早足で八王子駅にたどり着き、もっと早くにかけなけれなならなかった私用の電話一本をかけた。その日は、分かれた妻の水戸の実家で、先代当主の七回忌の法要があったのだ。法事は半日も前に終わっているが、そういう日には親戚や手伝いの人間が何かと残っているものだし、電話にも誰が出るか分からないと思ったのだが、つながった電話に余計は物音はなく、応えたのは若い当主の静かな声が一つだった。
「すまない。行けなかった」と言うと、《無理することはない》と返事があった。
「忙しかったんだ」
《分かってる。気にするな》
「そちらには、誰かいるのか」
《俺とお袋だけだ》
「貴代子は」
《来なかった》
「……そうか。あんたはそっちにはいつまでいる」
《四日まで》
「四日の夜、顔を出すよ」
《無理するな》
「いや。あんたにも会いたい。どうぞ、ご母堂様によろしくお伝えしてくれ」
《ああ。では四日に》
電話の主は、貴代子の双子の兄だった。本人も東京地検の現職検事で、夏休みをかねて法事のために帰省しているだけだ。春先から続いているゼネコン各社と地方自治体首長の贈収賄容疑の捜査も、夏に入って永田町に内偵が入り始めたのか、特捜部は表向きの動きを止めている。そのせいもあって、今ごろ水戸へ帰っているのだろう。
先日、法事の段取りを電話で知らせてきたとき、義兄はアメリカにいる貴代子にも知らせたと言った。貴代子は分かったとだけ答え、行くとも行かないとも言わなかったらしい。(中略)
なにしろ、誰もが少し平静を欠き、相も変わらず愚かなのだった。どんな事情があれ、女房を不倫に走らせたこの自分に向かって、顔を出せるはずもない法事に来いという義兄は、未だに妹の壊れた結婚や、雄一郎との兄弟関係について、何かの幻を見続けている。(中略)誰もが果てしない絆と矛盾をひきずって、毎年夏を迎える。
しかしこの六年、疼いては鎮まり、膿み続けてきた怒りの根も、月日とともに少しずつ変化し、表向き散漫になってきているのは事実だった。電話に出た義兄の声も、以前に比べればずいぶん淡々としてきていた。大学時代からの十六年の親交だから、互いに心のうちはいやというほど読めるのだが、それでも最近は、何を分かるとも分からないとも言わず、互いの感情に触れ合うことも少なくなった。法事については、義兄は一応声をかけただけだと言うだろうし、雄一郎はあれこれの事情で行かなかったと言うだけのことだ。
しかし、短い電話一本の中には、互いに口に出さなかった思いが凝縮され、宵の熱とも相手の熱ともつかない息苦しい靄が電話線を伝わりあった。常磐線の急行に乗れば法事に行けないことはなかった自分と、それを敏感に察している義兄との当たり障りないやりとりは、不実に満ち、崩壊のかすかな予感もあった。(p.73~75)
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水戸の義兄を訪ねる約束を頭の隅で気にしながら、雄一郎はそれを押しやって、いったん出てきた署へ舞い戻り、玄関をくぐった。(p.241)
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遅くなる、と詫びの電話を入れて、上野発の寝台特急に乗ったのは午後十時四分だった。電話で義兄は《無理しなくていいのに》とくりかえしたが、その淡白な口調からは真意のほどは窺えなかった。
学生のころから、めったに感情を覗かせない物静かな物言いをする男だったから、大学三回生で司法試験に合格した後、検事になりたいと本人から聞かされたときには、判事の方が向いてるんじゃないかと真面目に意見した。それも昔話だ。司法修習生時代を含めて、大阪、京都、福井、新潟、また京都と、地方の地検を転々とした十一年の後、結局は東京地検の特捜部に迎えられて二年、首が飛ばないところからみて、それなりに何とかやっているらしい。
