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照柿(文庫・上)

 そうして八王子駅に辿り着くと、雄一郎は公衆電話からまず私用の電話を一本かけた。相手は分かれた貴代子の双子の兄であると同時に、雄一郎にとって大学時代からのほとんど唯一の知己でもある男で、先週久しぶりにハガキをよこし、法事がある八月二日を避けて一度水戸の実家のほうへ寄るように言ってきたのだった。しかし、かくいう本人も警察以上に多忙をきわめる東京地検におり、春先から続いているゼネコン数社と地方自治体首長の大がかりな贈収賄事件のさなかに帰省などしているのは、捜査が国会閉会中の永田町に及んでいることの証でもあったから、昔の友とのんびり旧交を温めているようなときではない。ひょっとしたらアメリカにいる貴代子が戻っているのかといった想像も巡らせてみたが、それなら雄一郎としてはなおさら連絡を取りづらく、一日また一日と先伸ばしにしてきたあげくの電話だった。
 すでに半日前に法事は終わっていたが、大きな旧家のこと、誰が残っているか分からないと思ったが、電話口に出たのは本人で、《ちょうどひとりで呑み直していたところだ》というのが第一声だった。
「俺のほうは明日は大阪へ出張だ。あんたは、そこにはいつまでいる」
《五日の朝、東京へ戻る》
「四日の夜、顔を出していいか。この季節を外したら、またいつ会えるか分からないから」
《では四日に。泊まっていけよ》
 元義兄は、貴代子が来たとも来なかったとも言わず、雄一郎も尋ねなかったが、毎夏、双方がいくらか平静を欠き、愚かな困惑と遠慮を繰り返して懲りることがないのだった。いくら大学時代からの付き合いでも、妹との結婚を破綻させた男に向かって、昔と同じように自分の実家に来いという男は、未だに妹と自身の友人関係について、何かの幻を見続けており、貴代子もまた、いまは別の男と外国で暮らしながら、なにがしかの目に見えない執着と悔恨の秋波を兄に送り続けている。そして雄一郎自身もまた、戸籍の手続きのようにはその兄妹との関係を切ることが出来ずに、いまなお元義兄とハガキや電話のやり取りをしているのだ。かくして三者三様の未練は消えかけては蘇生し、じりじりと熱をもち続けて、毎年夏がやってくるのだった。
 短い電話一本のなかに、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも開いての熱ともつかない息苦しい靄になって、電話線を伝わり合ったかのようだった。常磐線の急行に乗れば今夜にでも行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している元義兄との当たり障りないやり取りは不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.112~114)

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 雄一郎はほとんど聞いていなかった。頭の中は、土井を追い込むための方策が一つ、水戸の義兄を訪ねるという約束が一つ、佐野美保子の顔が一つ、浮いたり沈んだりしていた。(中略)氷をひとかけら入れたウィスキーにありつけるなら、約束通り、水戸まで義兄を訪ねていくのもまあいいかという気になった。(p.352)

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 その後、新宿の歌舞伎町に立ち寄って生花とウィスキー一本を買い、遅くなる、と水戸に詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で元義兄は《無理するな》と繰り返したが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
 声を聞くだけで双子の妹と重なってしまうその遠い顔を押し退け押し退けしながら、雄一郎はわずかな時間も惜しんですぐに寝入り、一昨日と同じ夢を見た。(中略)
 雄一郎も泣く。崩れた視界に広がるのは臙脂色に燃える空で、まるでいくつもの顔や声を投げ込んだ炉のようだと思いながら、目を凝らし続けた。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か。(中略)
 水戸まで約一時間半、爽快とは言いがたい時間を過ごした末に辿り着いた旧家の、磨かれた広い玄関の上がり框に、加納祐介は優雅な紬の着流しを着て立っていた。いくら元は身内だったと言っても、常識で許される範囲を超えた深夜の来客を、当主としては歓待するわけにもゆかず、さりとてそれを承知で招いたのは自分だという事実を鑑みるに、とりあえず見た目の威厳をとりつくろってみたといった風情だった。ともにまだ十八、九だったころから、何につけ数ヶ月の年長や、教養や、家柄という社会的基盤の違いを理由に、雄一郎の庇護者を任じてきて、いまやそれが習い性になった永遠のお殿様。兄上様。雄一郎は一秒考え、自分がハガキの返事を先伸ばしにしてきたほんとうの理由はこれだなと思った。しかしまた、その一秒後には従順な弟の役回りに甘んじている自分がおり、他人には見せられない隠微な兄弟ごっこをやりたかったのは自分も同罪だと認めると、まずは苦笑いを噴き出させるほかはなかった。そして相手も同様に苦笑いで応え、開口一番言ったのはこうだった。
