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照柿との出会い

私が加納祐介を初めて知ったのは照柿です。当時、大学生だった私は新聞の本紹介系の記事で「直木賞受賞後の書き下ろし長編!!」みたいな煽り文句を見かけて、まあ、直木賞なら外れのない作家さんだろうと気軽に図書館で借りて読みました。それが高村薫さんとの最初の出会いであり、加納への恋の始まりだったわけです。

そして、大いにはまり、次々図書館で借りる一方、古書店で本を買い集めるファンになりました。

その頃はまだ腐女子なんて言葉はなく、私自身、自分にその傾向があることすら気づいてもいなかったのですが、照柿を読み終えて、初の高村作品、初の加納には、
「この、主人公がかすむくらい鮮やかに最後の場面をさらっていく脇役は何者ぞ!?」と驚いたものです。

その後2009年にようやくレディ・ジョーカーを読むまで(2001年に就職してからは高村断ちをしていました)、私は何度も照柿、マークスを読み返しては「この脇役、おかしい、何か変だ」ともやもやしてました(笑)。

マークス、照柿を通じて私の加納の印象というと、実は「背中」なのです。合田の留守中にしか訪れない加納。合田に救いの手を差し伸べる強くも優しい味方。だけどあまり表舞台には出てこない、いつも合田は、そして合田の目を通して私は、加納の背中を見ているような感じでした。なので、もう抹殺しようかという勢いの照柿文庫、「俺の背中で何か考えているだろう」だけは「考えていますとも!!」というわけで捨てられません。

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7/16更新

☆「祐介登場」「祐介はかく語りき」「連載vs単行本vs文庫本」それぞれに照柿をアップしました。

☆fictionsにイブの続きをアップしました。

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恬淡(2)

「悪い、起こしたか」
 合田が飛び起きてキッチンへ行くと、すっかり身支度を整えた加納がのんびりと朝刊を読みながらコーヒーを飲んでいた。布団を片付けたり着替えたりと加納は部屋を動き回ったはずなのに、俺はまるきり気づかずに寝呆けていたのかと合田は自分の不感症に呆然とした。
「入院ですっかり感覚が衰えてるな」
 合田は照れくさそうに苦笑を浮かべて加納の向かいに腰を降ろした。加納よりも早く起きて味噌汁の一杯でも作ってやろうと思ったのに、いきなりしくじった。
「ろくに飲まず食わず寝やらず。お前の場合、入院してる方がよっぽど健康的だ」と加納は皮肉った。
「朝飯を」
「ん?」
「作ってやろうと思った。お前こそ、ろくに飯も食っていませんと顔に書いてある」
 加納はしばし合田を見つめ、弾かれたように声を立てて笑い出すと「今日はきっと大雪だ、ああ、困った」と言いながら新聞をたたみ、よほどおかしかったのか、その新聞で顔を隠しながらなおもくつくつと小さく笑い続けた。
 飯は作ってやれなかったけど、こうして楽しそうに笑えたなら少しは俺も役に立つ。こいつはきっともう長い間本気で心から笑ってなどいないだろうから。そんなことを思うと何やら小さな喜びを感じる合田なのである。
 合田は加納の手から新聞を取り上げると、その手で加納の顎をひょいとひっかけて顔を向けさせ「それ以上青白くなったら、俺は料理教室に通わなあかんなる」と本気か冗談かわからぬ真顔で言いのけた。
「ものすごい脅しだな」と加納は苦笑し、「真っ白なエプロンを買ってやるよ。似合いそうだな、雄一郎」と付け加えた。合田は露骨にげんなりした表情を浮かべた。
 加納は立ち上がり、コートを羽織ながら「ああ、ゴルフボールは、すまないが、近いうちに引き取るからしばらく頼む」とキッチンテーブルの足元に置きっぱなしの箱に視線をくれた。
「近いうちっていつ?」
 合田はまったく自分で発した言葉の含むところを理解せず、一瞬で様々に思い巡らせたらしい加納はのけぞるように玄関であとずさった。
「どうした?」
 と咄嗟に加納の肘を掴んで支えた合田の方こそちょっと驚いたのだが、自分の狼狽に気づいた加納がすぐにいつもの淡白な表情を取り戻し、ため息をついた。
 加納はややうつむき加減になって意味もなく襟元を調えなおす仕草をしながら、合田が気づくギリギリの小さな深呼吸をひとつした。
 捜査、付き合い、実家、それらをごく短時間に計算したらしい加納が「大晦日、最終の列車ででも帰省はしなければならんだろう。だが形だけのことだし」と言いかけるのを合田が遮った。「列車二本先行分の時間をもらおう」と。
 加納はちょっと考える風に首をかしげて見せ、眉をひそめ、困ったように曖昧な苦笑でもって「努力する」と応じた。
 何事にも潔癖な加納が、曖昧を自らに許すことは珍しい。彼のその表情の意味を合田が知るのは数時間後のことである。
「散髪に行って来い」と加納が合田の寝起きのまま乱れた髪をさらにかき混ぜた。さりげなく自分に触れてくる手を合田は無意識に取ろうとしたのだが、加納がかわす方が早かった。さっと身を翻し、あっという間に出かけてしまった。「お前はかわいいよ」などという恐ろしい言葉を残して。
 今頃、コーヒーの一杯飲む間も惜しんで捜査書類をひっくり返しているか。
 昼前、加納に言われたとおり散髪に行くのも悪くないと出かける用意をしながらふと合田は加納の姿を脳裏に描いた。
 今夜は徹夜するんだろう。
 明日は?
 官舎に戻って着替えもしなければならないしこちらへは来ないか。やはり言葉通り、年末に列車二本分、およそ一時間でも割いてくれれば上出来か。せめてその間、電話くらい。
 そこまで考えてようやく合田は、加納の今朝の困惑に思い至った。
 腹を空かせた子どもが指をくわえて母を待つように。それとも恋人を待ちわびるように。
 俺は祐介を待っているのだ。会えないほんの数日の空白に焦れているのだ。気まぐれに訪れて速やかに去る偶然的な時間でなく、約束が欲しかったのだ。
 加納が待っている、だから俺は生きよう。そう考えてきたこの入院期間。男からの愛情を認識する行為には強烈な背徳も感じたものだが、自分こそが加納を待っていると自覚したとき、合田はすっと大きな異物を飲み下した後の爽快を覚えた。
 待っているさ。俺がお前の家であり、お前が俺の戻る場所だ。互いの居場所は互いだけだぞ。

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恬淡(1)

