« 至福(1) | トップページ | 至福(3) »

至福(2)

 使った用具を空のバケツに放り込んでおいて、手を洗って台所へ行くと、加納は磨き上げたテーブルにカップを並べ、ポットから紅茶を注いでいた。
 加納は休日にコーヒーを飲まない。紅茶を好む。そのため、いつのまにか合田の自宅に紅茶用のカップとポットが揃い、休日が重なったときなどは合田も淹れてらっていた。温めたカップに注がれる紅茶から溢れる甘い香りはアールグレイらしい。ほとんどはストレートをすっきりと飲むのが好きなようだが、まれにアッサムでミルクティーを味わっていたりして、加納の趣味は合田にはよくわからない。ただ、徹夜が続いた後などは、ミルクティーがほっとするのはなんとなく理解できる。時折、合田など名前も知らないような茶葉を買ってくることがあるが、続いた試しはない。「深く追求しないのが精精さ」とよくわからないことを言って当人は気に留めない。茶葉にも茶器にも金をかけないのもまた、加納らしい。
 淹れたての湯気が立ち上る紅茶をひとくち静かに飲み込むと、「これで、気持ちよく新年を迎えられる」と加納は実にゆったりと微笑んだ。
 合田は見入った。何年経っても衰えるどころか、ますます魅力的な加納の微笑み。目元の柔らかさはいよいよ増し、完成に近づくロマンスグレーもどきの髪と相俟って、紳士的でありながらたまらなく柔和で優しい。内に秘める硬い意思はそこには到底見えない。
「祐介の紅茶は、ほんまにうまい」と合田も微笑んだ。
「天気もいいし、散歩がてら買い物に出ないか」と加納に誘われ、一緒に出かけた。
「晩御飯、何?」と無邪気に問う合田は、長年加納に世話をされてきた受動性が顕著だが、そんな合田すら愛しい、と感じる加納の愛情はもはや病気の域だろう。一生不治だ。
「鍋」とだけそっけない返事を寄越す加納の横顔をちらりと合田は見、「豆腐、いっぱいな」とまたも無邪気にリクエスト。
 加納はしかし、食品売り場でなく日用品や寝具の階へ上がり、おもむろに枕を選びだした。
「なんで、枕?」
 合田は素朴な疑問を口にした。
「だいぶくたびれてきたから。良質な睡眠に枕は大事だ」とひとつひとつ、念入りに確かめている。じっくり時間をかけて2つの枕に決めると、次が食品コーナーだった。鍋と宣言したとおり、葱や白菜、きのこ類を次々カゴに放り込み「豆腐、どれくらい食うつもりだ」と立ち止まって合田に問う。合田はちょっと考えて、3丁の焼き豆腐をカゴに入れた。それを見て加納はかすかに笑った。練り物や魚介、肉もカゴに入れると、おもむろに酒のコーナーへ足を進め、珍しく日本酒を選ぶ加納の目は真剣そのものだった。
「熱燗は鼻にむっとくるのが苦手だ。大吟醸を冷でいいか?」と一応合田の了承を得ようとはしているが、そこに合田が異を唱える余地は、実はない。判事として大阪にいた頃、同僚にめっぽう日本酒に強い男がいて、おかげで加納は大阪を出る頃には、すっかり日本酒通になっていた。とはいえ、今でも自宅ですするのはもっぱらウイスキーなのだが。その加納が数年を経て再び東京へ戻ったことで、合田もまた、日本酒のお相伴に預かる機会が増えた。
 夕飯までごろごろしてろ、と加納に言われて、合田は早速買ったばかりの枕を取り出し、畳に寝そべって新聞を開いた。
「祐介。めっちゃ気持ちいいぞ、これ。お前も早くここへ来い」と合田は誘ってみたが、加納は「もうちょっと」と言って玄関を掃除している。それが終わったらしい加納は、寝そべる合田を跨ぎ、ベッドからシーツ類を剥ぎ取ると、再び合田を跨いで洗面所へ消える。もどってきて三度合田を跨ぐと、ベランダに裸にした布団を干し、ベッドのマットレスも起こして壁にもたせかけ、風を通している。
「おい、人を跨ぐと背が伸びないからあかんて、教わらなかったか」
 気安く人を跨いで通る加納に、合田がちょっと皮肉を言う。
「まだ大きくなる気か」と加納は軽やかに笑う。
 合田は新しい枕に頭を預けたままぼんやりと「つくづくまめな男やなあ」とその様子を眺めている。
「洗濯が終わるまで小休憩だ」と加納が合田の傍らに胡坐を組んだとき、合田はもうひとつの枕をぽんぽんと手で叩いて加納を招いた。加納は柔らかく微笑んで、そこへ身を横たえた。すると合田は枕ごと、加納にくっつきそうなほど身を寄せてきた。加納は合田の短い髪をくしゃっと掻き回してから、そっと肩を抱き寄せた。
 中年の男同士がじゃれあうこんな姿、他人にはさぞ不気味に映ることだろう。しかし、合田にはもう、照れも羞恥もなかった(この人も病気です)。

|

« 至福(1) | トップページ | 至福(3) »

コメント

大変な時期ですがお互いにがんばりましょうね!(>_<)

投稿: 駒込の美容院からコメント | 2011年3月22日 (火) 22時04分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 至福(1) | トップページ | 至福(3) »