考え始めると、どうしても双子の妹貴代子の顔と重なってしまう義兄の顔を押し退けて、雄一郎は缶ビールひと缶を空けてすぐに眠ろうとした。(中略)
その色と一つになって絡みあいうごめく肉体の気配がそこここに満ち、それが誰と誰なのかと目を凝らす。佐野美保子か、野田達夫か、貴代子か、兄の祐介か、あるいは自分なのか。
加納祐介は、紬の着流し姿で広い玄関の上がり框に立っていた。雄一郎が「遅くなって……」と詫びると、「どうせ、何もかも世間の常識を超えている」と義兄はのたもうた。
「とりあえず、お父上にお祈りさせてもらおう」
「それから、風呂だ」
義兄はわずかに顎だけ動かして早く上がれと促し、先に立って中庭を囲む回り廊下を奥座敷の方へ進んだ。
この大きな家を、雄一郎はよく知っていた。学生時代に加納兄妹と知り合い、その実家にほとんど身内のように迎えられ、夏休みや正月休みを過ごした。その時代とまったく変わらない佇まいだった。磨き上げられた廊下や建具の艶。色褪せた檜の色。毎年張り替えられる障子の白。欄間の彫物にわずかに積もった埃の輝き。前栽の苔やつくばいの水の匂い。書庫に埋もれた蔵書のカビ臭ささえ、優しく芳しい。当時健在だった加納家の人々はこの家を、物静かな話し声、ときに闊達な笑い声、控えめな笑み、真摯で厳しい学究の眼差しで満たした。どれもこれも雄一郎の知らなかった世界であり、十八にして吸収し始めた新たな世界のすべてがそこにあった。それらの面影が、人けの絶えた暗がりのすみずみにしみつき、匂い立っていた。そして、最高検察庁の検事総長を務めた先代が亡くなって六年、今は先をゆく男がそれらの見えない空気を受け継ぎ、背負っている。それが似合い、荷重な務めでもない加納祐介だった。
それにしても、廊下を進む間、いくつかある座敷はすべて静まりかえり、人が動き空気が動いた気配もなかった。ご母堂をはじめ、古くからの手伝いの者も住んでいるはずなのに、誰もが足のない精霊か空気のように障子や壁を通り抜け、今はどこかの部屋で眠っているのだった。人も精神も時間も、微動すら拒否しているように感じられる。こんな世界もあったのだとあらためて思い出すのは、一度は自分自身もその中にいた時代からすでに時が経ち、そこから離れて久しいということの証だった。そうしてこの家が年々遠くなっていくのは、貴代子が去ったことと無縁ではないだろうが、それだけの理由でもなかった。東京での、高潔とは言いがたい日常に汚れた頭には、何もかもが切ないほど遠く、白々しく感じられるのだ。
「お袋さんはお変わりないか」
「最近、首を寝ちがえて湿布薬を貼ってる。臭いがして人さまに会うのが恥ずかしいと言うから、今年の法要は簡素にやる言い訳が立って楽だった」
先代の時代から、この家は旧家にもかかわらず冠婚葬祭は質素にやるのが伝統だったが、祐介が家を継いでから質素は簡素になり、宴席なども一切やらなくなった。しかし、それはたんに合理主義や清貧を尊ぶせいばかりではなく、ある断固とした思いや事情があって、祐介はこの六年あまり、法要であれ何であれ、この家に一切の他人を入れないできたのだった。雄一郎と貴代子の結婚生活が破綻し、貴代子が大学時代の友人とアメリカへ行ってしまったときから、いつか貴代子が戻ってくる日が来ると信じてきた故の、かたくなな愚行だった。その不動の思いがこの家の凛とした暗がりに響いていた。多分、それはこの先も変わることはない。愚かだと気付いても、自分の道を曲げることはない。それが祐介という男だ。
しかし、ここには同時に、その父母や先祖がもたらしたものではないある種の奇妙な緊張が満ちていて、それは大部分、兄弟と雄一郎の激しい確執からつむぎ出されてきたきたものだった。十六年も続いてきたのだから、いいかげん色褪せてもよさそうなものなのに、顔を合わすたびにすべてが新たになる。何ひとつ減りもせず、前進もなく、解消の道も見えない。合理主義とは裏腹もいいところだが、それに毅然と耐えているところを見ると、祐介という男の中身は先代とはかなり違う、前世紀のロマン主義に毒された夢想家なのかも知れなかった。もっとも本人は、己の理想とするものを守って何が悪いと言うだけだろう。その理想というのが、雄一郎の目には世界の秩序に対する懐疑と紙一重のものに見えるのだが。