 その夜の加納は、2か月前の怒りをどこへ置いてきたのか、見慣れた涼やかな微笑と不思議に柔らかな眼差しで合田に対していた。
 怪我からの回復を喜び、復職を心から祝い、自分はというと捜査の正念場で正月休みも返上だが、これほど熱意を持ってかかれる事案はない、と充足感を語る。ベッドサイドへグラスとウィスキーを持ってきて、合田には時折「あまり飲むな」とたしなめながら自分はうまそうに啜っては喉を潤してまた喋る。
 友人であり義兄弟であり、そんな社会的にも十分認められる安寧の関係をいまさら続けようとしているのだろうか、このよく喋る男は。友人としても、義兄弟としても、ついさっきの腹の傷への口付けはゆきすぎた行為ではなかったか。
 珍しく饒舌な加納を前にして、合田は混乱した。
 喋り疲れたという風にほっと一息ついた加納は合田を残して立ち上がり、グラスを片付けてしまうと寝室ではなく隣室に布団を敷き始めた。
 しばしば気楽な独り者の元義弟を訪ねてくる心安い知己のようでありながら、加納はいつも、隣室の押入れに布団があるせいか、そのまま隣室に布団を延べ、何を話すでもなくさっさと部屋の明かりを落として寝てしまう。朝には合田より先に起きて身支度を整えている。それを、子どものお泊りでなし当然のようにも、といって、連絡もなしに泊まりにくるほど親しい者にして妙な距離感のようにも感じてきた合田だったが、今夜はその距離を途方もなく遠く感じた。
 今日、確かに俺たちは以前とは違う、もっと互いの温度を知る距離まで近づこうとしたんじゃないのか?
 合田はますます自分の感情の行き先のあやふやさに戸惑い、十数年来見慣れた、落ち着いた加納の所作に焦燥を覚えつつも、黙って彼の行動を見守るばかりだ。
 自分にまとわりつく視線に気づいたのか、ふと加納が布団を敷く手を止めて合田を見た。
「どうした?」。
「いや・・・・・・」
 合田は言葉が継げない。何かこう、理解が及ばないんだ、お前の行動に。そう思うが言葉にならず、ただじっと加納を見つめ返してしまった。
 合田の戸惑いを見透かしたのかどうか、加納は我慢しきれないように、合田からは目を離さず、肩を揺すって小さく笑った。
「2か月だ。お前が刺されて、絶望して。恐ろしく長い時間だったよ」
 加納はそう言うと、先ほどまでの清涼な微笑をすっかり消し去り、射抜くような強い眼で合田をしかと見た。
 が、一瞬の変化だった。ふと自嘲的な小さな歪んだ笑みを口元に浮かべ、首を軽く振って「違う、18年、18年だ」と呟いた。
「長いな、18年というのは」
 ぼんやりと言葉を返しながら合田は加納が自分を思ってきたのであろう年月の感覚をこの身に味わおうとしたが、それは到底無理なことだった。自分の人生の半分にはこの男がいたのかと思うといまさらながらぞっとする。いつの間にかそばにいて当たり前の存在となり、疎みもするが熱望もする、そんな他人。水や空気を欲するように心身が求める圧倒的な訴求心を、当人にまるで悟られずにこれだけ植え付けた男の執念にも、自分の鈍感さにも、腹の底から冷える。
「お前にわかるものか」
 と加納は言い捨てた。
「祐介」と合田がはっきりと加納を呼びかけた。
「こっちへこい。18年分の話をしよう。それから・・・」
「それから?」
「もっと話をしよう」
「俺は明日も仕事なんだよ」とあしらうくせに、加納は布団一式を抱え直して、雄一郎のベッドの傍らにどさりと置き、今度こそ猛烈なスピードと精度で几帳面に敷きはじめた。
「雄一郎、冷えるぞ。布団に入ってろ」と声をかけられた合田はベッドから立ち上がって加納をまたぎ、手洗いをすませて戻ると、加納がかがみこんで布団を整えている後ろに立った。その気配に加納が振り向く間もなく、合田は自らの腕の中に男を包み込んでしまった。
 加納はちらと顎だけ振り向きかけて、結局小さなため息をついた。
「俺は、ここにおる」
「わかっている」
「お前がいてくれる。それが嬉しい」
「・・・・・・いつまでそんな殊勝な態度なものかね」
「今までは失うものがなかった、だから怖くなかった」
「今は怖いか?」
「怖い。裏切りたくない、失いたくない」
 加納は合田の腕をやんわりとほどいて身を動かし、合田と向き合うと、その唇に細長い人差し指をあてて言葉を遮った。
「慌てるな、雄一郎。お前らしく、今までどおりでいいんだ。ただ、命さえ、大切にしてくれたら、それでいい」
 加納の瞳には切実な祈りがこめられているようで、合田の目は気づかず吸い込まれた。
 ああ、これが18年という歳月がこの男に与えた強さか。2か月の絶望などうっちゃってしまえる強靭な精神の練磨をこの男は重ねてきたのだ、と合田はようやくその夜の加納の言動に少しの納得がゆく思いだった。
 永遠に思いのかなわぬ人。そう思って耐えてきた18年、決して楽ではなかったが、苦しいばかりでもなかったのだろう。世話を焼き、甘えられ、たまの笑顔を向けられ翻弄され。それだけで満ち足りた日々もあったか。絶望を経て得難い対象を手に入れた今、加納は鷹揚に構えていられるだけの満足を味わっているのか。
「高望みは、人間を愚かにする」
 そう言ったかと思うと、加納は優しくも力強く合田をベッドに向けて背を押した。
「早く寝ろ、まだ本調子じゃないんだろう、馬鹿野郎」
 むやみと急ぐ者は愚かか。
 合田は自分の焦燥と、対照的に落ち着き払った加納の様子を見比べて敗北を悟り、拗ねたように布団をひっかぶった。
 いつだって冷静で、常人とは違う地平に立って見下ろすかのような加納の相変わらずの沈着さが心地よい。淡々と振舞うくせに、俺の平静を乱すのだ、お前は。どうすれば喜んでくれるのか、そんな初恋を知った少年のような心持を起こさせるのだ、お前は。
 加納も部屋の明かりをスタンドだけに落とすと布団にもぐりこんだ。
 別れた女房の顔を嫌でも思い出す男は、女房の痕跡が残る赤羽時代には主の留守を見計らって訪れていた。八潮に越してからは何かと正面から面をつき合わすようになり、今やすぐ触れられる距離で身を横たえている。
 ずっと、近すぎず遠すぎず、そんな距離にいると思っていた。
 違うのだ。この男はいつだって俺の一番望む距離を測っていたのだ。慎重に慎重に寄り添っていたのだ。
 互いの体温で暖をとり、命の重みを確しかめ、信頼を深め合う。一番自然に身も心も寄せ合える。そんな瞬間が過去にあったことをふと思い出し、「山に行こう」、唐突に合田がそう言うと、加納はかすかに笑った。ともに山に登った学生時代、多忙の合間を縫って頂を目指したその後の数年、よく二人、眠気と戦いながら語り明かしたものだ。実に些細なことばかり、よくぞ飽きもせずに、と思うほどに。俺はなぜあの充実を忘れ、あっさりと捨て去ろうとしたのだろう。
「急ぐな」
 とだけ言うと、加納は嘘のようにすうと眠りに落ちていった。
 激務、そしてこの俺という緊張、帰還して無事対面した後の弛緩。
 この男は疲れている。
 合田は枕もとの明かりを消しがてら少し体を起こして加納を見た。痩せたな、と思った。

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連載、単行本、文庫本を比較

改稿の激しい高村さんなので、加納関連に限り、連載と単行本、文庫本をできるだけ比較してみました。

マークスの山

照柿

レディ・ジョーカー

太陽を曳く馬

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照柿

■単行本にあって文庫では削除された表現

 ・合田が、太陽精工総務部長宅へ脅迫電話をした後、地面が傾いて見えるのは母が倒れたときと加納が涸沢で雪崩に埋まったとき、と回想する場面が削除。

■ちょこっと変更

・全体に、加納の合田への想いが本人にバレバレなのが文庫。

・水戸での会話はかなりこまごまと変更あり。「猿でも悩む」は単行本では加納が、文庫では合田自身が発言。帰省の暇を問われて「ほされてる」@単行本、「永田町を疑心暗鬼にさせとく」@文庫など。あと細かいですが、「い抜き言葉」は徹底的に修正されています。

・キリスト教から仏教へ改宗!

・加納母、亡き人…!!!!

・先に手に触れたのは合田@単行本、手相見のドサクサで手を握る加納@文庫。手相占いなんかできないんでしょ、加納よ!?

・達夫殺人後の合田取調べにて、直接電話で話す場面は伝言に変更。

・ラストの合田から加納への手紙、義兄殿→祐介殿に変更。こういう修正は大歓迎♪

~以下、個人的な感想及び突っ込みです~

「やるならもっとうまくやれ」

って誰ですかアナターーーー!!!!!!(大絶叫)

単行本では「それで、ほされてるのよ」とか「問答無用。君の罪を小生が代わりに負うことがかなうものなら」など大好きなセリフがいくつもありましたが、文庫では、文庫では……シクシク。唯一「俺の背中で何か考えているだろう」はちょっと好きです。広くてたくましい背中を想像できるので。

マークス文庫も「なんだか安っぽくなった?」と感じましたが、照柿はさらに加速していましたorz もっとこう、ときどき男らしくぞんざいな物言いはしても、隠し切れない上品さってものがさ、加納の良さであり持ち味でしょう。高村さん、これはいくらなんでもヒドイです。

合田シリーズでは照柿が一番好きな作品だけに、文庫の改訂はどうしても受け入れられないのでした……。

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加納セリフ集

とにかく加納が喋った、書いたことばかり集めました。

マークスの山
マークスの山(文庫)

照柿
照柿(文庫)

レディ・ジョーカー
レディ・ジョーカー(文庫)
レディ・ジョーカー(サンデー毎日連載)

太陽を曳く馬
太陽を曳く馬(新潮連載)

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照柿(文庫)

《ちょうどひとりで呑み直していたところだ》
《五日の朝、東京へ戻る》
《では四日に。泊まっていけよ》(上p.113)