「いま、君は水戸くんだりまで何をしに来たんだと考えていただろう?」
「着流しが似合うなあと考えていただけだ。遅くなってすまん」
「早く上がれ。仏壇に線香をあげて、一風呂浴びて、それから痛飲だ」
 元義兄は顎で早く上がれと促し、先に立って中庭をかこむ回り廊下を奥座敷へ進んだ。
 この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合って以来、その両親にほとんど息子のように迎えられて、夏休みや正月休みを過ごした家だった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の飴色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物に積もった埃の深さ。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書の日向臭さ。そのどれもが自分には無縁の暮らしや、伝統とか血筋といったものの動かしがたい現実のあることを若い雄一郎に思い知らせたが、雄一郎自身はそれに対して一定の敬意を払うというかたちでしか相対することが出来ず、どこまでも自分が同化することはなかったのだった。しかし、加納家の人びとはそれをまた人間の品格だなどと言い、母親を亡くして天涯孤独になった雄一郎をことのほか慈しんだ。そして、そんな過ぎた時間がみな幻想だったことを、先代当主夫妻が知らずに他界したことこそ幸福というもので、家を継いだ息子はいまだに結婚もせず、管理人に家を預けて盆暮れにしか戻らない気ままさだけならまだしも、妹の結婚生活を破綻させた男をいまなお亡父母の仏前に招き、雄一郎もまた本来なら上がれるはずのない家に上がり、たまに泊まったりもするのだ。
 それはほとんど加納祐介と自分の共犯というものだったが、たくらんでいることの中身まで同じだという確信は雄一郎にはなかった。元義兄がいまでは別の男とアメリカで暮らしている妹への未練を抱き続けているというのは自分の想像に過ぎず、片や自分自身も、たんに兄弟ごっこのために十六年も一人の男と付き合っているはずがない。いまなお何かにつけ貴代子が、貴代子がと話題にし続けている反面、どちらにとっても年々遠いものになってゆく貴代子はいまや言い訳に過ぎないのではないかとも思うと、すべてが靄のなかというのが真実ではあるのだった。しかも、それにもかかわらず自分はなおも元義兄に会い、元義兄もまるで当たり前のように庇護者もしくは年長の友人の顔をつくる。そうして顔を合わすたびに記憶は更新され、改竄され、二人してとりあえずいま問題がないのであればとすべてを未決に留めるのだが、しかしいったい何のために?檜の廊下を進みながらそんなことを考えるともなく考えていると、「そら、また俺の背中で何か考えているだろう」と元義兄は言った。
「そうかも知れない。今夜はお参りはやめておくよ。花だけ供えてさしあげて」
 生花を渡してそう言うと、元義兄は「正直なやつ!」と声を上げて笑い出した。
 正直?違う。どちらも不実だ。本心などどこにもなく、どちらも少しも相手のことを知らないことを知っていて踏み出そうとしない。これは不実だ。雄一郎は思ったが、それにしても不実にすら意味がない。自分たちはまったく意味のない時間をこうして積み上げているというのが、一番当たっているのだった。
 とはいえ、一風呂浴びて浴衣に着替えたころには、自分もそろそろ生活を落ち着けることを考えなければといった方向へ頭は逸れてゆき、あまりの現実味のなさに辟易したところで、広縁のほうから「おい、トマトが冷えてるぞ!」と呼ぶ元義兄の声が響いた。
 元義兄は昔の自分の部屋に面した広縁を開け放して、ウィスキーの用意をしていた。管理人夫婦の畑でとれたトマトとキュウリが氷の入った手桶に放り込んであり、七輪の網にはこれも頂き物に違いない笹ガレイと蛤が載っていた。雄一郎は薦められるままにトマトにかぶりつきながら、去年のなつにも同じようにして同じトマトを食ったと思い出したが、何か言おうとしてもろくな言葉が出てこなかった。美味いとか何とかどうでもいい言葉を吐いて、注がれたウィスキーを呷りながら、何もかも見透かしているような元義兄の視線を感じた。
「昨日、東京駅で十八年ぶりに大阪の幼馴染に会うてな。太陽精工の羽村工場に勤めているということやったが、あそこ、国税の内偵が入ってなかったか」
「社有地の売買に、その筋の不動産会社が関わっているという話は聞いたことがある」
「そうか。特捜部が関知するような話でないんなら、よかった。ところで、ゼネコンの収賄事件のほうは夏休みか」
