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マークスの山

マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)
マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)

 年に数回、忘れたころに手紙をよこす男がいる。高校・大学時代の友人。義兄。地方検察庁検事。いろいろ肩書はあるが、十四年も付き合っていると、相手が手紙をよこす理由など、もはやどうでもよくなってくる。ただし、その男の手紙は、普段は筆不精で賀状一枚書かない怠け者に、曲がりなりにも数行の返事をしたためさせる特別な力を持っていた。もっとも切手にあった京都の消印を見たとき、最初に思い浮かべたのは嵯峨豆腐だったが。
 男は加納祐介といった。ほぼ二年毎に地方転勤を繰り返す検事稼業のせいで、今は京都にいる。その夜の手紙は、『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただ」いた』という達筆の書出しに続いて、『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった……』などと続いていた。
(中略。セリフ集を参照してください)
 新年早々、何ということを書いてよこす奴だと思いつつ、合田は加納の若々しい美貌を思い浮かべた。一人一人が独立した国家機関である検察官の建前が、加納という男の中では名実ともに生き続けている。その結果の若白髪だが、あと十数年我慢すれば、それも美しいロマンスグレーになるだろう。同じように私生活は最低だが、貴様の方がまだマシだと思いながら、合田は、四日分まとめて呷ったウィスキーの勢いで、拙い返事を書いた。(p.66~67)*1990年のお正月です。

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 署を出たとき、玄関前の路上に散っていく人影の中に、合田はふとスーツの後ろ姿を一つ見分けた。自分と似たような地平にいるのに、なぜかいつも、自分の日々の喧騒とはかけ離れた涼風の吹いている、一人の男の背だった。
 合田は「おい!」と呼んだ。
 相手はその声に振り向き、白い歯を覗かせて《また飲もう》と目で言ってよこし、そのまま同僚の検事らとともに去っていった。
 合田はその場で少し自分の足を踏みしめた。半年前の春の異動で東京地検へ移ってきた加納祐介とは、春に一度会ったきりだ。今夜の事件で、やはり地検から強制的に駆り出されたのだろうが、意外な再会だった。加納とは身内ではあるが、長年の公私の経緯があって、人前で顔を合わせるのは少々まずい間柄だった。一瞬にしてもそのことを忘れて『おい』はないだろうと反省しながら、一方では自分の無頓着さがおかしく、久々の加納の超然とした笑みもおかしかった。
 そういえば、立ち去っていく加納の背は《とんでもねえよ》と言っているふうだった。加納が言うだろうことは百年一日、分かっている。《捜査現場に端から口を出すところなど、何人たりとも捨て置け。一に証拠、二に証拠。証拠さえ揃えれば、法が判断する》(p.136~137)

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 台所のテーブルに新聞の折込み広告の紙が一枚載っていた。裏にこう書いてあった。

《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。(中略。セリフ集を参照してください)

 加納には、春に会ったときに部屋の合鍵を渡した。誰も知らない避難場所がほしいと贅沢なことをのたまい、合鍵をくれなどと言うのは加納ならではだ。しかし、合田が留守だと分かっているときにしか来ない気づかいも忘れない。双子の妹貴代子と瓜二つの男の顔を、合田があまり見たくないと思っていることを知っているのだ。もう、別れて五年も経っているのだから、それほど気づかう必要もないのだが。
《そうそう……》と、加納は紙の端に小さな字で書き足していた。《山梨の友人から入手したニュースを一つ。(中略。セリフ集を参照してください)
 そういえば、そんな事件があった。(中略)検察の人間として加納が《不快》だというのは、合田も同じだった。(中略)
 手帳をしまって、合田はふと、自分の坐っている食卓がぴかぴか光っているのに気付いた。小まめな加納が磨いていったらしい。貴代子は『掃除は兄さんに任せるわ』と笑っているような自由奔放な女だったが、兄の加納は六法全書片手に、掃除機をかける男だった。若かったころ、兄妹のどちらも、凡庸な自分には眩しい才気と美貌の持ち主だった。
 (中略)過去が完全に過去になるには、自分も加納も、まだ若過ぎる。(中略)
 そういえば、加納が当の葬儀に出るというのはほんとうか。思い浮かべようとすると、どうしても貴代子の顔と一つに重なる加納の顔を、あらためて思い浮かべながら、合田はふとズックを洗う手を止めた。(p.151~153)

