« マークスの山 | トップページ | マークスの山(文庫・上) »

マークスの山

『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった……』『……あれは実に醜悪だった。そもそも土に還った肉体の復元などというものは、モンタージュ写真とは完全に別種のものだと思う。あの生々しい凹凸のある粘土の顔を前にしたら、誰しもおのれの知力に危機感を覚えるだろう。目前で形になっているばかりに、あの似て非なる別物が、あたかも本物のように思えてくるのは、これこそ人知の限界というやつだ。
 しかし、巷にはもっと醜悪な話がある。小生があるところから聞き及んだところでは、あの青年が行方不明になった直後に、こちらの公安当局は青年が南アルプス方面に出かけたことを掴んでいたということだ。それについて、当時は関係各警察への連絡も、本格的な捜索も行われなかった。これは明らかに人知の限界内の話だ。事情の如何にかかわらず、このようなことはあってはならない。
 ともかく、かような話を耳にするにつけ、小生の若白髪はまた数本増えたような気がするが、君の方はいかがお過ごしか……』(p.66~67)

------

《また飲もう》
《とんでもねえよ》
《捜査現場に端から口を出すところなど、何人たりとも捨て置け。一に証拠、二に証拠。証拠さえ揃えば、法が判断する》(p.136~137)

------

《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。官舎では、こういう生活道具の貸し借りはしたくないのだ。ついでに黒ネクタイも一本拝借した。
 お察しのことと思うが、今夜は故松井某の通夜、明日は本葬があるため、小生は一日青山斎場に詰めている。故人の関係省庁だけで二百人程度の会葬者が予定されている。小生は場内整理係だ。
 昨夜、王子署に出向いたので、事件について多少の話は聞き及んでいる。小生で役に立つことがあれば言ってくれ。なお、蛇足ながら一昨日久しぶりに貴代子から電話があった。ボストンの水が合っているそうだ。君も元気だと伝えておいた。 加納祐介》
《そうそう……》《山梨の友人から入手したニュースを一つ。三年前に白骨死体の復顔写真が手配された事件で、有罪が確定して服役中の老人が、地裁に再審請求を出してきたそうだ。刑訴法第四三五条の六号による請求だと聞くが、新規に反証となる証拠が出てきたのかどうか。検察の立場から言うとはなはだ不快だが、公判記録を閲覧した限りでは、証拠や自白の整合性に問題があったと言わざるをえない事件であったので、成り行きを注目している》(p.151~152)

------

「ああ、来たか……」
「財布は……」「無事だ」
「ここも変わったな」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。酒、タバコ、女、金、どれも無縁だ。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない。とにかく目立たない。公務員の鑑だな、まるで」
「法務省は一応は静観の構えだ。検察も、捜査にあたって指揮権は発動しない方針だが……」
「検察の過剰反応には、捜査上のやむを得ない理由のある場合と、そうでない場合がある。松井の葬儀は、俺の知る限りは後者だ」
「ああ。俺の知る限り、今のところ検察の意志というより法務省の意向が強く働いている。地検の内部でも、首をかしげている連中が多い。当たり前だろう?たかが次長ひとり死んで、この騒ぎはない」
「多分」
「公務員関係や近親者は、当たっても無駄だ。当たるなら、その式次第に書いてあるだろう、大学の……」
「同窓会はまずい。日弁連会長、国家公安委員、省庁幹部、いろいろ揃っている。山岳部の方がいい。ただし、そこも官公庁関係が多いから、事前に調べることだ」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
「雄一郎。今年の夏は、山に行かなかったのか」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「本、読んでるか」
「そうだ、正月に穂高へ行かないか」「なあ、二人で行こう。北鎌尾根から槍ヶ岳……。前穂北尾根でもいいな……」
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ところで、会葬者の記帳簿だが……。王子の捜査本部は最低限《見せてくれ》という権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、遺族の気持ちは違うはずだ。言い方ひとつで首を縦に振るか振らんか、まず試してみることだ」
「気をつけろ。深追いはするな」
「心配するな」(p.161~164)

------

《今、どこだ》
《不明だ》(p.303)

「雄一郎!」
「俺の義弟だ」
「合田雄一郎。捜査一課の固い石だ。今後ともよろしく頼む」
《またな》
《俺は正しいし、お前も正しい》(p.305~306)

------

《そうであるべきだ》(p.354)

------

『ここを読め』(p.407)

------

《加納です》
《声が遠いぞ。どこからかけてるんだ……》
《死んだのか……》
《死人に口なしか……》
《雄一郎。気持ちは分かるが、焦るな……》
《……いつでもいい。連絡くれ》
《……時間通りに来いよ。俺が居眠りしないように》
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》(p.441)

|

« マークスの山 | トップページ | マークスの山(文庫・上) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« マークスの山 | トップページ | マークスの山(文庫・上) »