それにしても、ただ貴代子が帰ってきやすいようにという配慮のために人を遠ざけ、毎年性懲りもなく一族の非難の目を浴びつつ形ばかりの法要を営み、そのあげくにせっせと若白髪を作っているというのは、もはや滑稽の域に達していた。
「また増えたな」先をゆく義兄の後ろ髪を見ながら、雄一郎がそう言うと、「春から十二本増えた。ちゃんと数えてる」という几帳面な返事があった。
祐介は、かつて先代の居室だった奥座敷の障子を開けた。床の間の横の付け書院に故人の写真と十字架と鉄砲ユリ一輪が飾ってあり、聖書が一冊置かれ、蝋燭が灯っていた。雄一郎は差し出された座布団に正座し、聖書を開いた。
遺影の人は生前、「雄一郎君」と呼んでかわいがってくれ、何も分からない青二才に向かって懇切丁寧に遵法の精神について語り、ときどきの法解釈の問題について論じてくれた人だった。しかし、年に数回も開かない聖書を開いても、雄一郎の方は、追悼の祈りに読むべき箇所など思い出せない。結局、詩篇の中から葬式用でないことだけは確かな一篇を選び、読み上げた。
もろもろの天は神の栄光をあらわし……この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ……という一篇だった。
雄一郎がそれを読み終わると、義兄がさっさとあとを継いだ。
「残された私たちも、今はここにいない者も、終わりの日とともに復活の恵みにあずかり、先に召された父宗一郎とともに、永遠の喜びを受けることが出来ますように、主キリストによって。アーメン」
アーメン、と雄一郎も応唱した。
「さあ、風呂を使え。布団を敷いておくから」
「布団は要らない。明日の朝は、始発で帰るから」
雄一郎がそう言うと、「夏だから畳に寝ても風邪を引かんだろう」と義兄は独りごち、「とにかく風呂から上がったら、ちょっと飲もう」と言って、先に部屋を出ていった。
「あんた、今、忙しいんだろう。ゼネコンの贈収賄の方は中休みか」
雄一郎がそう探りを入れてみると、義兄は「今、ほされてる」とあっさり応えた。
「へえ……」
「そういうときもあるさ」義兄は恬淡としたものだ。
「永田町ルートの切り込みは、ほんとうはちっとも進んでない。どんなに伝票めくっても、最後に収賄側の職権の有無が壁になる。政治資金規正法の方は、物証が出なかったり時効だったりだ。だから、もうだめだと言う空気があるんだが、俺の気持ちとしては、まだ諦めるのは早いだろうと……」
「上と意見が合わへんのか」
「まあ、そういうこと。しかし、年末にトップの首がすげかわるから、そうしたらまた、何とかなるかも知れない」
雄一郎には詳しい事情は分からないが、地検にも不毛なパワーゲームがあるらしく、霞が関や永田町の意向が絡んでくるとさらに泥沼になり、土台、そういう駆け引きは向かない義兄だから、それなりに苦労はしているようだった。とくに貴代子が雄一郎を捨てて選んだ男が反体制の傾向のある人物だったことで、雄一郎ともども身内の思想偏向を問われているという事情もある。雄一郎にしても、今でも定期的に公安が自宅周辺をうろついているし、人事考課の覚えもよろしくない。
義兄との間には、貴代子をはさんでずいぶんいろいろな事があった。大学出たての尻の青い警官一人の女房が、町内会に誘われて原発反対の署名一つをしたのが、つまずきの始まりだった。貴代子自身はまったく思想偏向はなく、町内会での反対運動の音頭とりをしたのが労働団体の女性幹部だったことが後になって分かったときも、きょとんとしていたぐらいだった。ともられ、そのおかげで亭主にはアカのレッテルが付き、義兄も同じく十年近くも冷や飯を食わされる羽目になったが、貴代子の自由な精神こそ、身に覚えのない中傷で癒せないほど傷ついた。そして雄一郎も義兄も、それをどうすることも出来なかったのだ。
