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至福(3)

 互いの間を、確かな愛情が結び付けている。そう思えたのはわずかな期間だった。何の前触れもなく、突如加納が判事に転身し、大阪へ旅立ってしまったときの絶望感。そこで味わった貴代子という女の死を経て、また少しずつ、本当に少しずつ、心の距離を詰めていった数年間。そしてようやくの加納の帰京が今年の春のことだった。戻ってきたことも知らせず、ある日、ふいに合田宅を訪れ、「まだこの鍵、使えるところにいるんだな」と微笑んだその顔を、合田は一生忘れまい。
 自分になんの相談もなく、判事になったばかりか、黙って大阪まで行ってしまった男への、今さらうらみつらみもなかった。むしろ、そこまで精神の破綻に向かっていたことに気づかなかった己の鈍感さを悔やんでも悔やみきれない。しかし、東京で再会した加納の微笑は、そんな後悔も瞬時に払い飛ばした。
「あんたは、ここへ帰ってくるんやな」と合田も微笑んだ。
「お前が、俺の家。戻る場所なんだろう?」
 もう何年前に言ったか当人すら忘れているようなことを加納は言う。
「東京へ、異動か?」
 逸る気持ちを抑えて、できるだけ冷静に訊く合田だった。
「ああ。4月からは東京高等裁判所」
「立派になったもんやなあ」
「茶化すな、馬鹿」と言うが早いか、合田の脇腹に肘鉄を一発。
 加納と合田は甘い恋人期間とやらを、ほとんど味わわないまま年月がすぎ、中年に差しかかる頃、ようやく東京でのんびり逢瀬がかなうことになったのだ。
 以来、加納もそうだったが、合田の方がずいぶん熱心に<恋人>を味わおうとひたむきだ。だからこんな風にじゃれつくし、甘える。そんな合田をますますかわいいと思える病気(重症です)な加納もまた、存分に甘やかしてやる。
 新しい枕で身を寄せ合い、目を閉じる加納の頬に、合田はそっと上半身を浮かせて、軽いキスを送った。それでも加納はとりたててその手や唇を振り払おうとはしない。静かに受け止めている。もてあました合田の手は、不埒にも加納の首筋から腰や尻を撫で回した。
「雄一郎。何をするつもりだ」
「いやらしいこと」と応えた合田の目には不適に挑戦的な色。
「馬鹿」と一蹴して加納は立ち上がった。
「祐介?」と声が追いかけてきたが、一向構わない。
 しばらくすると、洗濯の山を抱えて出てきた。「素晴らしい洗濯日和だ」と空を見上げた加納の手によって1枚1枚、パンッと勢いよくはたかれ、ハンガーにかけられていくシャツ。シーツ。
洗濯物を干し終えた加納は「これで夕飯まではのんびりだ」と言って、新しい枕でなく、畳に寝そべる合田の腰に頭を下ろした。
 合田はばさりと新聞を畳み、枕に頭を預けた。
 人の重みが、こんなにも心地よく愛しいものだと知ったのは、この男のおかげだ、と腰にかかる重みを存分に味わった。
「お前もそろそろ眼鏡、作ればいいのに」と腰に乗る頭がかすかに笑って揺れた。
 眼鏡、それは中年の必須アイテム老眼鏡。
 加納は「ピントを合わすのに零コンマ何秒、適度な距離を測るのに2秒がうんたらかんたら」と理屈をこねまわした挙句、先日眼鏡を作った。合田は管理職になって書類やPCに向かう時間が長くなったとはいえ、まだ必要を感じていない。
 理屈をこねまわすのも、合田にやたらと購入を勧めるのも、要は「まだ、認めたくないんだろうな」と加納の若さへの足掻きがおかしく、また人間らしくて愛らしいと思う合田である(この人もやっぱり重症でした)。
 
