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恬淡(1)

 その夜の加納は、2か月前の怒りをどこへ置いてきたのか、見慣れた涼やかな微笑と不思議に柔らかな眼差しで合田に対していた。
 怪我からの回復を喜び、復職を心から祝い、自分はというと捜査の正念場で正月休みも返上だが、これほど熱意を持ってかかれる事案はない、と充足感を語る。ベッドサイドへグラスとウィスキーを持ってきて、合田には時折「あまり飲むな」とたしなめながら自分はうまそうに啜っては喉を潤してまた喋る。
 友人であり義兄弟であり、そんな社会的にも十分認められる安寧の関係をいまさら続けようとしているのだろうか、このよく喋る男は。友人としても、義兄弟としても、ついさっきの腹の傷への口付けはゆきすぎた行為ではなかったか。
 珍しく饒舌な加納を前にして、合田は混乱した。
 喋り疲れたという風にほっと一息ついた加納は合田を残して立ち上がり、グラスを片付けてしまうと寝室ではなく隣室に布団を敷き始めた。
 しばしば気楽な独り者の元義弟を訪ねてくる心安い知己のようでありながら、加納はいつも、隣室の押入れに布団があるせいか、そのまま隣室に布団を延べ、何を話すでもなくさっさと部屋の明かりを落として寝てしまう。朝には合田より先に起きて身支度を整えている。それを、子どものお泊りでなし当然のようにも、といって、連絡もなしに泊まりにくるほど親しい者にして妙な距離感のようにも感じてきた合田だったが、今夜はその距離を途方もなく遠く感じた。
 今日、確かに俺たちは以前とは違う、もっと互いの温度を知る距離まで近づこうとしたんじゃないのか?
 合田はますます自分の感情の行き先のあやふやさに戸惑い、十数年来見慣れた、落ち着いた加納の所作に焦燥を覚えつつも、黙って彼の行動を見守るばかりだ。
 自分にまとわりつく視線に気づいたのか、ふと加納が布団を敷く手を止めて合田を見た。
「どうした?」。
「いや・・・・・・」
 合田は言葉が継げない。何かこう、理解が及ばないんだ、お前の行動に。そう思うが言葉にならず、ただじっと加納を見つめ返してしまった。
 合田の戸惑いを見透かしたのかどうか、加納は我慢しきれないように、合田からは目を離さず、肩を揺すって小さく笑った。
「2か月だ。お前が刺されて、絶望して。恐ろしく長い時間だったよ」
 加納はそう言うと、先ほどまでの清涼な微笑をすっかり消し去り、射抜くような強い眼で合田をしかと見た。
 が、一瞬の変化だった。ふと自嘲的な小さな歪んだ笑みを口元に浮かべ、首を軽く振って「違う、18年、18年だ」と呟いた。
「長いな、18年というのは」
 ぼんやりと言葉を返しながら合田は加納が自分を思ってきたのであろう年月の感覚をこの身に味わおうとしたが、それは到底無理なことだった。自分の人生の半分にはこの男がいたのかと思うといまさらながらぞっとする。いつの間にかそばにいて当たり前の存在となり、疎みもするが熱望もする、そんな他人。水や空気を欲するように心身が求める圧倒的な訴求心を、当人にまるで悟られずにこれだけ植え付けた男の執念にも、自分の鈍感さにも、腹の底から冷える。
「お前にわかるものか」
 と加納は言い捨てた。
「祐介」と合田がはっきりと加納を呼びかけた。
「こっちへこい。18年分の話をしよう。それから・・・」
「それから?」
「もっと話をしよう」
「俺は明日も仕事なんだよ」とあしらうくせに、加納は布団一式を抱え直して、雄一郎のベッドの傍らにどさりと置き、今度こそ猛烈なスピードと精度で几帳面に敷きはじめた。
「雄一郎、冷えるぞ。布団に入ってろ」と声をかけられた合田はベッドから立ち上がって加納をまたぎ、手洗いをすませて戻ると、加納がかがみこんで布団を整えている後ろに立った。その気配に加納が振り向く間もなく、合田は自らの腕の中に男を包み込んでしまった。
 加納はちらと顎だけ振り向きかけて、結局小さなため息をついた。
「俺は、ここにおる」
「わかっている」
「お前がいてくれる。それが嬉しい」
「・・・・・・いつまでそんな殊勝な態度なものかね」
「今までは失うものがなかった、だから怖くなかった」
「今は怖いか?」
「怖い。裏切りたくない、失いたくない」
 加納は合田の腕をやんわりとほどいて身を動かし、合田と向き合うと、その唇に細長い人差し指をあてて言葉を遮った。
「慌てるな、雄一郎。お前らしく、今までどおりでいいんだ。ただ、命さえ、大切にしてくれたら、それでいい」
 加納の瞳には切実な祈りがこめられているようで、合田の目は気づかず吸い込まれた。
 ああ、これが18年という歳月がこの男に与えた強さか。2か月の絶望などうっちゃってしまえる強靭な精神の練磨をこの男は重ねてきたのだ、と合田はようやくその夜の加納の言動に少しの納得がゆく思いだった。
 永遠に思いのかなわぬ人。そう思って耐えてきた18年、決して楽ではなかったが、苦しいばかりでもなかったのだろう。世話を焼き、甘えられ、たまの笑顔を向けられ翻弄され。それだけで満ち足りた日々もあったか。絶望を経て得難い対象を手に入れた今、加納は鷹揚に構えていられるだけの満足を味わっているのか。
「高望みは、人間を愚かにする」
 そう言ったかと思うと、加納は優しくも力強く合田をベッドに向けて背を押した。
「早く寝ろ、まだ本調子じゃないんだろう、馬鹿野郎」
 むやみと急ぐ者は愚かか。
 合田は自分の焦燥と、対照的に落ち着き払った加納の様子を見比べて敗北を悟り、拗ねたように布団をひっかぶった。
 いつだって冷静で、常人とは違う地平に立って見下ろすかのような加納の相変わらずの沈着さが心地よい。淡々と振舞うくせに、俺の平静を乱すのだ、お前は。どうすれば喜んでくれるのか、そんな初恋を知った少年のような心持を起こさせるのだ、お前は。
 加納も部屋の明かりをスタンドだけに落とすと布団にもぐりこんだ。
 別れた女房の顔を嫌でも思い出す男は、女房の痕跡が残る赤羽時代には主の留守を見計らって訪れていた。八潮に越してからは何かと正面から面をつき合わすようになり、今やすぐ触れられる距離で身を横たえている。
 ずっと、近すぎず遠すぎず、そんな距離にいると思っていた。
 違うのだ。この男はいつだって俺の一番望む距離を測っていたのだ。慎重に慎重に寄り添っていたのだ。
 互いの体温で暖をとり、命の重みを確しかめ、信頼を深め合う。一番自然に身も心も寄せ合える。そんな瞬間が過去にあったことをふと思い出し、「山に行こう」、唐突に合田がそう言うと、加納はかすかに笑った。ともに山に登った学生時代、多忙の合間を縫って頂を目指したその後の数年、よく二人、眠気と戦いながら語り明かしたものだ。実に些細なことばかり、よくぞ飽きもせずに、と思うほどに。俺はなぜあの充実を忘れ、あっさりと捨て去ろうとしたのだろう。
「急ぐな」
 とだけ言うと、加納は嘘のようにすうと眠りに落ちていった。
 激務、そしてこの俺という緊張、帰還して無事対面した後の弛緩。
 この男は疲れている。
 合田は枕もとの明かりを消しがてら少し体を起こして加納を見た。痩せたな、と思った。

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