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照柿

《無理することはない》
《分かってる。気にするな》
《俺とお袋だけだ》
《来なかった》
《無理するな》
《ああ。では四日に》(p.74)

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《無理しなくていいのに》
「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」
「それから、風呂だ」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「夏だから畳に寝ても風邪も引かんだろう」「とにかく風呂から上がったらちょっと飲もう」

「今、ほされてる」
「そういうときもあるさ」
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票をめくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだという空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「小耳にはさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったことろだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「圧痕はどうなってる」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に首を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないから、やったやらないの水掛け論だ」
「それで、ほされてるのよ」
「そうだなあ……。場合によりけりだが、後半で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「雄一郎。お前、目が赤い」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「何か、というのは」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
「大丈夫か」
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば、人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「猿でも悩むそうだ」
「邪悪の手か」
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「意志だよ、意志。すべては」
「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」(p.245~254)

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『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』(p.380)

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《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》(p.470)

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『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。
 まず、君が事件前に佐野美保子と対面した時間は、拝島駅で二分、東京駅で五分、立川駅で一分、合計八分だ。東京駅での五分は対面とは言えないので、これを省くと三分。ひょっとしたら、小生の知らない時間がほかにもあるのかも知れないが、いずれにしても、人生の中のほんとうに短い時間だったということを、少し考えてみてもいいのではないか。
 今、もう一度『神曲』を読み返しているのだが、ふと考えた。ダンテを導くのはヴェルギリウスだが、君が暗い森で目覚めたときに出会った人は誰だろう。
 ダンテが《あなたが人であれ影であれ、私を助けてください》とヴェルギリウスに呼びかけたように、君が夢中で声をかけたのが佐野美保子だった。恐れおののきつつ彷徨してきた君が今、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまで導いてくれたのは佐野美保子であり、野田達夫だったことになる。そう思えばどうだろう。
 ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生の方はまだ呼び止めるべき人の影も見えないぞ。

十月十五日

 加納祐介』(p.497~498)

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