの後ろ姿を一つ見分けた。自分と似たような地平にいるのに、なぜかいつも、自分の日々の喧騒とはかけ離れた涼風の吹いている、一人の男の背だった。
 合田は「おい!」と呼んだ。
 相手はその声に振り向き、白い歯を覗かせて《また飲もう》と目で言ってよこし、そのまま同僚の検事らとともに去っていった。
 合田はその場で少し自分の足を踏みしめた。半年前の春の異動で東京地検へ移ってきた加納祐介とは、春に一度会ったきりだ。今夜の事件で、やはり地検から強制的に駆り出されたのだろうが、意外な再会だった。加納とは身内ではあるが、長年の公私の経緯があって、人前で顔を合わせるのは少々まずい間柄だった。一瞬にしてもそのことを忘れて『おい』はないだろうと反省しながら、一方では自分の無頓着さがおかしく、久々の加納の超然とした笑みもおかしかった。
 そういえば、立ち去っていく加納の背は《とんでもねえよ》と言っているふうだった。加納が言うだろうことは百年一日、分かっている。《捜査現場に端から口を出すところなど、何人たりとも捨て置け。一に証拠、二に証拠。証拠さえ揃えれば、法が判断する》(p.136~137)

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 台所のテーブルに新聞の折込み広告の紙が一枚載っていた。裏にこう書いてあった。

《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。(中略。セリフ集を参照してください)

 加納には、春に会ったときに部屋の合鍵を渡した。誰も知らない避難場所がほしいと贅沢なことをのたまい、合鍵をくれなどと言うのは加納ならではだ。しかし、合田が留守だと分かっているときにしか来ない気づかいも忘れない。双子の妹貴代子と瓜二つの男の顔を、合田があまり見たくないと思っていることを知っているのだ。もう、別れて五年も経っているのだから、それほど気づかう必要もないのだが。
《そうそう……》と、加納は紙の端に小さな字で書き足していた。《山梨の友人から入手したニュースを一つ。(中略。セリフ集を参照してください)
 そういえば、そんな事件があった。(中略)検察の人間として加納が《不快》だというのは、合田も同じだった。(中略)
 手帳をしまって、合田はふと、自分の坐っている食卓がぴかぴか光っているのに気付いた。小まめな加納が磨いていったらしい。貴代子は『掃除は兄さんに任せるわ』と笑っているような自由奔放な女だったが、兄の加納は六法全書片手に、掃除機をかける男だった。若かったころ、兄妹のどちらも、凡庸な自分には眩しい才気と美貌の持ち主だった。
 (中略)過去が完全に過去になるには、自分も加納も、まだ若過ぎる。(中略)
 そういえば、加納が当の葬儀に出るというのはほんとうか。思い浮かべようとすると、どうしても貴代子の顔と一つに重なる加納の顔を、あらためて思い浮かべながら、合田はふとズックを洗う手を止めた。(p.151~153)