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《無理するな》
「いま、君は水戸くんだりまで何をしに来たんだと考えていただろう?」
「早く上がれ。仏壇に線香をあげて、一風呂浴びて、それから痛飲だ」
「そら、また俺の背中で何か考えているだろう」
「正直なやつ!」
「おい、トマトが冷えてるぞ!」
「社有地の売買に、その筋の不動産会社が関わっているという話は聞いたことがある」
「夏休みというか、中休みというか。永田町を疑心暗鬼にさせておくのも悪くない」
「それで、君のほうはまだ八王子の殺しをやっているのか」
「行き詰まりか?話なら聞くぞ」
「その前に、賭場になんか出るな」
「言っておくが、俺が博打なんか許さんのは違法行為だからではない。それが裏社会という暴力装置につながっているからだ。俺は暴力が嫌いだ。暴力の薄暗さが嫌いだ。同じ理由で、この国の政治の系譜にも憎悪を覚える。警察や検察権力の系譜も同じだ。ああいや、政治家や官僚はどうでもいい。君だけは暴力装置と無縁の人間でいろ」
「食ったら話せよ」
「それで、八王子のホステス殺しのどこが、どう行き詰っているんだ」
「その二度目の索状痕に、生活反応はあったのか、なかったのか」
「まず、一回目の扼頸で被害者がすぐに死ななかったというのは、殺人もしくは殺人の構成要件を阻害しない。その上で、第二の絞頸については、そのとき被害者が生きていたのであれば、第一の扼頸に対する因果関係の中断となり、この第二が殺人の既遂、第一は殺人未遂となる。これは、仮に第一の扼頸がなければ第二の扼頸は起こらなかったとする場合でも、第一の扼頸と死亡との相当因果関係は認められないので、答えは同じになる。次に、第二の締頸が行われたときに被害者が死亡していた場合は、この第二の絞頸はふつうは客体がないものとして不能犯となるが、行為無価値論に立って未遂犯とする考え方もないではない。ちなみにこの場合、どちらの論を採用しても、当然のことながら第一の扼頸が殺人の既遂となる」
「先に言っておくと、第二の賊を挙げてもいない段階で、いかなる断定もすべきではない。その上で言うが、仮に第二の絞頸が行われた時点での被害者の生死がどうしても不明の場合、結論から言えば、死亡を採用するほかない。君が言うとおり、第二の絞頸は、その時点で被害者が生きていたから起こったと見るのが合理的ではあるが、被害者が生きていたことの立証責任は訴追側にあるから、立証が出来ないのであれば仕方がない。いずれにしろ現時点で君がすべきことは、ともかく第二の賊をひとまず殺人容疑で引っ張ることだろう。その上で、被害者の生死についてはあらためて精査すればよいのだ」
「物証が揃わずとも、犯罪を構成したという合理的な疑いがあれば引っ張ることは出来る。二人いるホシを一人にすることだけは許されんぞ」
「自首は、第三者が追い込んだら自首にはならない。頭を冷やせ」
「じゃあ呑もう」
「そら、この間見たときからずいぶん皺が増えている―――。寝ても醒めても何事か考え続けて、悩みを溜めて、じっとちぢこまっている子どもの手だ」
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だと言ったのは、ダンテの―――」
「しかし、ほんとうに意志の問題なのか、どうか」
「目の前にいるよ」(上p.363~374)

===ここから下巻===

《某所より入手。やるならもっとうまくやれ》(下p161)

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《手が空いたら四階まで電話されたし。カノウ》(下p.279)

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『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。
 まず、君が事件前に佐野美保子と相対した時間は、拝島駅で二分。東京駅で五分。立川駅で一分。合計八分に過ぎない。東京駅での五分は相対したとも言えないので、これを除くとわずか三分になる。あるいは小生の知らない時間がほかにもあるのかも知れないが、いずれにしても、人生のほんとうに短い時間だったことは一考に値すると思う。
 いま、徒然に『神曲』を読み返しながら、考えたことがある。ダンテを導くのはヴェルギリウスだが、君が暗い森で目覚めたときに出会ったのが佐野美保子だった。ダンテが《あなたが人であれ影であれ、私を助けてください》とヴェルギリウスに呼びかけたように、君は夢中で彼女に声をかけた。そして、それ以来恐れおののきつつ彷徨してきた君がいま、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまえ導いてくれたのが佐野美保子であり、野田達夫だったのだ。そう思えばどうだろうか。
 ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生のほうは未だ呼び止めるべき人の影も見えないぞ。
十月十五日
 加納祐介』(下p.318~319)

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照柿

《無理することはない》
《分かってる。気にするな》
《俺とお袋だけだ》
《来なかった》
《無理するな》
《ああ。では四日に》(p.74)

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《無理しなくていいのに》
「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」
「それから、風呂だ」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「夏だから畳に寝ても風邪も引かんだろう」「とにかく風呂から上がったらちょっと飲もう」

「今、ほされてる」
「そういうときもあるさ」
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票をめくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだという空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「小耳にはさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったことろだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「圧痕はどうなってる」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に首を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないから、やったやらないの水掛け論だ」
「それで、ほされてるのよ」
「そうだなあ……。場合によりけりだが、後半で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「雄一郎。お前、目が赤い」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「何か、というのは」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
「大丈夫か」
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば、人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「猿でも悩むそうだ」
「邪悪の手か」
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「意志だよ、意志。すべては」
「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」(p.245~254)

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『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』(p.380)

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《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》(p.470)

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『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。
 まず、君が事件前に佐野美保子と対面した時間は、拝島駅で二分、東京駅で五分、立川駅で一分、合計八分だ。東京駅での五分は対面とは言えないので、これを省くと三分。ひょっとしたら、小生の知らない時間がほかにもあるのかも知れないが、いずれにしても、人生の中のほんとうに短い時間だったということを、少し考えてみてもいいのではないか。
 今、もう一度『神曲』を読み返しているのだが、ふと考えた。ダンテを導くのはヴェルギリウスだが、君が暗い森で目覚めたときに出会った人は誰だろう。
 ダンテが《あなたが人であれ影であれ、私を助けてください》とヴェルギリウスに呼びかけたように、君が夢中で声をかけたのが佐野美保子だった。恐れおののきつつ彷徨してきた君が今、浄化の意志の始まりとしての痛恨や恐怖の段階まで来たのだとしたら、そこまで導いてくれたのは佐野美保子であり、野田達夫だったことになる。そう思えばどうだろう。
 ところで、小生も人生の道半ばでとうの昔に暗い森に迷い込んでいるらしいが、小生の方はまだ呼び止めるべき人の影も見えないぞ。

十月十五日

 加納祐介』(p.497~498)

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加納登場場面紹介

とにかく「加納」「義兄」「検事」等、加納祐介を人力検索!

*段落途中から文章を抜書きしている場合は冒頭に空白を入れていません。

マークスの山
マークスの山(文庫

照柿
照柿(文庫

レディ・ジョーカー(上・下)
レディ・ジョーカー(文庫上・中・下)
レディ・ジョーカー(サンデー毎日連載)

太陽を曳く馬(上・下)
太陽を曳く馬(新潮連載)

《雑誌(小説現代)掲載のみの7係シリーズ》

東京クルージング
放火(アカ)

《オマケ》

カワイイ、アナタ(文藝春秋、短編集『Invitation』所収)

「名探偵コナン」47巻、"名探偵図鑑"

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照柿(文庫・下)

 朝、出がけに元義兄の書棚から適当に失敬してきたそれは、ラシーヌの短い詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生したことぐらいしか覚えていなかったが、無理やりページを繰るうちに、一寸記憶が甦った。(p.12)

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 自宅のある三十八号棟へ辿り着くと、一階の郵便受けにあるはずの一日分の朝刊と夕刊が見あたらず、加納祐介が立ち寄っていったのが分かった。一昨日水戸で会ったばかりの元義兄がわざわざ足を運んできたのなら、思い当たる用件は一つ。八王子署に入った監査でばれた関連照会の不正が、またしても電光石火のごとく耳に入ったに違いなかったが、それだけのことであれば電話で怒鳴りつければすむのに、元義兄はそうはしない。自分の存在ゆえにいつまでも貴代子と元義弟の関係が終わらないことをいやというほど知りながら、すでに消えたはずのろうそくの火を、雄一郎のいない間にまた燃え立たせるために足を運んでくるのであり、個々の用件はみなその言い訳に過ぎない。それはもう、幾分かは双子の片割れに特有の心象にしても、大半は加納祐介という男の感情の中身の問題であり、端的に女より面倒な―――というところで、しかし雄一郎自身の頭も停止してしまうのが常だった。そしてそのときも、雑多な考え事の周りにもう一枚膜が張ったような心地になったに留まり、世間を憚る妄執は自分も同じだという自嘲で、それ以上の思案をやはり回避したのだった。
 元義兄が空気を入れ換えていった部屋は、昼間にこもった熱気の代わりに、かすかな整髪料の匂いが残っていた。明かりをつけると、台所のテーブルに取り込んだ新聞とコピー用紙一枚が載っており、B4判の用紙は案の定、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊コピーだった。昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所で、欄外には元義兄の達筆な走り書きで『某所より入手。やるならもっとうまくやれ』とあった。
《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者か。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つでいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の元義兄の机に回ってきたに違いなかった。そしていつものごとく、雄一郎としては、政官財の巨大な網の目にからめ捕られた権力機構の一隅に、遠い元係累の一寸した非をあげつらった怪文書が飛び交う下らなさのほうに感銘を受け、そこにいる本人の代わりに呆れ果てただけだった。たしかに《やるならもっとうまくやれ》だ。遵法の精神を生きてきたはずの男がいうのだから間違いない、などと思いながら、皮肉も失望も力なく湧いては消え、泥のようなため息に溶けて見えなくなった。
 いや、さすがの加納祐介もやはり怒ってはいるのだと、一寸思い直してみることもした。思い通りにゆかない他者との関係について。もはや矯正不能で理解しがたい他者と、それが自身の感情に及ぼす影響について。失望を重ねてもなお断ち切れない自身の思いについて。妹の貴代子にも言えなかった自身のそういう不明を、他人の男に言おうとして果たせないこと、そのことを祐介は怒っているのだ、と。そして、この直截なのか韜晦なのか分からない複雑な感情の持ち主と、いまも付き合っているのは結局俺自身なのだと思うと、最後はまた女より面倒な―――というところに戻るほかなかった。
 いや、なにかしら失望し、諦め、ある日決断した後に、さっさと男二人を捨てて出て行った貴代子に比べれば、残された男二人の未練や執着は目も当てられないというだけだった。その証のような書き置き一枚を雄一郎はその場で破り捨て、ウィスキーとグラス一つを手に隣の襖を開けていたが、しかし、そこもまた結婚生活の残骸そのものだった。(中略)
 十一年前の春、突然数式が一つ解けたような顔で、私たち結婚しましょうよと貴代子が言出だしたとき、君と俺では釣り合わへんと雄一郎は応えたのだったが、それは本心に忠実な直感だった。また、いくぶん思慮を欠いた貴代子の突進には兄祐介とのいわく言い難い密着からの逃亡願望があること、ならば相手は必ずしも自分である必要はないことを、雄一郎は気づいていなかったわけでもなかった。(中略)
はたまた、貴代子をはさんであれほど剣呑だったはずの男と、十年経ったいままた微妙に生温かい近さにあるような、ないような自分。(p.160~166)

