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照柿(文庫・下)

 朝、出がけに元義兄の書棚から適当に失敬してきたそれは、ラシーヌの短い詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生したことぐらいしか覚えていなかったが、無理やりページを繰るうちに、一寸記憶が甦った。(p.12)

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 自宅のある三十八号棟へ辿り着くと、一階の郵便受けにあるはずの一日分の朝刊と夕刊が見あたらず、加納祐介が立ち寄っていったのが分かった。一昨日水戸で会ったばかりの元義兄がわざわざ足を運んできたのなら、思い当たる用件は一つ。八王子署に入った監査でばれた関連照会の不正が、またしても電光石火のごとく耳に入ったに違いなかったが、それだけのことであれば電話で怒鳴りつければすむのに、元義兄はそうはしない。自分の存在ゆえにいつまでも貴代子と元義弟の関係が終わらないことをいやというほど知りながら、すでに消えたはずのろうそくの火を、雄一郎のいない間にまた燃え立たせるために足を運んでくるのであり、個々の用件はみなその言い訳に過ぎない。それはもう、幾分かは双子の片割れに特有の心象にしても、大半は加納祐介という男の感情の中身の問題であり、端的に女より面倒な―――というところで、しかし雄一郎自身の頭も停止してしまうのが常だった。そしてそのときも、雑多な考え事の周りにもう一枚膜が張ったような心地になったに留まり、世間を憚る妄執は自分も同じだという自嘲で、それ以上の思案をやはり回避したのだった。
 元義兄が空気を入れ換えていった部屋は、昼間にこもった熱気の代わりに、かすかな整髪料の匂いが残っていた。明かりをつけると、台所のテーブルに取り込んだ新聞とコピー用紙一枚が載っており、B4判の用紙は案の定、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊コピーだった。昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所で、欄外には元義兄の達筆な走り書きで『某所より入手。やるならもっとうまくやれ』とあった。
《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者か。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つでいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の元義兄の机に回ってきたに違いなかった。そしていつものごとく、雄一郎としては、政官財の巨大な網の目にからめ捕られた権力機構の一隅に、遠い元係累の一寸した非をあげつらった怪文書が飛び交う下らなさのほうに感銘を受け、そこにいる本人の代わりに呆れ果てただけだった。たしかに《やるならもっとうまくやれ》だ。遵法の精神を生きてきたはずの男がいうのだから間違いない、などと思いながら、皮肉も失望も力なく湧いては消え、泥のようなため息に溶けて見えなくなった。
 いや、さすがの加納祐介もやはり怒ってはいるのだと、一寸思い直してみることもした。思い通りにゆかない他者との関係について。もはや矯正不能で理解しがたい他者と、それが自身の感情に及ぼす影響について。失望を重ねてもなお断ち切れない自身の思いについて。妹の貴代子にも言えなかった自身のそういう不明を、他人の男に言おうとして果たせないこと、そのことを祐介は怒っているのだ、と。そして、この直截なのか韜晦なのか分からない複雑な感情の持ち主と、いまも付き合っているのは結局俺自身なのだと思うと、最後はまた女より面倒な―――というところに戻るほかなかった。
 いや、なにかしら失望し、諦め、ある日決断した後に、さっさと男二人を捨てて出て行った貴代子に比べれば、残された男二人の未練や執着は目も当てられないというだけだった。その証のような書き置き一枚を雄一郎はその場で破り捨て、ウィスキーとグラス一つを手に隣の襖を開けていたが、しかし、そこもまた結婚生活の残骸そのものだった。(中略)
 十一年前の春、突然数式が一つ解けたような顔で、私たち結婚しましょうよと貴代子が言出だしたとき、君と俺では釣り合わへんと雄一郎は応えたのだったが、それは本心に忠実な直感だった。また、いくぶん思慮を欠いた貴代子の突進には兄祐介とのいわく言い難い密着からの逃亡願望があること、ならば相手は必ずしも自分である必要はないことを、雄一郎は気づいていなかったわけでもなかった。(中略)
はたまた、貴代子をはさんであれほど剣呑だったはずの男と、十年経ったいままた微妙に生温かい近さにあるような、ないような自分。(p.160~166)

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もっとも、続けて元義兄宛てに書き始めた返信のほうは、そうはゆかなかった。元義兄に対しても嘘は山ほどついてきたが、そのつどなぜか後ろ髪を引かれる思いがし、陥る必要のない後ろめたさに陥って、結局いつも筆が進まない。(中略)
『(略)
 八月七日
 加納祐介様
    雄一郎拝』(p.179)

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「そうそう、始める前に言伝てがある。半時間前に電話があった」そう言って、辻村が机に置いたメモには、『手が空いたら四階まで電話されたし。カノウ』とあった。
 どうせまた、噂は桜田門を駆け巡って検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、慎重の上にも慎重な加納祐介が、警察に直接電話を入れてきたのは初めてだった。いったいそこまで案じるべき事態なのか。あるいは特捜部検事がこれを機に、かけなくてもいい脅しをかけて、桜田門の特定の何者かに対して意趣返しをしてきたということなのか。雄一郎にはどちらとも分からなかったが、もともとやる気のなかった重い心身に、鈍い一撃を食らったような気分でメモを握り潰した。一方辻村は、カノウが何者かをもちろん承知しているようで、「その人にはくれぐれも、内輪の話だと言っておいてほしい」と呟いただけだった。(p.279)

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『祐介殿
 長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従い、先週休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』
『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。(中略。セリフ集を参照してください)』

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