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 二百人ほど入れる館内に、黒い頭がほんの五つか六つ散らばっていた。それらをざっと見渡した後、一番端の後ろの方に一つ、深く垂れた頭を見つけるやいなや合田はなぜか慌てた。急いで後ろの席に着くと、腰を下ろすのもそこそこに、前の座席の方を揺すって「おい」と声を殺した。「こんなところで寝るな」
「ああ、来たか……」と呟いて、加納祐介は欠伸をした。
「まず、財布を確かめろ」
「財布は……」加納はダスターコートの胸を探り、「無事だ」と悠長にうなずいた。
 ほかの人間なら心配しないが、スリには加納のようなのんびりした御仁は絶好のカモだ。それとも、人けのない暗がりに無条件に危険を感じ、暗闇に散っているいくつかの頭が、全部スリと痴漢に見えた自分がおかしいのか。昔、加納兄妹と一緒によく来た映画館だが、以前はこんな感じではなかった。昔はスクリーンも明るく、見たのは貴代子の好きなコメディーが多かったが、今かかっているのは、モノクロのうっとうしい冬の画面だ。
「ここも変わったな」などと加納は呑気に呟いた。
「ああ……」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「葬儀、どうだった……」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
 そんなことを言いながら、加納は前の座席からひょいと、告別式の式次第を印刷したカードを後ろへ差し出した。弔辞を読み上げた関係省庁、団体などの名前が並んでいた。その数も少なく、加納の話では、刑事局長のほかはみな次長級だったらしい。弔辞も短かったという。式はことさらに質素で、花輪には献呈者の名前も付かなかった。会葬者以外には誰が参列したのか分からないような配慮がなされたのは、徹底したマスコミ対策だ。遺族は香典も辞退したので、会葬者には階層御礼のハンカチ一枚が一律に配られただけで、葬儀社側も会葬者の名前は知らない。記帳簿はそのまま遺族の手に渡されたという。
 加納は参考までにと言い、参列した役人の主だった顔ぶれの肩書を淡々と連ねた。合田は後ろの席で素早くメモを取った。
「故人の風評はどうだ……」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう、酒、タバコ、女、金。どれも無縁だ。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない。とにかく目立たない。公務員の鑑だな、まるで」
「何もなくて殺されるはずはない」
「法務省は一応は静観の構えだ。検察も、捜査にあたって指揮権は発動しない方針だが……」
「何が静観だ。今日の葬儀のガードの固さは異常だった」
「検察の過剰反応には、捜査上のやむを得ない理由のある場合と、そうでない場合がある。松井の葬儀は、俺の知る限りは後者だ」
「理由がない……ということか」
「ああ。俺の知る限り、今のところ検察の意志というより法務省の意向が強く働いている。地検の内部でも、首をかしげている連中が多い。当たり前だろう?たかが次長ひとり死んで、この騒ぎはない」
 合田は、どこまでも静かで柔らかい加納の声に耳を傾けながら、昔からそうであったように、そのまますべて受け入れ、ゆっくり反芻し、肯定も否定も支援に湧き出るままに任せた。湧き出てくるものの中には、肯定や否定のほかに、過ぎ去った日々の光やかげりの渾然とした旋律も含まれていた。日ごろ自分の回りにはない、何かの風邪が吹いてくるのを感じる。学生時代、加納兄妹と過ごした賑やかな日々、自分の胸を満たした茫洋とした蜃気楼が、未だに身体のどこかに残っている。それが切なかった。
「松井には何かあるな……」
「多分」と加納。
「松井を個人的に知っている者、誰かいないか」
「公務員関係や近親者は、当たっても無駄だ。当たるなら、その式次第に書いてあるだろう、大学の……」
「N大法学部同窓会。N大蛍雪山岳会OB会……」
 今日、斎場近辺で見張っていた肥後たちが、素性をつかめなかった背広姿の男たちの大半は、同窓会関係者だったようだ。
 加納は続けた。「同窓会はまずい。日弁連会長、国家公安委員、省庁幹部、いろいろ揃っている。山岳会の方がいい。ただし、そこも官公庁関係が多いから、事前に調べることだ」
「山岳会か……。山に登っていたのか、松井は。遺体は日焼けしてなかったが」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
 加納は、自分の座席の背にのっている合田の手をつつき、微笑んだ。その加納の手も白かった。二人とも山歩きで真っ黒になっていたころ、夜に大学の守衛に泥棒と間違われ、学生証を見せたら、写真と顔が違うと言われたのは、もう遠い話だ。
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「ああ。新宿と上野で外国人の殺し合いが五件。盆休みも取られへんかった」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「疲れてるんやろ。つい出てしまう」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「やめてくれ、アホ」
「本、読んでるか」
「ああ。ぼつぼつ……」
「そうだ、正月に穂高へ行かないか」加納はふいとトーンの上がった明るい声を出した。話があっちこっちへ飛ぶのは昔からだ。「なあ、二人で行こう。北鎌尾根から槍ヶ岳……。前穂北尾根でもいいな……」
 斜め前を向いたままそんなことを呟く加納の頬に、現世の雑事を忘れたような笑みがふくらむのが見えた。そういえば、合田も無意識に後ろに坐ったのだが、加納も一度もこちらへ振り向こうともしない。
 五年前まで、加納とは年に四、五回は二人で山を歩いていた。合田が加納貴代子と別れてから、互いに顔を合わせるのを避けるように単独行ばかりになった。どちらかが言い出さなければ、二度と一緒に歩くこともないと思ってきたが、ごく自然に、閉ざしていた扉を開けるのは難しい業だ。それを先にやったのは、やはり加納だった。
「ええな……。北鎌か……」と合田は呟いた。
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「俺は二年ぶりやな……。ザイル、腐ってるわ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ああ」
「ところで。会葬者の記帳簿だが……。王子の捜査本部は最低限《見せてくれ》という権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、遺族の気持ちは違うはずだ。言い方ひとつで首を縦に振るか振らんか、まず試してみることだ」
「そのつもりだ」と合田は答えた。
「気をつけろ。深追いはするな」
「ああ」
 前の座席から、加納は後ろ向きに手だけ出してきた。合田はそれを握り、席を立った。「居眠りするな」と声をかけると、「心配するな」と加納は応えた。
 帰り道、合田はどこかのショーウィンドーに映った自分の顔を見た。変わりばえしない自分の顔だったが、個人生活の範疇にいる一人の男と会っていた短いひとときの間は、何かの覆いが一枚剥がれていたような面はゆい感じだった。明日職場に出たときには、その覆いをまた被っているのだろうが。(p.161~164)