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 二百人ほど入れる館内に、黒い頭がほんの五つか六つ散らばっていた。それらをざっと見渡した後、一番端の後ろの方に一つ、深く垂れた頭を見つけるやいなや合田はなぜか慌てた。急いで後ろの席に着くと、腰を下ろすのもそこそこに、前の座席の方を揺すって「おい」と声を殺した。「こんなところで寝るな」
「ああ、来たか……」と呟いて、加納祐介は欠伸をした。
「まず、財布を確かめろ」
「財布は……」加納はダスターコートの胸を探り、「無事だ」と悠長にうなずいた。
 ほかの人間なら心配しないが、スリには加納のようなのんびりした御仁は絶好のカモだ。それとも、人けのない暗がりに無条件に危険を感じ、暗闇に散っているいくつかの頭が、全部スリと痴漢に見えた自分がおかしいのか。昔、加納兄妹と一緒によく来た映画館だが、以前はこんな感じではなかった。昔はスクリーンも明るく、見たのは貴代子の好きなコメディーが多かったが、今かかっているのは、モノクロのうっとうしい冬の画面だ。
「ここも変わったな」などと加納は呑気に呟いた。
「ああ……」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「葬儀、どうだった……」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
 そんなことを言いながら、加納は前の座席からひょいと、告別式の式次第を印刷したカードを後ろへ差し出した。弔辞を読み上げた関係省庁、団体などの名前が並んでいた。その数も少なく、加納の話では、刑事局長のほかはみな次長級だったらしい。弔辞も短かったという。式はことさらに質素で、花輪には献呈者の名前も付かなかった。会葬者以外には誰が参列したのか分からないような配慮がなされたのは、徹底したマスコミ対策だ。遺族は香典も辞退したので、会葬者には階層御礼のハンカチ一枚が一律に配られただけで、葬儀社側も会葬者の名前は知らない。記帳簿はそのまま遺族の手に渡されたという。
 加納は参考までにと言い、参列した役人の主だった顔ぶれの肩書を淡々と連ねた。合田は後ろの席で素早くメモを取った。
「故人の風評はどうだ……」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう、酒、タバコ、女、金。どれも無縁だ。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない。とにかく目立たない。公務員の鑑だな、まるで」
「何もなくて殺されるはずはない」
「法務省は一応は静観の構えだ。検察も、捜査にあたって指揮権は発動しない方針だが……」
「何が静観だ。今日の葬儀のガードの固さは異常だった」
「検察の過剰反応には、捜査上のやむを得ない理由のある場合と、そうでない場合がある。松井の葬儀は、俺の知る限りは後者だ」
「理由がない……ということか」
「ああ。俺の知る限り、今のところ検察の意志というより法務省の意向が強く働いている。地検の内部でも、首をかしげている連中が多い。当たり前だろう?たかが次長ひとり死んで、この騒ぎはない」
 合田は、どこまでも静かで柔らかい加納の声に耳を傾けながら、昔からそうであったように、そのまますべて受け入れ、ゆっくり反芻し、肯定も否定も支援に湧き出るままに任せた。湧き出てくるものの中には、肯定や否定のほかに、過ぎ去った日々の光やかげりの渾然とした旋律も含まれていた。日ごろ自分の回りにはない、何かの風邪が吹いてくるのを感じる。学生時代、加納兄妹と過ごした賑やかな日々、自分の胸を満たした茫洋とした蜃気楼が、未だに身体のどこかに残っている。それが切なかった。
「松井には何かあるな……」
「多分」と加納。
「松井を個人的に知っている者、誰かいないか」
「公務員関係や近親者は、当たっても無駄だ。当たるなら、その式次第に書いてあるだろう、大学の……」
「N大法学部同窓会。N大蛍雪山岳会OB会……」
 今日、斎場近辺で見張っていた肥後たちが、素性をつかめなかった背広姿の男たちの大半は、同窓会関係者だったようだ。
 加納は続けた。「同窓会はまずい。日弁連会長、国家公安委員、省庁幹部、いろいろ揃っている。山岳会の方がいい。ただし、そこも官公庁関係が多いから、事前に調べることだ」
「山岳会か……。山に登っていたのか、松井は。遺体は日焼けしてなかったが」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
 加納は、自分の座席の背にのっている合田の手をつつき、微笑んだ。その加納の手も白かった。二人とも山歩きで真っ黒になっていたころ、夜に大学の守衛に泥棒と間違われ、学生証を見せたら、写真と顔が違うと言われたのは、もう遠い話だ。
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「ああ。新宿と上野で外国人の殺し合いが五件。盆休みも取られへんかった」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「疲れてるんやろ。つい出てしまう」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「やめてくれ、アホ」
「本、読んでるか」
「ああ。ぼつぼつ……」
「そうだ、正月に穂高へ行かないか」加納はふいとトーンの上がった明るい声を出した。話があっちこっちへ飛ぶのは昔からだ。「なあ、二人で行こう。北鎌尾根から槍ヶ岳……。前穂北尾根でもいいな……」
 斜め前を向いたままそんなことを呟く加納の頬に、現世の雑事を忘れたような笑みがふくらむのが見えた。そういえば、合田も無意識に後ろに坐ったのだが、加納も一度もこちらへ振り向こうともしない。
 五年前まで、加納とは年に四、五回は二人で山を歩いていた。合田が加納貴代子と別れてから、互いに顔を合わせるのを避けるように単独行ばかりになった。どちらかが言い出さなければ、二度と一緒に歩くこともないと思ってきたが、ごく自然に、閉ざしていた扉を開けるのは難しい業だ。それを先にやったのは、やはり加納だった。
「ええな……。北鎌か……」と合田は呟いた。
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「俺は二年ぶりやな……。ザイル、腐ってるわ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ああ」
「ところで。会葬者の記帳簿だが……。王子の捜査本部は最低限《見せてくれ》という権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、遺族の気持ちは違うはずだ。言い方ひとつで首を縦に振るか振らんか、まず試してみることだ」
「そのつもりだ」と合田は答えた。
「気をつけろ。深追いはするな」
「ああ」
 前の座席から、加納は後ろ向きに手だけ出してきた。合田はそれを握り、席を立った。「居眠りするな」と声をかけると、「心配するな」と加納は応えた。
 帰り道、合田はどこかのショーウィンドーに映った自分の顔を見た。変わりばえしない自分の顔だったが、個人生活の範疇にいる一人の男と会っていた短いひとときの間は、何かの覆いが一枚剥がれていたような面はゆい感じだった。明日職場に出たときには、その覆いをまた被っているのだろうが。(p.161~164)