保身のために、男二人がどんなに臆病だったか。中傷には耐えたが、貴代子を守るために男二人は具体的に何をしたか。義兄が、こうして毎夏貴代子を待つのも、己の自責や後悔の念と無縁ではないだろう。しかし、雄一郎が亭主として女房一人守れなかった事実の何分の一かは、もっと卑近な男と女の話だった。それは、結婚したことのない義兄には分からないだろうし、雄一郎も口にしたことはない。
「雄一郎、お前の方は。八王子の殺し、まだやってるのか」
「ああ」
義兄がウィスキーと氷を運んだのは、昔の自分の部屋だった。裏庭に面した広縁があり、そこに籐の椅子とテーブルが置いてある。開け放した縁側にすだれを下ろし、蚊取線香をたいてそこに座った。本棚にはかつての書物がそっくり残っていて、机もスタンドもベッドもそのままだ。多分、帰省している間はそこで寝ているのだろう。寝具のカバーが乱れていた。
しかし、懐かしいそれらの光景を眺めても、雄一郎の頭からはまだ現世の雑事が離れず、気がつくとそれとなく義兄の顔を窺っている有様だった。
「そういえば……太陽精工の総会屋対策の話、そっちでは聞いてないか」
「小耳にははさんでるが、特捜部は関知してない。それが何か……」
「いや、別に。知り合いが羽村工場に勤めていて……。四課の方からちらりとそんな話を聞いたんで、思い出しただけだ」
「部長クラスの逮捕があるかどうかといったところだろう。工場が潰れるような話じゃない」
「そうだな」
この優秀な義兄相手にヘタな探りを入れると、逆に痛い腹を探られる。義兄のもとへは、義弟の賭場通いの噂は届いているのかいないのか、そんなことはちらりとも窺わせない淡々とした表情で、義兄は雄一郎を見つめていた。
「祐介。八王子のガイシャなんだが……。ホシが二人いて、それぞれ別々に侵入した、と考えてみてくれ。最初の賊がガイシャの頸を絞めて逃げ、それから二番目の賊が知らずに入ってきた。この二番目の奴が、もう一度ガイシャの頸を絞めた可能性があるんだ……」
「二番目の賊が侵入したとき、ガイシャは生きていたということか」
「それははっきりしない。しかし、最初の賊の自供では、頸を絞めた後に女は鼾をかいて眠り込んだというんだ。だから、すぐには死ななかったんだろうし、いつ死んだのかも分からん。第二の賊の侵入前か、侵入後か……」
「一回目の頸部圧迫で、すぐに死ななかったというのは、剖検の所見もそうなっているのか」
「凝血や肺臓の水腫が見つかった。多分、急性の窒息死ではないだろうという程度の話だが」
「圧痕はどうなってる」
「一回目のは扼頸で、はっきりした表皮剥脱や皮下出血がある。二番目の圧痕は、肉眼で判別できる所見はない。ただし、たしかに何かの圧迫があったということは、弾力繊維の染色検査で確認された」
「しかし、その圧迫が最初のホシによるものか、二番目のホシによるものかは証明出来ないだろう」
「ああ。それは出来ない。二番目の賊がガイシャに触れたというのは、あくまで可能性の話だ。ガイシャがそのとき、二番目の賊を自分の手で掴んだらしい形跡もあるんで、ならば賊もガイシャに触れたのかなと……」
「その圧迫が、生前のものか死後のものかの判別は」
「ほんの少し、生活反応の痕跡が見つかったから、生前の圧迫だったとも言えるんだが、ひょっとしたら死亡直後だった可能性もあるしな」
「要するに、第二の賊による頸部圧迫があったのか、なかったのか。そのときガイシャが生きていたのか死んでいたのか、だな?」
「ああ」
「二人の賊は、どちらも物は盗っていったの」
「ああ。頸絞めた後に、金品を盗んだ」
「そういう状況なら、発想を変えてみたらどうだろう」と義兄は言った。「ガイシャは、第二の賊を手で掴んだ形跡があるのだろう?そのときガイシャはすでに、第一の賊に頸を絞められて倒れていたのだろう?しかし、泥棒のために侵入した賊が、倒れている人間にわざわざ近づく理由はない。なぜ近づいたのか。俺なら、その辺から第二の賊を締め上げてみるが……」