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もっとも、続けて元義兄宛てに書き始めた返信のほうは、そうはゆかなかった。元義兄に対しても嘘は山ほどついてきたが、そのつどなぜか後ろ髪を引かれる思いがし、陥る必要のない後ろめたさに陥って、結局いつも筆が進まない。(中略)
『(略)
 八月七日
 加納祐介様
    雄一郎拝』(p.179)

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「そうそう、始める前に言伝てがある。半時間前に電話があった」そう言って、辻村が机に置いたメモには、『手が空いたら四階まで電話されたし。カノウ』とあった。
 どうせまた、噂は桜田門を駆け巡って検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、慎重の上にも慎重な加納祐介が、警察に直接電話を入れてきたのは初めてだった。いったいそこまで案じるべき事態なのか。あるいは特捜部検事がこれを機に、かけなくてもいい脅しをかけて、桜田門の特定の何者かに対して意趣返しをしてきたということなのか。雄一郎にはどちらとも分からなかったが、もともとやる気のなかった重い心身に、鈍い一撃を食らったような気分でメモを握り潰した。一方辻村は、カノウが何者かをもちろん承知しているようで、「その人にはくれぐれも、内輪の話だと言っておいてほしい」と呟いただけだった。(p.279)

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『祐介殿
 長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従い、先週休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』
『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに君の心中を察しつつ、外野から二つだけ申し上げる。(中略。セリフ集を参照してください)』

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照柿(文庫・上)

 そうして八王子駅に辿り着くと、雄一郎は公衆電話からまず私用の電話を一本かけた。相手は分かれた貴代子の双子の兄であると同時に、雄一郎にとって大学時代からのほとんど唯一の知己でもある男で、先週久しぶりにハガキをよこし、法事がある八月二日を避けて一度水戸の実家のほうへ寄るように言ってきたのだった。しかし、かくいう本人も警察以上に多忙をきわめる東京地検におり、春先から続いているゼネコン数社と地方自治体首長の大がかりな贈収賄事件のさなかに帰省などしているのは、捜査が国会閉会中の永田町に及んでいることの証でもあったから、昔の友とのんびり旧交を温めているようなときではない。ひょっとしたらアメリカにいる貴代子が戻っているのかといった想像も巡らせてみたが、それなら雄一郎としてはなおさら連絡を取りづらく、一日また一日と先伸ばしにしてきたあげくの電話だった。
 すでに半日前に法事は終わっていたが、大きな旧家のこと、誰が残っているか分からないと思ったが、電話口に出たのは本人で、《ちょうどひとりで呑み直していたところだ》というのが第一声だった。
「俺のほうは明日は大阪へ出張だ。あんたは、そこにはいつまでいる」
《五日の朝、東京へ戻る》
「四日の夜、顔を出していいか。この季節を外したら、またいつ会えるか分からないから」
《では四日に。泊まっていけよ》
 元義兄は、貴代子が来たとも来なかったとも言わず、雄一郎も尋ねなかったが、毎夏、双方がいくらか平静を欠き、愚かな困惑と遠慮を繰り返して懲りることがないのだった。いくら大学時代からの付き合いでも、妹との結婚を破綻させた男に向かって、昔と同じように自分の実家に来いという男は、未だに妹と自身の友人関係について、何かの幻を見続けており、貴代子もまた、いまは別の男と外国で暮らしながら、なにがしかの目に見えない執着と悔恨の秋波を兄に送り続けている。そして雄一郎自身もまた、戸籍の手続きのようにはその兄妹との関係を切ることが出来ずに、いまなお元義兄とハガキや電話のやり取りをしているのだ。かくして三者三様の未練は消えかけては蘇生し、じりじりと熱をもち続けて、毎年夏がやってくるのだった。
 短い電話一本のなかに、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも開いての熱ともつかない息苦しい靄になって、電話線を伝わり合ったかのようだった。常磐線の急行に乗れば今夜にでも行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している元義兄との当たり障りないやり取りは不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.112~114)

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 雄一郎はほとんど聞いていなかった。頭の中は、土井を追い込むための方策が一つ、水戸の義兄を訪ねるという約束が一つ、佐野美保子の顔が一つ、浮いたり沈んだりしていた。(中略)氷をひとかけら入れたウィスキーにありつけるなら、約束通り、水戸まで義兄を訪ねていくのもまあいいかという気になった。(p.352)