 老眼鏡の話に触れたせいか、合田が気まぐれに「お前は退職したらどうするん?」などと言い出した。
「老後の心配か」と腰に乗っかる頭は軽く笑った。
「美貌の元検事、市民法律講座。公民館で主婦を集めて。大盛況間違いなし」
 珍しく加納が噴出すほど大笑いした。
「退職後まで、法律で飯を食いたくないな」と応じる口調はあくまで冗談に応じて軽いものだが、真剣さが含まれていた。弁護士という道を選ばなかった加納にとって、法は市民の味方というよりも裁きの手続きにすぎないのかもしれない。法を崇高に捉えているがために、老後の暇つぶしで飯の種にしたくないのかもしれない。
「そういうお前は、野生の元刑事、町の平和を守りますってパトロールでもするか?人気者間違いなしだ」
 今度は合田が大笑いする番。
「おじいちゃんの、ただの散歩やな」と合田が応じれば、それにまた加納が笑う。
「そうや!」と合田がふいに頭を浮かせたため、合田の腰に乗っていた加納の頭も少しずれた。
「あ、すまん」と言われて「いや」と応えながら、懲りずに加納は腰に頭を据え直す。
「美貌の元検事の書道教室はどうや。お前、字綺麗やし、人にものを教えるのもうまい」
 またも加納は大笑いした。
「その、美貌の元検事ってのは、果たして書道に必要だろうか」
「人間てのは、肩書きに弱いもんや。元検事っていうだけで集客倍。美貌がつけばさらに倍」
 どこのやりてジジイだ。
「よし。じゃあお前は硬筆担当だな。お手本みたいな綺麗な楷書を書くものな。野生の元刑事のペン字講座もおまけで集客さらに倍だ。授業料は多少ふっかけるか」
「野生の元刑事ってのは要るんか」
「考えてみろ、爺さん2人が、どこからともなく一緒にやってきて、お習字を教えて、またどこへともなく2人で帰っていくんだ。教室の中でも時折目で会話したりしてな。俺たちの書道教室は腐女子で満員御礼だ」
 合田は笑っていいのか泣くべきか、悩んだ。
 が、ふと気づいた。
「どこからともなく一緒にやってきて、またどこへともなく2人で帰っていく」
 加納は何気なく口にしたのだろうが、そこには、驚くほど明快に2人一緒の将来が、描かれていた。
 現在のように、それぞれに自宅を構え、それぞれの日常を持ちながら、たまに会う。そんな将来ではなく、いつも一緒の将来。常に隣に寄り添っている将来。
 公安の目も、好奇の目も離れていく老後には、確かにそんな将来があってもいい。
「なあ祐介」と語りかけた合田の声は、果てしなく優しい。
「退職したら、のんびりするか」
「そうだな。毎朝散歩して。読書して。おいしいお茶を飲んで。うまい飯を食って」
「たまには、山も登ろう」
「こうやって、くだらないことを言って笑いあうんだ」
「ええな」
 涙がこみあげるほど、穏やかで満ち足りた将来が、2人の目の奥に鮮やかに描かれた。
 柔らかな日差しを浴びながら、しばし日ごろの喧騒を忘れて夢を見た。
 そしてまた、この瞬間こそが、幸福そのものだった。

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コメント

10年積ん読していたリヴィエラを再読し、LJ、照柿を一瞬で読破、現在おそらくは生涯最後の重篤な病に冒されています。熱は思いっきり40℃超え、急性期の合田中毒症です。

10年前は、あまりに狭量な女王信者すぎ、一切の二次創作に拒絶反応だったんですが、熱病も急性期を脱し、経験積んで余裕も出て、適度な距離をおいてフィクションはフィクションと楽しめるようになりました。

でもなかなかリビドーの合致を見ない!
不用意に首突っ込むと、美少年風検事あり、ホスト風刑事あり。トホホ(^"^;)⇒アディオス・アミーゴ!率はかなりなものです。

こちらは、酸いも甘いも噛み分けたきちんとした大人な義兄弟で、さらには
お願い! 気の毒過ぎる義兄弟に幸せを味わわせてあげて(>_<)
という願望をバッチリ叶えて下さいます。

でれでれ甘々、傍目にはちょっと何だかなだけど気にすんな! 私が許す!!(←何様…^"^;)
ほんとに、読んでてこんな幸せな二次は初めてです。
ぜひともお礼を言いたかった!


新作、お待ちしてます。


投稿: くコ:彡 | 2011年8月31日 (水) 22時50分

オーラ,アミーゴ!
と呼びかけてもお許し頂けるでしょうか(笑)。

>読んでてこんな幸せ
とまで言っていただき、こちらこそお礼申しあげます。

私自身、「ほんわか、ふわふわとアホなやりとりする2人」を想像することで「気の毒すぎる本編」から逃避しておりましたので、何かしら共感を覚えていただけたこと、大変嬉しく思います。
事情により現在は更新を停止しておりますが、なるべく早く再開したいと考えていますので、またお立ち寄りくださいませ。

投稿: じょん | 2011年9月 2日 (金) 10時02分

ミ・アミーゴ、友よ! 光栄です

「幸せや」 ほんとに、雄一郎の口から聞いてみたいもんです
読むたび、じょん様が熱愛される義兄に、すぅ~っと憑依しては
(ごめんなさいごめんなさい)雄一郎を翻弄し、
幸せに突き落として、わたくしも至福の境地に相乗りしています
幸せや……

ストレスは、大真面目に人を殺します。
危機を回避されて、誠に賢明だったと思います。
ご本意な落ち着き先に巡り会えますように、
遠い東京より心からお祈りしています。

投稿: くコ:彡 | 2011年9月 2日 (金) 14時22分

合田をどんどん幸せに突き落として(?)やってください。
重篤な急性期とのことで、本来なら回復をお祈りするところですが、そのまま慢性的になる呪いを(笑)。

ストレス以下の文章の意味が最初、わかりませんでした。
こうして励ましてくださる方がいる、そのことを忘れずに頑張ります。

コメントありがとうございました。

投稿: じょん | 2011年9月 2日 (金) 15時35分

……しつこく済みません。

ストレス以下の文は、一方的な想像だけで書きすぎました
ちょっとキモい感じになってしまってましたらお詫び致しますm(_ _)m

急性期は熱に浮かされて、普段しない失敗をします
加納さんの神業には遠く及びもつかないにしても、人さまとの適正な距離の取り方は学ばなければ……
反省です。

毎日ではなく、プレッシャーになりませんよう思い出しては覗きに参ります
気長に、息長くお待ちしています。

投稿: くコ:彡 | 2011年9月 2日 (金) 19時27分

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