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 地検の中で、また泥試合をやっている。今回は、陰湿な中傷の網をものともせずに泳いできた加納祐介が、くわえていたエサをひょいと網の外に投げてくれ、それに齧りついたのが自分だった。誰かに見られていたのではない。検察内部で何かのリークがあって、外に合田の顔があったら、一+一=二で加納が網にかかるだけのことだった。逆も然り。もう十年来そういう外圧の繰り返しだが、どちらもへこたれず、しぶとく生き抜いてきた自信はあった。(中略)
 今夜何度か去来していた加納祐介の顔を再び瞼に浮かべたら、それはいつの間にか貴代子の顔になった。五年も前に別れた女の顔には、最近は、もうあまり肉体の匂いはないのが普通だった。目の前に現れたらどうなるか分からないが、今になって思い出す貴代子の姿は、兄と同じ、凛とした涼風に包まれていることが多い。そういう貴代子が好きだった。(中略)
 一方、大学三年で司法試験に合格した俊才の加納祐介も、司法修習の後、やはり貴代子の思想偏向と私生活を問われて、今年の春まで地方の中でも重要度の低い地方支部を巡ってきた。遂に結婚もしなかった。それを加納に耐えさせたのは、権力が何であれ、貴代子の高潔と合田の剛直な精神のカップルを己の理想と信じ続けたからだろう。
 それが破綻したとき、別れないでくれと号泣した男も、合田も貴代子も、それぞれ試練を乗り越えて今日があった。だが、男二人がそれぞれの社会で生き残るために、貴代子を潰した日々に対する思いは、加納と自分とではいくらか違っていた。女を知らない無菌培養の加納には、合田が貴代子に対して懐いた単純な嫉妬や悔恨の大部分は理解出来なかったはずだ。同じように、己の理想に捧げる加納の高潔な意志と献身と、そのために手段を選ばない一途は、合田には理解しがたい部分もあった。
 加納とはむしろ、それらの愛憎や社会生活の信条とは別の次元で結ばれてきた。それはたった二つの符号で成り立っていた。《山へ登ろう》《ドストエフスキーを読もう》という、単純かつ浮世離れした符号で。
 しかし、それは合田だけの考えかも知れない。今夜、あの根来という記者に、『気をつけてくれ』という一言を託した男がいる。それを受託した根来にとっては《良心の捌け口》だろうが、請託した男の思いの切実さは、百倍にもなって合田の血の中を巡っていた。
 合田はそれ以上、考えるのを自制した。瞼にちらつく貴代子の顔が再度、加納と重なり、情動と精神がごっちゃになり、自戒や怒りや優しい気持ちが渾然となって、今夜はもう、何を考えても実りはないと思ったからだった。(p.226~228)