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 その後、新宿の歌舞伎町に立ち寄って生花とウィスキー一本を買い、遅くなる、と水戸に詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で元義兄は《無理するな》と繰り返したが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
 声を聞くだけで双子の妹と重なってしまうその遠い顔を押し退け押し退けしながら、雄一郎はわずかな時間も惜しんですぐに寝入り、一昨日と同じ夢を見た。(中略)
 雄一郎も泣く。崩れた視界に広がるのは臙脂色に燃える空で、まるでいくつもの顔や声を投げ込んだ炉のようだと思いながら、目を凝らし続けた。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か。(中略)
 水戸まで約一時間半、爽快とは言いがたい時間を過ごした末に辿り着いた旧家の、磨かれた広い玄関の上がり框に、加納祐介は優雅な紬の着流しを着て立っていた。いくら元は身内だったと言っても、常識で許される範囲を超えた深夜の来客を、当主としては歓待するわけにもゆかず、さりとてそれを承知で招いたのは自分だという事実を鑑みるに、とりあえず見た目の威厳をとりつくろってみたといった風情だった。ともにまだ十八、九だったころから、何につけ数ヶ月の年長や、教養や、家柄という社会的基盤の違いを理由に、雄一郎の庇護者を任じてきて、いまやそれが習い性になった永遠のお殿様。兄上様。雄一郎は一秒考え、自分がハガキの返事を先伸ばしにしてきたほんとうの理由はこれだなと思った。しかしまた、その一秒後には従順な弟の役回りに甘んじている自分がおり、他人には見せられない隠微な兄弟ごっこをやりたかったのは自分も同罪だと認めると、まずは苦笑いを噴き出させるほかはなかった。そして相手も同様に苦笑いで応え、開口一番言ったのはこうだった。
「いま、君は水戸くんだりまで何をしに来たんだと考えていただろう?」
「着流しが似合うなあと考えていただけだ。遅くなってすまん」
「早く上がれ。仏壇に線香をあげて、一風呂浴びて、それから痛飲だ」
 元義兄は顎で早く上がれと促し、先に立って中庭をかこむ回り廊下を奥座敷へ進んだ。
 この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合って以来、その両親にほとんど息子のように迎えられて、夏休みや正月休みを過ごした家だった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の飴色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物に積もった埃の深さ。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書の日向臭さ。そのどれもが自分には無縁の暮らしや、伝統とか血筋といったものの動かしがたい現実のあることを若い雄一郎に思い知らせたが、雄一郎自身はそれに対して一定の敬意を払うというかたちでしか相対することが出来ず、どこまでも自分が同化することはなかったのだった。しかし、加納家の人びとはそれをまた人間の品格だなどと言い、母親を亡くして天涯孤独になった雄一郎をことのほか慈しんだ。そして、そんな過ぎた時間がみな幻想だったことを、先代当主夫妻が知らずに他界したことこそ幸福というもので、家を継いだ息子はいまだに結婚もせず、管理人に家を預けて盆暮れにしか戻らない気ままさだけならまだしも、妹の結婚生活を破綻させた男をいまなお亡父母の仏前に招き、雄一郎もまた本来なら上がれるはずのない家に上がり、たまに泊まったりもするのだ。
 それはほとんど加納祐介と自分の共犯というものだったが、たくらんでいることの中身まで同じだという確信は雄一郎にはなかった。元義兄がいまでは別の男とアメリカで暮らしている妹への未練を抱き続けているというのは自分の想像に過ぎず、片や自分自身も、たんに兄弟ごっこのために十六年も一人の男と付き合っているはずがない。いまなお何かにつけ貴代子が、貴代子がと話題にし続けている反面、どちらにとっても年々遠いものになってゆく貴代子はいまや言い訳に過ぎないのではないかとも思うと、すべてが靄のなかというのが真実ではあるのだった。しかも、それにもかかわらず自分はなおも元義兄に会い、元義兄もまるで当たり前のように庇護者もしくは年長の友人の顔をつくる。そうして顔を合わすたびに記憶は更新され、改竄され、二人してとりあえずいま問題がないのであればとすべてを未決に留めるのだが、しかしいったい何のために?檜の廊下を進みながらそんなことを考えるともなく考えていると、「そら、また俺の背中で何か考えているだろう」と元義兄は言った。
「そうかも知れない。今夜はお参りはやめておくよ。花だけ供えてさしあげて」
 生花を渡してそう言うと、元義兄は「正直なやつ!」と声を上げて笑い出した。
 正直?違う。どちらも不実だ。本心などどこにもなく、どちらも少しも相手のことを知らないことを知っていて踏み出そうとしない。これは不実だ。雄一郎は思ったが、それにしても不実にすら意味がない。自分たちはまったく意味のない時間をこうして積み上げているというのが、一番当たっているのだった。
 とはいえ、一風呂浴びて浴衣に着替えたころには、自分もそろそろ生活を落ち着けることを考えなければといった方向へ頭は逸れてゆき、あまりの現実味のなさに辟易したところで、広縁のほうから「おい、トマトが冷えてるぞ!」と呼ぶ元義兄の声が響いた。
 元義兄は昔の自分の部屋に面した広縁を開け放して、ウィスキーの用意をしていた。管理人夫婦の畑でとれたトマトとキュウリが氷の入った手桶に放り込んであり、七輪の網にはこれも頂き物に違いない笹ガレイと蛤が載っていた。雄一郎は薦められるままにトマトにかぶりつきながら、去年のなつにも同じようにして同じトマトを食ったと思い出したが、何か言おうとしてもろくな言葉が出てこなかった。美味いとか何とかどうでもいい言葉を吐いて、注がれたウィスキーを呷りながら、何もかも見透かしているような元義兄の視線を感じた。
「昨日、東京駅で十八年ぶりに大阪の幼馴染に会うてな。太陽精工の羽村工場に勤めているということやったが、あそこ、国税の内偵が入ってなかったか」
「社有地の売買に、その筋の不動産会社が関わっているという話は聞いたことがある」
「そうか。特捜部が関知するような話でないんなら、よかった。ところで、ゼネコンの収賄事件のほうは夏休みか」
「夏休みというか、中休みというか。永田町を疑心暗鬼にさせておくのも悪くない」
 元義兄はいかにも特捜検事らしい物言いで、さらりとかわした。十年前には、書物に手足が生えたような、こんな高等動物が地検のなかにもある不毛な権力闘争を渡ってゆけるのかと思ったが、いつの間にか得体の知れなさや厚顔までしっかり身につけて、少なくとも社会的には磐石そうな加納祐介だった。
「それで、君のほうはまだ八王子の殺しをやっているのか」と聞かれ、雄一郎はまた少しなげやりな気分に戻りながら「まあな」と応じた。
「行き詰まりか?話なら聞くぞ」
「いやや。ウィスキーが不味くなる」
「その前に、賭場になんか出るな」
 そらきた、と思った。地検内部の隠微な権力争いのなかで、一度は身内だった刑事一人の身辺までがネタになって飛び交い、元義兄の耳に入る。いつものことではあったが、見ず知らずの何者かの悪意や中傷よりも、元義兄に知られることそのことが神経にこたえた。いや、元義兄の善意がこたえたのだと自分に認めた一方、ほんとうは賭場どころではない、俺はいまは私生活のなかで嫉妬を一つ飼っているのだ、この男は何も知らないのだと思い直して、やっと自分を落ちつかせた。
「検事の名刺一枚で代議士でも呼びつけられるような人間に言われたくない」
「言っておくが、俺が博打なんか許さんのは違法行為だからではない。それが裏社会という暴力装置につながっているからだ。俺は暴力が嫌いだ。暴力の薄暗さが嫌いだ。同じ理由で、この国の政治の系譜にも憎悪を覚える。警察や検察権力の系譜も同じだ。ああいや、政治家や官僚はどうでもいい。君だけは暴力装置と無縁の人間でいろ」
「カレイを焼きながら言うことか。それ、もう焼けているやろ。食うてええか?」
「食ったら、話せよ」
 黄金色にぷっくりと焼けた笹ガレイは美味かった。雄一郎はつい昨日、大阪の飛田新地の小料理屋で何を食ったのか思い出せないまま、俺はいったいここで何をしているのだと思い思い一枚を平らげ、元義兄のほうはたったいま披瀝した暴力装置云々ももう頭にないかのような顔で、二杯目のウィスキーを悠々と啜っていた。
「それで、八王子のホステス殺しのどこが、どう行き詰っているんだ」
「被害者は一人。現場も一つ。そこにホシが二人。各々わずかな時間差でまったく別々に関与した、いわゆる同時犯の話だ。今日現在、別件で逮捕された第一のホシが、被害者の首を手で絞めたことを自供している。これは被害者の顔見知りで、犯行は居直り。殺意はあった。二人目はベランダからの侵入で、被害者の爪から検出された汗の成分などから、容疑者はほぼ割り出されているが、捜査幹部は二人目の存在そのものを認めない。そういうわけで今日の夕方、一人目のホシを殺人と窃盗で再逮捕したところだが、剖検の所見では、一人目が被害者の頸を絞めたとき、すぐには死ななかった可能性があるというだ。実際、二番目の賊がさらに被害者の頸を絞めたと思われる、扼痕とは別の索状痕もある」
「その二度目の索状痕に、生活反応はあったのか、なかったのか」
「わずかにあった。だから厄介なんだ。二度目に頸が絞められたとき、被害者が生きていた可能性も、死亡直後だった可能性もある。もっとも常識的には、二番目の侵入者がわざわざ被害者の頸を絞めたのであれば、絞めなければならない理由があったと考えるのがふつうだろう。つまり、少し前に第一のホシに頸を絞められて失神していた被害者が、急に息を吹き返して起き上がったとか、物音に気づいて声を上げたとか」
「まず、一回目の扼頸で被害者がすぐに死ななかったというのは、殺人もしくは殺人の構成要件を阻害しない。その上で、第二の絞頸については、そのとき被害者が生きていたのであれば、第一の扼頸に対する因果関係の中断となり、この第二が殺人の既遂、第一は殺人未遂となる。これは、仮に第一の扼頸がなければ第二の扼頸は起こらなかったとする場合でも、第一の扼頸と死亡との相当因果関係は認められないので、答えは同じになる。次に、第二の絞頸が行われたときに被害者が死亡していた場合は、この第二の絞頸はふつうは客体がないものとして不能犯となるが、行為無価値論に立って未遂犯とする考え方もないではない。ちなみにこの場合、どちらの論を採用しても、当然のことながら第一の扼頸が殺人の既遂となる」
「だから現場は悩んでいるんやないか。第二の絞頸が行われたときに、被害者が生きていたか死んでいたかが証明不能なんだ」
「先に言っておくと、第二の賊を挙げてもいない段階で、いかなる断定もすべきではない。その上で言うが、仮に第二の絞頸が行われた時点での被害者の生死がどうしても不明の場合、結論から言えば、死亡を採用するほかない。君が言うとおり、第二の絞頸は、その時点で被害者が生きていたから起こったと見るのが合理的ではあるが、被害者が生きていたことの立証責任は訴追側にあるから、立証が出来ないのであれば仕方がない。いずれにしろ現時点で君がすべきことは、ともかく第二の賊をひとまず殺人容疑で引っ張ることだろう。その上で、被害者の生死についてはあらためて精査すればよいのだ」
 元義兄の意見は筋が通り過ぎていて、苦笑いしか出なかった。雄一郎は首を横に振った。
「あんたに言われなくても、問題が捜査のいろいろな不足にあるのは承知の上だ」
「物証が揃わずとも、犯罪を構成したという合理的な疑いがあれば引っ張ることは出来る。二人いるホシを一人にすることだけは許されんぞ」
「とにかく、送致までに第二の賊をせめて自首に追い込むことができれば―――」
「自首は、第三者が追い込んだら自首にはならない。頭を冷やせ」
「頭を冷やしていたら、一つ失い、また一つ失い、自分が立つ場所もなくなってゆく。一つ失うたびに、確実に何かが減ってゆく。少々強引だろうが違法だろうが、眼の前のホシを挙げることで、自分がやっとどこかに立っていられる。こんな感じはあんたには分からんだろう。もうやめよう、こんな話」
 雄一郎はそういって話を打ち切り、「じゃあ呑もう」と元義兄は新たなウィスキーを二つのグラスに注ぎ足した。貴代子との離婚以来、どちらも互いの神経に触れるところまでは踏み込まない習慣がついて、やめようと言えばやめる。呑もうと言えば呑む。ずいぶん大人になったということだった。しかし、そういて新たに呑み始めてすぐ、元義兄は今度は雄一郎の左手を取って素人の手相見を始め、また少し、やめろ、やめないといった子どもじみたやりとりになった。
「そら、この間見たときからずいぶん皺が増えている―――。寝ても醒めても何事か考え続けて、悩みを溜めて、じっとちぢこまっている子どもの手だ」元義兄は言い、
「猿でも悩むんやそうや」雄一郎は言い、今度は自分が元義兄の手を取って覗き込んでみたが、それも細かい皺に満ちた繊細な掌だった。しかも、貴代子と実によく似た掌。
 そら見ろ。人知れない悩みの深さという意味では、この男は自分よりずっと上のはずなのだ。そして、この目。貴代子と同じ目。旧家の奥深い静けさのなかで、双子にしか分からない隠微な情念を溜めていた兄妹の目。貴代子と雄一郎の間に立って、理性の采配をふるいながら、その実ひそかに二人に対する嫉妬の火を燃やしていた男の目。どんなに理知の覆いをかけても、必ず愛憎と苦悶の下地が浮き出してくる目。
 雄一郎は、自分と相手の双方に対する解きほぐせない感情の塊を認めながら、ひねり潰したいような思いで、自分の手のなかのもう一つの手を締めつけ、ふりほどいた。しかし、そのとき元義兄のほうあまったく別のことを考えたに違いなく、少し間を置いていかにも元義兄らしいやり方で韜晦してみせたものだった。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だと言ったのはダンテの―――」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「しかし、ほんとうに意志の問題なのか、どうか」
 元義兄は自分で言い出しておきながらめずらしく言葉を濁し、雄一郎のほうはふと、この元義兄に尻を叩かれて貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは二十歳のころだったことを思い出したものだった。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられたが、頭脳明晰な貴代子は『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだ、と。もうはるか昔、雄一郎の目のなかで永遠の光と一つだった時代の、輝くばかりの貴代子がそこにいた。
「あんたにも、意志ではどうにもならないことがあるわけか」
「目の前にいるよ」
「そんな真顔で言わんといてくれ。ドキッとするやないか―――」
 雄一郎はあまり正確ではないと思いながら、そんな返事しか出来なかった。
 午前三時前、元義兄は先にベッドに横になった。広縁からその姿を眺めながら、雄一郎は二十一歳の秋、その同じベッドで貴代子を初めて抱いたことをまた一つ思い出した。加納祐介が司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家出連休を過ごしたのだが、それは貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じるかたちで抱き合ったとき、二人して今から始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかったはずだが、そうして兄妹の絆や男同士のある種親密なつながりを一気に瓦解させるに至ったそのベッドで、ひとり己の立場のなさや嫉妬と折り合いをつけてきた男が、いまは安らかに手足を投げ出して眠っていた。そして、その魂を再々裏切って、いまや貴代子ではない女のことを考えている自分がいた。(p.363~375)