「夏休みというか、中休みというか。永田町を疑心暗鬼にさせておくのも悪くない」
 元義兄はいかにも特捜検事らしい物言いで、さらりとかわした。十年前には、書物に手足が生えたような、こんな高等動物が地検のなかにもある不毛な権力闘争を渡ってゆけるのかと思ったが、いつの間にか得体の知れなさや厚顔までしっかり身につけて、少なくとも社会的には磐石そうな加納祐介だった。
「それで、君のほうはまだ八王子の殺しをやっているのか」と聞かれ、雄一郎はまた少しなげやりな気分に戻りながら「まあな」と応じた。
「行き詰まりか?話なら聞くぞ」
「いやや。ウィスキーが不味くなる」
「その前に、賭場になんか出るな」
 そらきた、と思った。地検内部の隠微な権力争いのなかで、一度は身内だった刑事一人の身辺までがネタになって飛び交い、元義兄の耳に入る。いつものことではあったが、見ず知らずの何者かの悪意や中傷よりも、元義兄に知られることそのことが神経にこたえた。いや、元義兄の善意がこたえたのだと自分に認めた一方、ほんとうは賭場どころではない、俺はいまは私生活のなかで嫉妬を一つ飼っているのだ、この男は何も知らないのだと思い直して、やっと自分を落ちつかせた。
「検事の名刺一枚で代議士でも呼びつけられるような人間に言われたくない」
「言っておくが、俺が博打なんか許さんのは違法行為だからではない。それが裏社会という暴力装置につながっているからだ。俺は暴力が嫌いだ。暴力の薄暗さが嫌いだ。同じ理由で、この国の政治の系譜にも憎悪を覚える。警察や検察権力の系譜も同じだ。ああいや、政治家や官僚はどうでもいい。君だけは暴力装置と無縁の人間でいろ」
「カレイを焼きながら言うことか。それ、もう焼けているやろ。食うてええか?」
「食ったら、話せよ」
 黄金色にぷっくりと焼けた笹ガレイは美味かった。雄一郎はつい昨日、大阪の飛田新地の小料理屋で何を食ったのか思い出せないまま、俺はいったいここで何をしているのだと思い思い一枚を平らげ、元義兄のほうはたったいま披瀝した暴力装置云々ももう頭にないかのような顔で、二杯目のウィスキーを悠々と啜っていた。
「それで、八王子のホステス殺しのどこが、どう行き詰っているんだ」
「被害者は一人。現場も一つ。そこにホシが二人。各々わずかな時間差でまったく別々に関与した、いわゆる同時犯の話だ。今日現在、別件で逮捕された第一のホシが、被害者の首を手で絞めたことを自供している。これは被害者の顔見知りで、犯行は居直り。殺意はあった。二人目はベランダからの侵入で、被害者の爪から検出された汗の成分などから、容疑者はほぼ割り出されているが、捜査幹部は二人目の存在そのものを認めない。そういうわけで今日の夕方、一人目のホシを殺人と窃盗で再逮捕したところだが、剖検の所見では、一人目が被害者の頸を絞めたとき、すぐには死ななかった可能性があるというだ。実際、二番目の賊がさらに被害者の頸を絞めたと思われる、扼痕とは別の索状痕もある」
「その二度目の索状痕に、生活反応はあったのか、なかったのか」
「わずかにあった。だから厄介なんだ。二度目に頸が絞められたとき、被害者が生きていた可能性も、死亡直後だった可能性もある。もっとも常識的には、二番目の侵入者がわざわざ被害者の頸を絞めたのであれば、絞めなければならない理由があったと考えるのがふつうだろう。つまり、少し前に第一のホシに頸を絞められて失神していた被害者が、急に息を吹き返して起き上がったとか、物音に気づいて声を上げたとか」
「まず、一回目の扼頸で被害者がすぐに死ななかったというのは、殺人もしくは殺人の構成要件を阻害しない。その上で、第二の絞頸については、そのとき被害者が生きていたのであれば、第一の扼頸に対する因果関係の中断となり、この第二が殺人の既遂、第一は殺人未遂となる。これは、仮に第一の扼頸がなければ第二の扼頸は起こらなかったとする場合でも、第一の扼頸と死亡との相当因果関係は認められないので、答えは同じになる。次に、第二の絞頸が行われたときに被害者が死亡していた場合は、この第二の絞頸はふつうは客体がないものとして不能犯となるが、行為無価値論に立って未遂犯とする考え方もないではない。ちなみにこの場合、どちらの論を採用しても、当然のことながら第一の扼頸が殺人の既遂となる」
「だから現場は悩んでいるんやないか。第二の絞頸が行われたときに、被害者が生きていたか死んでいたかが証明不能なんだ」
「先に言っておくと、第二の賊を挙げてもいない段階で、いかなる断定もすべきではない。その上で言うが、仮に第二の絞頸が行われた時点での被害者の生死がどうしても不明の場合、結論から言えば、死亡を採用するほかない。君が言うとおり、第二の絞頸は、その時点で被害者が生きていたから起こったと見るのが合理的ではあるが、被害者が生きていたことの立証責任は訴追側にあるから、立証が出来ないのであれば仕方がない。いずれにしろ現時点で君がすべきことは、ともかく第二の賊をひとまず殺人容疑で引っ張ることだろう。その上で、被害者の生死についてはあらためて精査すればよいのだ」