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 そこでしばらく保留音になり、また別の声が《今、どこだ》と穏やかに尋ねた。同僚検事の手前もはばからない、いつもと同じ加納祐介の声だった。噴き出しかけていた罵声が引っ込み、我ながら呆れ返って受話器を取り落とすところだった。
 いや、加納が電話に出たのが、偶然でないことは分かっていた。佐伯正一の件が特捜部の内偵事項であることを知っている警察官は一人しかいない。電話の主が警察だと分かった時点で、加納には誰だか分かったはずだった。いや、加納だけでなくほかの検事たちにも。
「佐伯の所在、分かっているのか、いないのか」と合田は短く繰り返した。
《不明だ》と加納は応えた。
「だったら、今から佐伯の自宅の強制立入りをする」
 それだけ言って、合田は一方的に電話を切り、無言の拳ひとつを電話ボックスのガラスに見舞った。
 特捜部ともあろうところが、内偵中の人間の所在を掴んでいないということはよもやあるまいと考えた末の確認の電話だった。だが、返事は《不明》。それが事実なら、端的に佐伯は逃げたということであり、諸般の事情を鑑みて、木戸の壊された佐伯の留守宅を覗いてみるのは、警官の職務執行法の権限内の話だった。
 合田は電話ボックスを飛び出し、佐伯の自宅へ向かって走った。自分の行動はよく分からなかった。同僚の前で平然と電話に出る加納の神経も分からなかった。だが、そうして不用意な電話を入れた自分は、特捜部の内偵を気づかったわけではなく、ただひとりで佐伯の家を覗くのが怖かったのだった。怖くてたまらないときに、電話を入れるところはどこでもよかったのだが、よもや身内の警察にはかけられなかっただけだった。加納の声は聞きたくなかったと、勝手なことを考えた。(p.303)

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加納や地検詰め記者からの情報源を漏らしたくないがために、仲間に佐伯の情報を徹底しなかったこと。(中略)
 せめてタバコを吸うために、ひとり現場を離れたときだった。十字路を一つ曲がるともう深夜の静けさが戻る道端で、タバコの赤い火を灯らせている男が四人、こちらを見た。
 佐伯の異変の一報はすぐに地検特捜部へも届いたはずで、同じように駆けつけてきた男たちだった。加納祐介の姿があった。合田の足が自動的に回れ右するより早く、加納の声が「雄一郎!」と呼んだ。
 加納は手招きをし、悠然と合田の袖を引いて、同僚検事たちの前に引き出すやいなや、「俺の義弟だ」と言った。「合田雄一郎。捜査一課の固い石だ。今後ともよろしく頼む」
 巷に徘徊する噂や中小の毒虫をさっさと自分の手で払って、同僚たちに義弟を引き合わせた加納は、そうして先手を取り、清々した眼差しを合田に投げた。合田は軽く会釈だけした。検事たちも会釈した。
「他殺か自殺か、それだけ確かめに来たのです。自殺だったら、目も当てられないところだったので」と検事の一人は言った。それ以上の会話はなかった。
 加納は、《またな》と片手を挙げた。合田も片手を挙げた。
《俺は正しいし、お前も正しい》そう言いたげな毅然とした目をよこして、加納は背を向けた。合田も足早にその場を離れた。
 別の路地へ逃げてひとりになり、合田はやっとタバコに火をつけた。今夜一度に押し寄せてきた数々の狼狽。自責や悔恨の怒号。それらはいつの間にか鎮まっていた。我が道を行く義兄殿に負けた、と思った。
 加納と出会ったためにしばし遠のいていた現場の喧騒を再び耳にしながら、合田はあらためて、四人目の犠牲者でひっくり返った自分の脳味噌を、こねまわしこねまわし、ひねり潰したい思いで探り始めた。(p.305~306)