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照柿

 早足で八王子駅にたどり着き、もっと早くにかけなけれなならなかった私用の電話一本をかけた。その日は、分かれた妻の水戸の実家で、先代当主の七回忌の法要があったのだ。法事は半日も前に終わっているが、そういう日には親戚や手伝いの人間が何かと残っているものだし、電話にも誰が出るか分からないと思ったのだが、つながった電話に余計は物音はなく、応えたのは若い当主の静かな声が一つだった。
「すまない。行けなかった」と言うと、《無理することはない》と返事があった。
「忙しかったんだ」
《分かってる。気にするな》
「そちらには、誰かいるのか」
《俺とお袋だけだ》
「貴代子は」
《来なかった》
「……そうか。あんたはそっちにはいつまでいる」
《四日まで》
「四日の夜、顔を出すよ」
《無理するな》
「いや。あんたにも会いたい。どうぞ、ご母堂様によろしくお伝えしてくれ」
《ああ。では四日に》
 電話の主は、貴代子の双子の兄だった。本人も東京地検の現職検事で、夏休みをかねて法事のために帰省しているだけだ。春先から続いているゼネコン各社と地方自治体首長の贈収賄容疑の捜査も、夏に入って永田町に内偵が入り始めたのか、特捜部は表向きの動きを止めている。そのせいもあって、今ごろ水戸へ帰っているのだろう。
 先日、法事の段取りを電話で知らせてきたとき、義兄はアメリカにいる貴代子にも知らせたと言った。貴代子は分かったとだけ答え、行くとも行かないとも言わなかったらしい。(中略)
 なにしろ、誰もが少し平静を欠き、相も変わらず愚かなのだった。どんな事情があれ、女房を不倫に走らせたこの自分に向かって、顔を出せるはずもない法事に来いという義兄は、未だに妹の壊れた結婚や、雄一郎との兄弟関係について、何かの幻を見続けている。(中略)誰もが果てしない絆と矛盾をひきずって、毎年夏を迎える。
 しかしこの六年、疼いては鎮まり、膿み続けてきた怒りの根も、月日とともに少しずつ変化し、表向き散漫になってきているのは事実だった。電話に出た義兄の声も、以前に比べればずいぶん淡々としてきていた。大学時代からの十六年の親交だから、互いに心のうちはいやというほど読めるのだが、それでも最近は、何を分かるとも分からないとも言わず、互いの感情に触れ合うことも少なくなった。法事については、義兄は一応声をかけただけだと言うだろうし、雄一郎はあれこれの事情で行かなかったと言うだけのことだ。
 しかし、短い電話一本の中には、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも相手の熱ともつかない息苦しい靄が電話線を伝わりあった。常磐線の急行に乗れば法事に行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している義兄との当たり障りないやりとりは、不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.73~75)

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 水戸の義兄を訪ねる約束を頭の隅で気にしながら、雄一郎はそれを押しやって、いったん出てきた署へ舞い戻り、玄関をくぐった。(p.241)

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 遅くなる、と詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で義兄は《無理しなくていいのに》とくりかえしたが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
 学生のころから、めったに感情を覗かせない物静かな物言いをする男だったから、大学三回生で司法試験に合格した後、検事になりたいと本人から聞かされたときには、判事の方が向いてるんじゃないかと真面目に意見した。それも昔話だ。司法修習生時代を含めて、大阪、京都、福井、新潟、また京都と、地方の地検を転々とした十一年の後、結局は東京地検の特捜部に迎えられて二年、首が飛ばないところからみて、それなりに何とかやっているらしい。
 考え始めると、どうしても双子の妹貴代子の顔と重なってしまう義兄の顔を押し退けて、雄一郎は缶ビールひと缶を空けてすぐに眠ろうとした。(中略)
その色と一つになって絡みあいうごめく肉体の気配がそこここに満ち、それが誰と誰なのかと目を凝らす。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か、あるいは自分なのか。

 加納祐介は、紬の着流し姿で広い玄関の上がり框に立っていた。雄一郎が「遅くなって……」と詫びると、「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」と義兄はのたもうた。
「とりあえず、お父上にお祈りさせてもらおう」
「それから、風呂だ」
 義兄はわずかに顎だけ動かして早く上がれと促し、先に立って中庭を囲む回り廊下を奥座敷の方へ進んだ。
 この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合い、その実家にほとんど身内のように迎えられ、夏休みや正月休みを過ごした。その時代とまったく変わらない佇まいだった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物にわずかに積もった埃の輝き。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書のカビ臭ささえ、優しく芳しい。当時健在だった加納家の人々はこの家を、物静かな話し声、ときに闊達な笑い声、控えめな笑み、真摯で厳しい学究の眼差しで満たした。どれもこれも雄一郎の知らなかった世界であり、十八にして吸収し始めた新たな世界のすべてがそこにあった。それらの面影が、人けの絶えた暗がりのすみずみにしみつき、匂い立っていた。そして、最高検察庁の検事総長を務めた先代が亡くなって六年、今は先をゆく男がそれらの見えない空気を受け継ぎ、背負っている。それが似合い、荷重な務めでもない加納祐介だった。
 それにしても、廊下を進む間、いくつかある座敷はすべて静まりかえり、人が動き空気が動いた気配もなかった。ご母堂をはじめ、古くからの手伝いの者も住んでいるはずなのに、誰もが足のない精霊か空気のように障子や壁を通り抜け、今はどこかの部屋で眠っているのだった。人も精神も時間も、微動すら拒否しているように感じられる。こんな世界もあったのだとあらためて思い出すのは、一度は自分自身もその中にいた時代からすでに時が経ち、そこから離れて久しいということの証だった。そうしてこの家が年々遠くなっていくのは、貴代子が去ったことと無縁ではないだろうが、それだけの理由でもなかった。東京での、高潔とは言いがたい日常に汚れた頭には、何もかもが切ないほど遠く、白々しく感じられるのだ。
「お袋さんはお変わりないか」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
 先代の時代から、この家は旧家にもかかわらず冠婚葬祭は質素にやるのが伝統だったが、祐介が家を継いでから質素は簡素になり、宴席なども一切やらなくなった。しかし、それはたんに合理主義や清貧を尊ぶせいばかりではなく、ある断固とした思いや事情があって、祐介はこの六年あまり、法要であれ何であれ、この家に一切の他人を入れないできたのだった。雄一郎と貴代子の結婚生活が破綻し、貴代子が大学時代の友人とアメリカへ行ってしまったときから、いつか貴代子が戻ってくる日が来ると信じてきた故の、かたくなな愚行だった。その不動の思いがこの家の凛とした暗がりに響いていた。多分、それはこの先も変わることはない。愚かだと気付いても、自分の道を曲げることはない。それが祐介という男だ。
 しかし、ここには同時に、その父母や先祖がもたらしたものではないある種の奇妙な緊張が満ちていて、それは大部分、兄弟と雄一郎の激しい確執からつむぎ出されてきたきたものだった。十六年も続いてきたのだから、いいかげん色褪せてもよさそうなものなのに、顔を合わすたびにすべてが新たになる。何ひとつ減りもせず、前進もなく、解消の道も見えない。合理主義とは裏腹もいいところだが、それに毅然と耐えているところを見ると、祐介という男の中身は先代とはかなり違う、前世紀のロマン主義に毒された夢想家なのかも知れなかった。もっとも本人は、己の理想とするものを守って何が悪いと言うだけだろう。その理想というのが、雄一郎の目には世界の秩序に対する懐疑と紙一重のものに見えるのだが。
 それにしても、ただ貴代子が帰ってきやすいようにという配慮のために人を遠ざけ、毎年性懲りもなく一族の非難の目を浴びつつ形ばかりの法要を営み、そのあげくにせっせと若白髪を作っているというのは、もはや滑稽の域に達していた。
「また増えたな」先をゆく義兄の後ろ髪を見ながら、雄一郎がそう言うと、「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」という几帳面な返事があった。
 祐介は、かつて先代の居室だった奥座敷の障子を開けた。床の間の横の付け書院に故人の写真と十字架と鉄砲ユリ一輪が飾ってあり、聖書が一冊置かれ、蝋燭が灯っていた。雄一郎は差し出された座布団に正座し、聖書を開いた。
 遺影の人は生前、「雄一郎君」と呼んでかわいがってくれ、何も分からない青二才に向かって懇切丁寧に遵法の精神について語り、ときどきの法解釈の問題について論じてくれた人だった。しかし、年に数回も開かない聖書を開いても、雄一郎の方は、追悼の祈りに読むべき箇所など思い出せない。結局、詩篇の中から葬式用でないことだけは確かな一篇を選び、読み上げた。
 もろもろの天は神の栄光をあらわし……この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ……という一篇だった。
 雄一郎がそれを読み終わると、義兄がさっさとあとを継いだ。
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
 アーメン、と雄一郎も応唱した。
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「布団は要らない。明日の朝は、始発で帰るから」
 雄一郎がそう言うと、「夏だから畳に寝ても風邪を引かんだろう」と義兄は独りごち、「とにかく風呂から上がったら、ちょっと飲もう」と言って、先に部屋を出ていった。

