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恬淡(2)

「悪い、起こしたか」
 合田が飛び起きてキッチンへ行くと、すっかり身支度を整えた加納がのんびりと朝刊を読みながらコーヒーを飲んでいた。布団を片付けたり着替えたりと加納は部屋を動き回ったはずなのに、俺はまるきり気づかずに寝呆けていたのかと合田は自分の不感症に呆然とした。
「入院ですっかり感覚が衰えてるな」
 合田は照れくさそうに苦笑を浮かべて加納の向かいに腰を降ろした。加納よりも早く起きて味噌汁の一杯でも作ってやろうと思ったのに、いきなりしくじった。
「ろくに飲まず食わず寝やらず。お前の場合、入院してる方がよっぽど健康的だ」と加納は皮肉った。
「朝飯を」
「ん?」
「作ってやろうと思った。お前こそ、ろくに飯も食っていませんと顔に書いてある」
 加納はしばし合田を見つめ、弾かれたように声を立てて笑い出すと「今日はきっと大雪だ、ああ、困った」と言いながら新聞をたたみ、よほどおかしかったのか、その新聞で顔を隠しながらなおもくつくつと小さく笑い続けた。
 飯は作ってやれなかったけど、こうして楽しそうに笑えたなら少しは俺も役に立つ。こいつはきっともう長い間本気で心から笑ってなどいないだろうから。そんなことを思うと何やら小さな喜びを感じる合田なのである。
 合田は加納の手から新聞を取り上げると、その手で加納の顎をひょいとひっかけて顔を向けさせ「それ以上青白くなったら、俺は料理教室に通わなあかんなる」と本気か冗談かわからぬ真顔で言いのけた。
「ものすごい脅しだな」と加納は苦笑し、「真っ白なエプロンを買ってやるよ。似合いそうだな、雄一郎」と付け加えた。合田は露骨にげんなりした表情を浮かべた。
 加納は立ち上がり、コートを羽織ながら「ああ、ゴルフボールは、すまないが、近いうちに引き取るからしばらく頼む」とキッチンテーブルの足元に置きっぱなしの箱に視線をくれた。
「近いうちっていつ?」
 合田はまったく自分で発した言葉の含むところを理解せず、一瞬で様々に思い巡らせたらしい加納はのけぞるように玄関であとずさった。
「どうした?」
 と咄嗟に加納の肘を掴んで支えた合田の方こそちょっと驚いたのだが、自分の狼狽に気づいた加納がすぐにいつもの淡白な表情を取り戻し、ため息をついた。
 加納はややうつむき加減になって意味もなく襟元を調えなおす仕草をしながら、合田が気づくギリギリの小さな深呼吸をひとつした。
 捜査、付き合い、実家、それらをごく短時間に計算したらしい加納が「大晦日、最終の列車ででも帰省はしなければならんだろう。だが形だけのことだし」と言いかけるのを合田が遮った。「列車二本先行分の時間をもらおう」と。
 加納はちょっと考える風に首をかしげて見せ、眉をひそめ、困ったように曖昧な苦笑でもって「努力する」と応じた。
 何事にも潔癖な加納が、曖昧を自らに許すことは珍しい。彼のその表情の意味を合田が知るのは数時間後のことである。
「散髪に行って来い」と加納が合田の寝起きのまま乱れた髪をさらにかき混ぜた。さりげなく自分に触れてくる手を合田は無意識に取ろうとしたのだが、加納がかわす方が早かった。さっと身を翻し、あっという間に出かけてしまった。「お前はかわいいよ」などという恐ろしい言葉を残して。
 今頃、コーヒーの一杯飲む間も惜しんで捜査書類をひっくり返しているか。
 昼前、加納に言われたとおり散髪に行くのも悪くないと出かける用意をしながらふと合田は加納の姿を脳裏に描いた。
 今夜は徹夜するんだろう。
 明日は?
 官舎に戻って着替えもしなければならないしこちらへは来ないか。やはり言葉通り、年末に列車二本分、およそ一時間でも割いてくれれば上出来か。せめてその間、電話くらい。
 そこまで考えてようやく合田は、加納の今朝の困惑に思い至った。
 腹を空かせた子どもが指をくわえて母を待つように。それとも恋人を待ちわびるように。
 俺は祐介を待っているのだ。会えないほんの数日の空白に焦れているのだ。気まぐれに訪れて速やかに去る偶然的な時間でなく、約束が欲しかったのだ。
 加納が待っている、だから俺は生きよう。そう考えてきたこの入院期間。男からの愛情を認識する行為には強烈な背徳も感じたものだが、自分こそが加納を待っていると自覚したとき、合田はすっと大きな異物を飲み下した後の爽快を覚えた。
 待っているさ。俺がお前の家であり、お前が俺の戻る場所だ。互いの居場所は互いだけだぞ。

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コメント

初めまして。さとうと言います。

「無垢」と「括淡」を読みました。

「かつ」の字がボロ携帯では出てきませんでして、誤字ですみません。

何てラブラブな・・・愛に溢れ過ぎてて唖然としました。

大晦日の夜はどうなるのか、ひたすら続きが気になります!

投稿: さとう | 2010年8月22日 (日) 11時42分

「かつ」ではなく「てい」ですよね。
お恥ずかしいです。失礼しました;

投稿: さとう | 2010年8月24日 (火) 10時36分

さとう様。
はじめまして。コメントありがとうございます。
続きを楽しみにして頂けるとは恐縮です。
一応、私なりに思う一番幸せでアホウな2人、というところまでは作ってるのでまた適当に覗いてみてください。

ちなみに、申し上げるべきか否か迷いましたが、正解は「てんたん」です^^

今後ともよろしくお願いします。気長に、気長にお待ちください・・・。

投稿: じょん | 2010年8月24日 (火) 13時36分

わー、訂正してまだ間違えてるorz

返信ありがとうございました!

投稿: さとう | 2010年8月25日 (水) 02時44分

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