義兄の意見は筋が通り過ぎていて、いつも思わず苦笑いが出る。雄一郎は首を横に振った。「それが出来たら苦労はない。第二の賊は目星はついているんだが、引っ張るにしても、物証がまったくないときてる」
「索状、体液、皮膚片、指紋、足跡痕、衣服、何もないのか」
「ああ、今のところはな。でも、このまま引き下がるわけにはいかんから、なんとか物証は探す」
「侵入したことが分かっているのに証拠なしの壁か。俺と同じだな。金の授受や請託の事実があったことは分かっているのに、物証がないからやったやらないの水掛け論だ」
「でも、あんたは針の目でも探すだろう?」
「それで、ほされてるのよ」
「なあ、あんたが担当検事ならどうする?仮に頸を絞めたという自白が取れて、状況証拠も固まったが物証が出ないケースの場合、起訴する?」
「そうだなあ……・。場合によりけりだが、公判で敗訴する覚悟で起訴したい気持ちはある。被害者の心情を思えばな。しかし、物証がないというのは結局、殺したか殺してないかの判断を人知に委ねるということだから、これはやはり法の精神に反する。起訴するかしないかは、一概には言えんな」
「あんたならそう言うと思った」
ウィスキーは美味かった。風呂上りの火照った身体に夜風が心地好かった。さまざまな懸案はとりあえず浮きも沈みもしない状態で、ウィスキーの池に漂っていた。これといった理由もなく「東京へ帰りとうない」といった愚痴がぽろりと出たら、義兄は聞こえたのか聞こえなかったのか何も応えず、ただちらりと微苦笑を見せた。
「雄一郎。お前、目が赤い」
「この二ヶ月休みなしだから」
「雪が降る前に、剣へ登る約束だぞ」
「それまでには何とかなるだろう。とにかく、今抱えている事件を片付けないと」
「物事には引き際というのもある。登攀と一緒だ」
「それは違う。登山は、退いても何も減らへんやないか。刑事の仕事は、一つ退くたびに、確実に何かが減っていく」
「何か、というのは」
「地歩みたいなもの……かな。手柄や地位の話やない。休みなく一歩一歩固めていかないと、己が立つ場所もないような感じだ。事件というのは、毎日毎日起こるからな……。退きたくても退く場所もない。せめてホシを追うことで、自分がやっとどこかに立っているという感じだ……」
「珍しいな、お前がそういうことを言うのは……」
「ウィスキーのせいだな、多分」
「お前が最近、賭場へ出入りしているという話を聞いたが……」
別に構えたふうな口ぶりでもなく、義兄はさらりと言った。どうせ、義兄の耳には届いているだろうと雄一郎も思っていたので、驚きもなかった。広い東京のかたすみをごそごそ這い回っている刑事一人に過ぎなくとも、間違いやミスだけは見逃されることはなく、さまざまな口を借りて、あちこちへ漏れていく。ただし、それをわざわざ義兄の耳に入れる連中には、例によって積年の悪意がある。
しかし義兄は、だからどうだといった表情も言葉も漏らさず、ただ「大丈夫か」と尋ねてきた。《何が?》と思いつつ、雄一郎はうなずくだけに留めた。
「雄一郎。身体だけは壊すな。身体さえあれば人生はどんなふうにでももっていけるんだから」
「そうかな……。多分、そういう時期なんかも知れへんが、俺はいったい悩んだり恨んだりするために、生きてるのかと思うことがある」
「猿でも悩むそうだ」
義兄はさらりとかわして、微笑む。
「俺は猿より邪悪だぞ。邪悪に悩んでる」と雄一郎は言い返す。
雄一郎は、自分と相手の双方に対する悪意や焦燥を感じながら、しかし、やはり微笑みしか出てこなかった。三十四年間にわたって根を張ってきた邪悪には、恨みや憎悪や、後悔や愛情などの細かい根が無数にからみつき、どれをほぐすことも出来ないところにウィスキーが沁みこんだからだ。