「あんた、今、忙しいんだろう。ゼネコンの贈収賄の方は中休みか」
 雄一郎がそう探りを入れてみると、義兄は「今、ほされてる」とあっさり応えた。
「へえ……」
「そういうときもあるさ」義兄は恬淡としたものだ。
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票めくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだと言う空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「上と意見が合わへんのか」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
 雄一郎には詳しい事情は分からないが、地検にも不毛なパワーゲームがあるらしく、霞が関や永田町の意向が絡んでくるとさらに泥沼になり、土台、そういう駆け引きは向かない義兄だから、それなりに苦労はしているようだった。とくに貴代子が雄一郎を捨てて選んだ男が反体制の傾向のある人物だったことで、雄一郎ともども身内の思想偏向を問われているという事情もある。雄一郎にしても、今でも定期的に公安が自宅周辺をうろついているし、人事考課の覚えもよろしくない。
 義兄との間には、貴代子をはさんでずいぶんいろいろな事があった。大学出たての尻の青い警官一人の女房が、町内会に誘われて原発反対の署名一つをしたのが、つまずきの始まりだった。貴代子自身はまったく思想偏向はなく、町内会での反対運動の音頭とりをしたのが労働団体の女性幹部だったことが後になって分かったときも、きょとんとしていたぐらいだった。ともられ、そのおかげで亭主にはアカのレッテルが付き、義兄も同じく十年近くも冷や飯を食わされる羽目になったが、貴代子の自由な精神こそ、身に覚えのない中傷で癒せないほど傷ついた。そして雄一郎も義兄も、それをどうすることも出来なかったのだ。
 保身のために、男二人がどんなに臆病だったか。中傷には耐えたが、貴代子を守るために男二人は具体的に何をしたか。義兄が、こうして毎夏貴代子を待つのも、己の自責や後悔の念と無縁ではないだろう。しかし、雄一郎が亭主として女房一人守れなかった事実の何分の一かは、もっと卑近な男と女の話だった。それは、結婚したことのない義兄には分からないだろうし、雄一郎も口にしたことはない。
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「ああ」
 義兄がウィスキーと氷を運んだのは、昔の自分の部屋だった。裏庭に面した広縁があり、そこに籐の椅子とテーブルが置いてある。開け放した縁側にすだれを下ろし、蚊取線香をたいてそこに座った。本棚にはかつての書物がそっくり残っていて、机もスタンドもベッドもそのままだ。多分、帰省している間はそこで寝ているのだろう。寝具のカバーが乱れていた。
 しかし、懐かしいそれらの光景を眺めても、雄一郎の頭からはまだ現世の雑事が離れず、気がつくとそれとなく義兄の顔を窺っている有様だった。
「そういえば……太陽精工の総会屋対策の話、そっちでは聞いてないか」
「小耳にははさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「いや、別に。知り合いが羽村工場に勤めていて……。四課の方からちらりとそんな話を聞いたんで、思い出しただけだ」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったところだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「そうだな」
 この優秀な義兄相手にヘタな探りを入れると、逆に痛い腹を探られる。義兄のもとへは、義弟の賭場通いの噂は届いているのかいないのか、そんなことはちらりとも窺わせない淡々とした表情で、義兄は雄一郎を見つめていた。
「祐介。八王子のガイシャなんだが……。ホシが二人いて、それぞれ別々に侵入した、と考えてみてくれ。最初の賊がガイシャの頸を絞めて逃げ、それから二番目の賊が知らずに入ってきた。この二番目の奴が、もう一度ガイシャの頸を絞めた可能性があるんだ……」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「それははっきりしない。しかし、最初の賊の自供では、頸を絞めた後に女は鼾をかいて眠り込んだというんだ。だから、すぐには死ななかったんだろうし、いつ死んだのかも分からん。第二の賊の侵入前か、侵入後か……」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「凝血や肺臓の水腫が見つかった。多分、急性の窒息死ではないだろうという程度の話だが」
「圧痕はどうなってる」
「一回目のは扼頸で、はっきりした表皮剥脱や皮下出血がある。二番目の圧痕は、肉眼で判別できる所見はない。ただし、たしかに何かの圧迫があったということは、弾力繊維の染色検査で確認された」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「ああ。それは出来ない。二番目の賊がガイシャに触れたというのは、あくまで可能性の話だ。ガイシャがそのとき、二番目の賊を自分の手で掴んだらしい形跡もあるんで、ならば賊もガイシャに触れたのかなと……」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「ほんの少し、生活反応の痕跡が見つかったから、生前の圧迫だったとも言えるんだが、ひょっとしたら死亡直後だった可能性もあるしな」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「ああ」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「ああ。頸絞めた後に、金品を盗んだ」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」と義兄は言った。「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に頸を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
 義兄の意見は筋が通り過ぎていて、いつも思わず苦笑いが出る。雄一郎は首を横に振った。「それが出来たら苦労はない。第二の賊は目星はついているんだが、引っ張るにしても、物証がまったくないときてる」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「ああ、今のところはな。でも、このまま引き下がるわけにはいかんから、なんとか物証は探す」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないからやったやらないの水掛け論だ」
「でも、あんたは針の目でも探すだろう?」
「それで、ほされてるのよ」
「なあ、あんたが担当検事ならどうする?仮に頸を絞めたという自白が取れて、状況証拠も固まったが物証が出ないケースの場合、起訴する?」
「そうだなあ……・。場合によりけりだが、公判で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「あんたならそう言うと思った」
 ウィスキーは美味かった。風呂上りの火照った身体に夜風が心地好かった。さまざまな懸案はとりあえず浮きも沈みもしない状態で、ウィスキーの池に漂っていた。これといった理由もなく「東京へ帰りとうない」といった愚痴がぽろりと出たら、義兄は聞こえたのか聞こえなかったのか何も応えず、ただちらりと微苦笑を見せた。
「雄一郎。お前、目が赤い」
「この二ヶ月休みなしだから」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「それまでには何とかなるだろう。とにかく、今抱えている事件を片付けないと」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「それは違う。登山は、退いても何も減らへんやないか。刑事の仕事は、一つ退くたびに、確実に何かが減っていく」
「何か、というのは」
「地歩みたいなもの……かな。手柄や地位の話やない。休みなく一歩一歩固めていかないと、己が立つ場所もないような感じだ。事件というのは、毎日毎日起こるからな……。退きたくても退く場所もない。せめてホシを追うことで、自分がやっとどこかに立っているという感じだ……」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「ウィスキーのせいだな、多分」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
 別に構えたふうな口ぶりでもなく、義兄はさらりと言った。どうせ、義兄の耳には届いているだろうと雄一郎も思っていたので、驚きもなかった。広い東京のかたすみをごそごそ這い回っている刑事一人に過ぎなくとも、間違いやミスだけは見逃されることはなく、さまざまな口を借りて、あちこちへ漏れていく。ただし、それをわざわざ義兄の耳に入れる連中には、例によって積年の悪意がある。
 しかし義兄は、だからどうだといった表情も言葉も漏らさず、ただ「大丈夫か」と尋ねてきた。《何が?》と思いつつ、雄一郎はうなずくだけに留めた。
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「そうかな……。多分、そういう時期なんかも知れへんが、俺はいったい悩んだり恨んだりするために、生きてるのかと思うことがある」
「猿でも悩むそうだ」
 義兄はさらりとかわして、微笑む。
「俺は猿より邪悪だぞ。邪悪に悩んでる」と雄一郎は言い返す。
 雄一郎は、自分と相手の双方に対する悪意や焦燥を感じながら、しかし、やはり微笑みしか出てこなかった。三十四年間にわたって根を張ってきた邪悪には、恨みや憎悪や、後悔や愛情などの細かい根が無数にからみつき、どれをほぐすことも出来ないところにウィスキーが沁みこんだからだ。
 義兄は俺の邪悪な心根を分かっているのだろうかと訝りながら、雄一郎は義兄の清涼な顔を眺めた。義兄はこちらを見ていた。高潔そのものの精神の上に、貴代子とほぼ同じ造形の顔がのっているというのは偶然だとしても、何よりその目の表情が貴代子と同じなのだ。この旧家の凛とした静けさの裏で、激しい情念をためていた貴代子と同じ目をしている。
 ああ、この男は分かってるのだなと雄一郎は思う。貴代子と雄一郎がこの家の空気から飛び出して堕ちていった世界へ救いの手を差し延べながら、その実、ひそかに雄一郎と貴代子の世界に吸い寄せられていた男の目だ。憐れみと懐疑と愛情が分かちがたくなっている男の目だ。その目に、理性の靄がかかっている。
 雄一郎は、際限なく自己嫌悪と悪意の螺旋階段を下りながら自分の片手を伸ばし、テーブルの上にのっていた義兄の片手の甲に触れた。ちょっと撫でた。
「邪悪の手か」と義兄は微笑む。「痛恨の手」と雄一郎は応え、手を引っ込めた。そのとたん、何かを引きちぎりたいような衝動に駆られる。
 少し間を置いて、義兄の声がした。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「意志だよ、意志。すべては」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
 あははと義兄は笑い、「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」などと言った。
 そういえば、この義兄に尻を叩かれて、貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは、二十歳のころだったか。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられた。
 しかし、頭脳明晰な貴代子はたしか『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだった。もうはるか昔、雄一郎の目の中で、絶対や永遠という言葉と一つだった美しい貴代子がそこにいた。
 男二人で飲み続け、午前三時ごろに義兄はベッドに横になった。広縁の籐椅子からその姿を眺めながら、雄一郎はその同じ場所で初めて貴代子を抱いたことを思い出す。
 二十一歳の秋、祐介は司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家で連休を過ごした。貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じた。初めてだから拙いやり方になったが、そのとき二人で喘ぎながら、そこから始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかっただろう。兄弟の絆や男同士の精神のつながりが、そのとき一度に変質したそのベッドで、強固の一言に尽きる意志の力で己の孤独や嫉妬と折り合いをつけてきた男がひとり、安らかに手足を投げ出して眠っている。
 そして、その高潔な魂を再々裏切って、貴代子ではない女のことを考えている自分がいる。(p.245~255)