 元義兄の意見は筋が通り過ぎていて、苦笑いしか出なかった。雄一郎は首を横に振った。
「あんたに言われなくても、問題が捜査のいろいろな不足にあるのは承知の上だ」
「物証が揃わずとも、犯罪を構成したという合理的な疑いがあれば引っ張ることは出来る。二人いるホシを一人にすることだけは許されんぞ」
「とにかく、送致までに第二の賊をせめて自首に追い込むことができれば―――」
「自首は、第三者が追い込んだら自首にはならない。頭を冷やせ」
「頭を冷やしていたら、一つ失い、また一つ失い、自分が立つ場所もなくなってゆく。一つ失うたびに、確実に何かが減ってゆく。少々強引だろうが違法だろうが、眼の前のホシを挙げることで、自分がやっとどこかに立っていられる。こんな感じはあんたには分からんだろう。もうやめよう、こんな話」
 雄一郎はそういって話を打ち切り、「じゃあ呑もう」と元義兄は新たなウィスキーを二つのグラスに注ぎ足した。貴代子との離婚以来、どちらも互いの神経に触れるところまでは踏み込まない習慣がついて、やめようと言えばやめる。呑もうと言えば呑む。ずいぶん大人になったということだった。しかし、そういて新たに呑み始めてすぐ、元義兄は今度は雄一郎の左手を取って素人の手相見を始め、また少し、やめろ、やめないといった子どもじみたやりとりになった。
「そら、この間見たときからずいぶん皺が増えている―――。寝ても醒めても何事か考え続けて、悩みを溜めて、じっとちぢこまっている子どもの手だ」元義兄は言い、
「猿でも悩むんやそうや」雄一郎は言い、今度は自分が元義兄の手を取って覗き込んでみたが、それも細かい皺に満ちた繊細な掌だった。しかも、貴代子と実によく似た掌。
 そら見ろ。人知れない悩みの深さという意味では、この男は自分よりずっと上のはずなのだ。そして、この目。貴代子と同じ目。旧家の奥深い静けさのなかで、双子にしか分からない隠微な情念を溜めていた兄妹の目。貴代子と雄一郎の間に立って、理性の采配をふるいながら、その実ひそかに二人に対する嫉妬の火を燃やしていた男の目。どんなに理知の覆いをかけても、必ず愛憎と苦悶の下地が浮き出してくる目。
 雄一郎は、自分と相手の双方に対する解きほぐせない感情の塊を認めながら、ひねり潰したいような思いで、自分の手のなかのもう一つの手を締めつけ、ふりほどいた。しかし、そのとき元義兄のほうあまったく別のことを考えたに違いなく、少し間を置いていかにも元義兄らしいやり方で韜晦してみせたものだった。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だと言ったのはダンテの―――」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「しかし、ほんとうに意志の問題なのか、どうか」
 元義兄は自分で言い出しておきながらめずらしく言葉を濁し、雄一郎のほうはふと、この元義兄に尻を叩かれて貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは二十歳のころだったことを思い出したものだった。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられたが、頭脳明晰な貴代子は『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだ、と。もうはるか昔、雄一郎の目のなかで永遠の光と一つだった時代の、輝くばかりの貴代子がそこにいた。
「あんたにも、意志ではどうにもならないことがあるわけか」
「目の前にいるよ」
「そんな真顔で言わんといてくれ。ドキッとするやないか―――」
 雄一郎はあまり正確ではないと思いながら、そんな返事しか出来なかった。
 午前三時前、元義兄は先にベッドに横になった。広縁からその姿を眺めながら、雄一郎は二十一歳の秋、その同じベッドで貴代子を初めて抱いたことをまた一つ思い出した。加納祐介が司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家出連休を過ごしたのだが、それは貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じるかたちで抱き合ったとき、二人して今から始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかったはずだが、そうして兄妹の絆や男同士のある種親密なつながりを一気に瓦解させるに至ったそのベッドで、ひとり己の立場のなさや嫉妬と折り合いをつけてきた男が、いまは安らかに手足を投げ出して眠っていた。そして、その魂を再々裏切って、いまや貴代子ではない女のことを考えている自分がいた。(p.363~375)

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