義兄は俺の邪悪な心根を分かっているのだろうかと訝りながら、雄一郎は義兄の清涼な顔を眺めた。義兄はこちらを見ていた。高潔そのものの精神の上に、貴代子とほぼ同じ造形の顔がのっているというのは偶然だとしても、何よりその目の表情が貴代子と同じなのだ。この旧家の凛とした静けさの裏で、激しい情念をためていた貴代子と同じ目をしている。
ああ、この男は分かってるのだなと雄一郎は思う。貴代子と雄一郎がこの家の空気から飛び出して堕ちていった世界へ救いの手を差し延べながら、その実、ひそかに雄一郎と貴代子の世界に吸い寄せられていた男の目だ。憐れみと懐疑と愛情が分かちがたくなっている男の目だ。その目に、理性の靄がかかっている。
雄一郎は、際限なく自己嫌悪と悪意の螺旋階段を下りながら自分の片手を伸ばし、テーブルの上にのっていた義兄の片手の甲に触れた。ちょっと撫でた。
「邪悪の手か」と義兄は微笑む。「痛恨の手」と雄一郎は応え、手を引っ込めた。そのとたん、何かを引きちぎりたいような衝動に駆られる。
少し間を置いて、義兄の声がした。
「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」
「意志だよ、意志。すべては」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
あははと義兄は笑い、「最後の涙一滴の悔い改めが難しい」などと言った。
そういえば、この義兄に尻を叩かれて、貴代子と一緒にダンテの『神曲』を読んだのは、二十歳のころだったか。人生の道半ばにして正道を踏み外し、暗い森の中で目覚めたというダンテが、詩人ヴェルギリウスに導かれて、地獄から煉獄へ、そして天国へと通じる岩廊を登っていく一夜の間に、さまざまな歴史上の人物に出会う。その絢爛豪華な叙事詩は、雄一郎にはそれなりに面白く感じられた。
しかし、頭脳明晰な貴代子はたしか『これは、詩人の豪華なお遊びだわ』と言い、『一篇ずつカルタにしましょうか』と囁いて、悔悛の《涙一滴》を吟う詩人の詠嘆を、鮮やかに笑い飛ばしたのだった。もうはるか昔、雄一郎の目の中で、絶対や永遠という言葉と一つだった美しい貴代子がそこにいた。
男二人で飲み続け、午前三時ごろに義兄はベッドに横になった。広縁の籐椅子からその姿を眺めながら、雄一郎はその同じ場所で初めて貴代子を抱いたことを思い出す。
二十一歳の秋、祐介は司法試験の三次口頭試問のために東京に残り、二次で落ちた雄一郎は貴代子に誘われるままにこの家で連休を過ごした。貴代子と二人になった初めての機会だった。雄一郎が求め、貴代子が応じた。初めてだから拙いやり方になったが、そのとき二人で喘ぎながら、そこから始まる未来の精神の修羅場を予感したのは、それぞれの立場で祐介を出し抜いたことに対する痛恨の念と、無縁ではなかっただろう。兄弟の絆や男同士の精神のつながりが、そのとき一度に変質したそのベッドで、強固の一言に尽きる意志の力で己の孤独や嫉妬と折り合いをつけてきた男がひとり、安らかに手足を投げ出して眠っている。
そして、その高潔な魂を再々裏切って、貴代子ではない女のことを考えている自分がいる。(p.245~255)
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実生活に何の役にも立たない歴史や古典を読むのは義兄の感化だが、義兄のようにそれを精神の糧だと思うことはない。
朝、出がけに義兄の書棚から失敬してきたカビ臭い文庫本はラシーヌの詩劇だった。学生時代に原書を読まされて往生した記憶がある。(p.265)
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加納祐介が涸沢で雪崩に埋まったときか。(p.296)
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三日未明に駆け戻って以来の部屋は、義兄が空気を入れ換えたために、四日間こもっていたはずの臭気は消えていた。明かりをつけると、台所のテーブルに重ねてある新聞のほかに、紙一枚が目に入った。その瞬間、ある予感に頭を刺し貫かれながら、雄一郎はそれを手に取った。