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実生活に何の役にも立たない歴史や古典を読むのは義兄の感化だが、義兄のようにそれを精神の糧だと思うことはない。
 朝、出がけに義兄の書棚から失敬してきたカビ臭い文庫本はラシーヌの詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生した記憶がある。(p.265)

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加納祐介が涸沢で雪崩に埋まったときか。(p.296)

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 三日未明に駆け戻って以来の部屋は、義兄が空気を入れ換えたために、四日間こもっていたはずの臭気は消えていた。明かりをつけると、台所のテーブルに重ねてある新聞のほかに、紙一枚が目に入った。その瞬間、ある予感に頭を刺し貫かれながら、雄一郎はそれを手に取った。
 B4判のコピーは、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊から写されたもので、昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所だった。その欄外に、義兄の直筆の走り書き。
『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』
 普段、達筆な義兄の字が、憤りのせいか跳ねていた。《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者かだった。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つで内々にいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の義兄の机に回ってきたのだろう。しかし、贈収賄疑惑を楯に、永田町と霞が関と建設業界の癒着構造という絶対の聖域を切り刻もうとしている検事一人、最終的には更迭もありうることを思えば、係累のちょっとした非をあげつらった紙一枚の脅しなど、実質的名被害は何もない。ただ、四方八方動脈硬化だれけの権力機構の片隅で、検事一人と刑事一人が共通の弱みをまた一つ握られて、辞職する日まで積み重なっていくだろう中傷の一ページになるだけだった。
 雄一郎は続いて《問答無用》の一語を咀嚼した。普段の中傷には耳を貸さずとも、たまたま目の当たりにさせられた義弟の不実に驚き、憤った男の一語だという気がした。遵法の精神と、社会に対する清廉潔白だけは守りぬくことを肝に銘じ、義弟も然りと信じてきた男の驚愕と同様が伝わってくる。不正に大小はなく、身内の感情もないと言い切る男が、実は個人的な心情に駆られて、雄一郎の不実を激しく責めている一語でもあった。これも撞着といえば撞着だが、相手の痛い腹に錐を刺し込むような直截さが、いかにも加納祐介らしかった。
 いや、直截だろうか。《問答無用》はむしろ、なぜなのだ、なぜなのだと自問し、うろたえ、思い余った末の一語かも知れない。
 そして、最後の一文。雄一郎はそれを長い間見つめ、何なのだこれはと独りごちた。義兄のいう《罪》は、職権濫用そのことより、不実に落ちて生きている人間の弱さを指していた。あえて悪事と言わずに《罪》と言い、事を抜き差しならないところまで突き詰めて、あんたは何が言いたいだと、雄一郎は虚空に呟く。人を罪人と断罪しておいて、その罪を自分が代わりに負うことが出来たらというのは、いったいどういう了見なのだ。何の権利があって、そんなことが言えるのだ。罪といえば、どちらも腐るほど背負っている者同士、誰が誰の罪を贖うというのだ。(中略)
貴代子もその兄も、今は亡い父母さえ心から慈しんだことはなかった。(p.380~385)

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 辻村は受話器を取り、「加納という人から」と言って、受話器を差し出した。
 受話器を受け取りながら、雄一郎の腹には疑心暗鬼が渦巻いた。どうせまた、噂は桜田門を駆けめぐって検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、義兄の加納祐介が警察に電話を入れてきたのは初めてだった。何をそこまで案じることがあるのかと思うと、雄一郎の方が当惑した。
 しかし、予想に反して義兄の電話はひどくそっけなかった。《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》
 義兄はそれだけ言い、相手の声も聞かずにさっさと電話を切ってしまった。(p.470)

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『義兄殿
 長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従って先週、休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』

『雄一郎殿
 珍しい乱筆ぶりに(中略。セリフ集を参照してください)』(p.496~498)

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疲労度と愛情の比例

生活がめちゃくちゃハードで疲れてます。

現実逃避でしょうか。

加納、好きだよ加納、大好きだよ加納・・・

とか心で呟いて涙がこみあげてきます・・・・・・。

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7/4更新

祐介の読書のススメにラカン「エクリ」を追加しました。

LOVEv祐介では時折何か語っています。

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マークスの山@wowow

マークスの山がwowowで連続ドラマとして放映される予定です。

合田は上川隆也さんでほぼ間違いなしのようですが、はてさて、加納は出てくるか?

加納の美貌、知性を超理想化してしまっている私にとって、どんな素晴らしい俳優さんが加納を演じても「違う!」と全否定しそうなので、いっそ出ない方がいい、いなくても物語は成り立つ、と考えています。

が。wowowのサイトを見ていてふと。

「やがて事件は検察組織にも飛び火していく」

はて。確かに現役検事の松井が殺害されたことや、特捜部が内偵中の佐伯がらみで検察も動き、捜査に何かと口出ししてきましたが、普通、マークスのあらすじとして検察はそんなに重要キーワードになるかな??と疑問が。

もしや、東京駅でランデブーする場面ありの、文庫版マークスを下敷きにドラマ化されるんじゃ・・・。そういえばwowowサイトのマークス本の画像、文庫です。

てことは、加納が出る!

うわああああああ

我が家にはテレビがないのですが、DVDがあるので、DVDに録画してPCで観るというワザ(?)を駆使すれば、wowow、見れます。加納の配役がわかれば、場合によってはwowow契約してしまうかも。しかし期待より不安というかむしろ悲観の方が激しく大きいんですが。

以前、私が考えた、合田シリーズの素敵配役。

合田:金本
加納:能見
森:桜井
又三郎:赤星(引退しちゃったけど)
雪之丞:下柳

 テラタイガースwww

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