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(真知子の病室にて)
 かつて、自分や加納祐介が職場で被っていた密告と醜聞のさざ波を、加納貴代子が早くから知っていたように。(中略)
『そうであるべきだ』と加納などは言うが、足を止めても得るものは現実には何もない。(p.346~354)

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 ああ、来たんだなと思った。
 塵一つなく光っている食卓の上に、《冬こそ穂高!》という特集記事の見出しが載った真新しい山の雑誌が一冊置いてあった。『ここを読め』と、加納が何ヶ所もページの隅を折り返している。新素材の防寒具の広告。登攀具の安売りの広告等々。
 加納とはたしかに正月登山の約束はしたが、すっかり忘れていた。かろうじて、これが男二人の個人生活かと思いながら、雑誌を横目で眺め、苦笑いが出た。(p.407)

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 自分も、あるいは加納も、なぜ山へ登るのか。その理由は今でも知らないが、五人の男たちの後ろ姿の一部が、己の姿と重なっているような気がして、合田は自分の五臓が震えるような思いに陥った。(中略)
 理由のない無言の憤怒、不安、陶酔が繰り返し押し寄せ、加納とは真夜中にいきなり殴り合いを始めたこともある。互いの首に手をかけたこともある。
 かと思えば、底雪崩の轟音が下ってくるのを聞きながら、ぼんやりと二人で坐ったまま動かず、《俺たち死ぬぞ》と笑っていたこともある。そのあと雪崩の爆風に吹き飛ばされて、互いの姿がしばし見えなくなると、突然激しい憎しみが走り、次いで《愛してる》と思った。憎しみ、愛していると感じたのは、雪と山と寒さと恐怖と、世界と加納のすべてだ。そうしたことを、これでもかというほどくり返しながら、岩稜が天に向かって続く限り、またひたすら登っていく。(p.425)

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兄と同じように、現世の汚濁を超越した風が吹いているように思える貴代子のすがすがしい姿だった。
 自由と英知の涼風や、断固とした遵法の精神や、人間としての基本的な良心が、謂われのない中傷と悪意にさらされる世界に、加納兄妹は今も昔も凛として生きている。(p.428)

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《加納です》と電話の声は応えた。
「雄一郎」
《声が遠いぞ。どこからかけてるんだ……》
「広河原。北岳から水沢裕之の遺体を下ろしてきたところや」
《死んだのか……》
「ああ」
《死人に口なしか……》
 加納祐介はそう呟いた。加納はおそらく、あの白骨の復顔写真が出回ったころに、すでに地検のルートで事件の裏を嗅ぎつけていたに違いなかった。それから三年後、事件が一連の恐喝殺人と化して東京で再び噴き出したとき、捜査に携わった合田に、広告のチラシの裏にメモを書いたりして、それとなく目配せを送り続けてきた。その男の、無言の絶望の吐息が伝わった。
「祐介。頼みがある」と合田は端的に切り出した。「地検特捜部は佐伯正一の足取りを追っていたのなら、十月九日の赤坂の料亭に、住田会会長がいたことも知ってるだろう。そこに林原雄三がいたこともな。確かに三者がそこに《いた》という証拠が欲しい」
《雄一郎。気持ちは分かるが、焦るな……》
「焦ってへん。昭和五十一年十月に野村久志を山に埋め、平成四年十月五日と十三日に、住田会と吉富組を動かして水沢裕之を殺そうとして果たせず、結果的に無実の看護婦ひとりに重症を負わせた弁護士が、最後に生き残った。俺は手段は問わへん。時効まで追ってやる。時間はある」
《……いつでもいい。連絡くれ》
「いや、明日や。午後十時、池袋のいつもの映画館で」
《……時間通りに来いよ。俺が居眠りしないように》
 加納祐介の沈んだ声を聴きながら、合田はふと言い忘れたことを思い出した。
「なあ……正月登山は北岳にせえへんか」
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》(p.441)

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