B4判のコピーは、八王子署刑事課の文書件名簿の簿冊から写されたもので、昨日の朝、雄一郎が偽の番号を取った文件のうち、太陽精工の総務部長に関する照会先が載っている箇所だった。その欄外に、義兄の直筆の走り書き。
『某所より入手。問答無用。君の罪を、小生が代わりに負うことがかなうものなら』
普段、達筆な義兄の字が、憤りのせいか跳ねていた。《某所》は、抜き打ち監査を担当した一係の、警察庁とつながっている何者かだった。コピーは林の手に降りてきたのとは別の経路で、目配せ一つで内々にいくつかの手を経て封筒にでも入れられ、検察合同庁舎の義兄の机に回ってきたのだろう。しかし、贈収賄疑惑を楯に、永田町と霞が関と建設業界の癒着構造という絶対の聖域を切り刻もうとしている検事一人、最終的には更迭もありうることを思えば、係累のちょっとした非をあげつらった紙一枚の脅しなど、実質的名被害は何もない。ただ、四方八方動脈硬化だれけの権力機構の片隅で、検事一人と刑事一人が共通の弱みをまた一つ握られて、辞職する日まで積み重なっていくだろう中傷の一ページになるだけだった。
雄一郎は続いて《問答無用》の一語を咀嚼した。普段の中傷には耳を貸さずとも、たまたま目の当たりにさせられた義弟の不実に驚き、憤った男の一語だという気がした。遵法の精神と、社会に対する清廉潔白だけは守りぬくことを肝に銘じ、義弟も然りと信じてきた男の驚愕と同様が伝わってくる。不正に大小はなく、身内の感情もないと言い切る男が、実は個人的な心情に駆られて、雄一郎の不実を激しく責めている一語でもあった。これも撞着といえば撞着だが、相手の痛い腹に錐を刺し込むような直截さが、いかにも加納祐介らしかった。
いや、直截だろうか。《問答無用》はむしろ、なぜなのだ、なぜなのだと自問し、うろたえ、思い余った末の一語かも知れない。
そして、最後の一文。雄一郎はそれを長い間見つめ、何なのだこれはと独りごちた。義兄のいう《罪》は、職権濫用そのことより、不実に落ちて生きている人間の弱さを指していた。あえて悪事と言わずに《罪》と言い、事を抜き差しならないところまで突き詰めて、あんたは何が言いたいだと、雄一郎は虚空に呟く。人を罪人と断罪しておいて、その罪を自分が代わりに負うことが出来たらというのは、いったいどういう了見なのだ。何の権利があって、そんなことが言えるのだ。罪といえば、どちらも腐るほど背負っている者同士、誰が誰の罪を贖うというのだ。(中略)
貴代子もその兄も、今は亡い父母さえ心から慈しんだことはなかった。(p.380~385)
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辻村は受話器を取り、「加納という人から」と言って、受話器を差し出した。
受話器を受け取りながら、雄一郎の腹には疑心暗鬼が渦巻いた。どうせまた、噂は桜田門を駆けめぐって検察合同庁舎に届いたのだろうが、この十二年、義兄の加納祐介が警察に電話を入れてきたのは初めてだった。何をそこまで案じることがあるのかと思うと、雄一郎の方が当惑した。
しかし、予想に反して義兄の電話はひどくそっけなかった。《雄一郎か。画商殺しの件、小耳にはさんだ。手が空いたら電話くれ。俺は今夜、庁舎で徹夜だから》
義兄はそれだけ言い、相手の声も聞かずにさっさと電話を切ってしまった。(p.470)
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『義兄殿
長い間決心がつかなかったが、貴兄の勧めに従って先週、休日を利用して大阪へ行ってきた。(略)』
『雄一郎殿
珍しい乱筆ぶりに(中略。セリフ集を参照してください)』(p.496~498)
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