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 地検の中で、また泥試合をやっている。今回は、陰湿な中傷の網をものともせずに泳いできた加納祐介が、くわえていたエサをひょいと網の外に投げてくれ、それに齧りついたのが自分だった。誰かに見られていたのではない。検察内部で何かのリークがあって、外に合田の顔があったら、一+一=二で加納が網にかかるだけのことだった。逆も然り。もう十年来そういう外圧の繰り返しだが、どちらもへこたれず、しぶとく生き抜いてきた自信はあった。(中略)
 今夜何度か去来していた加納祐介の顔を再び瞼に浮かべたら、それはいつの間にか貴代子の顔になった。五年も前に別れた女の顔には、最近は、もうあまり肉体の匂いはないのが普通だった。目の前に現れたらどうなるか分からないが、今になって思い出す貴代子の姿は、兄と同じ、凛とした涼風に包まれていることが多い。そういう貴代子が好きだった。(中略)
 一方、大学三年で司法試験に合格した俊才の加納祐介も、司法修習の後、やはり貴代子の思想偏向と私生活を問われて、今年の春まで地方の中でも重要度の低い地方支部を巡ってきた。遂に結婚もしなかった。それを加納に耐えさせたのは、権力が何であれ、貴代子の高潔と合田の剛直な精神のカップルを己の理想と信じ続けたからだろう。
 それが破綻したとき、別れないでくれと号泣した男も、合田も貴代子も、それぞれ試練を乗り越えて今日があった。だが、男二人がそれぞれの社会で生き残るために、貴代子を潰した日々に対する思いは、加納と自分とではいくらか違っていた。女を知らない無菌培養の加納には、合田が貴代子に対して懐いた単純な嫉妬や悔恨の大部分は理解出来なかったはずだ。同じように、己の理想に捧げる加納の高潔な意志と献身と、そのために手段を選ばない一途は、合田には理解しがたい部分もあった。
 加納とはむしろ、それらの愛憎や社会生活の信条とは別の次元で結ばれてきた。それはたった二つの符号で成り立っていた。《山へ登ろう》《ドストエフスキーを読もう》という、単純かつ浮世離れした符号で。
 しかし、それは合田だけの考えかも知れない。今夜、あの根来という記者に、『気をつけてくれ』という一言を託した男がいる。それを受託した根来にとっては《良心の捌け口》だろうが、請託した男の思いの切実さは、百倍にもなって合田の血の中を巡っていた。
 合田はそれ以上、考えるのを自制した。瞼にちらつく貴代子の顔が再度、加納と重なり、情動と精神がごっちゃになり、自戒や怒りや優しい気持ちが渾然となって、今夜はもう、何を考えても実りはないと思ったからだった。(p.226~228)

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 そこでしばらく保留音になり、また別の声が《今、どこだ》と穏やかに尋ねた。同僚検事の手前もはばからない、いつもと同じ加納祐介の声だった。噴き出しかけていた罵声が引っ込み、我ながら呆れ返って受話器を取り落とすところだった。
 いや、加納が電話に出たのが、偶然でないことは分かっていた。佐伯正一の件が特捜部の内偵事項であることを知っている警察官は一人しかいない。電話の主が警察だと分かった時点で、加納には誰だか分かったはずだった。いや、加納だけでなくほかの検事たちにも。
「佐伯の所在、分かっているのか、いないのか」と合田は短く繰り返した。
《不明だ》と加納は応えた。
「だったら、今から佐伯の自宅の強制立入りをする」
 それだけ言って、合田は一方的に電話を切り、無言の拳ひとつを電話ボックスのガラスに見舞った。
 特捜部ともあろうところが、内偵中の人間の所在を掴んでいないということはよもやあるまいと考えた末の確認の電話だった。だが、返事は《不明》。それが事実なら、端的に佐伯は逃げたということであり、諸般の事情を鑑みて、木戸の壊された佐伯の留守宅を覗いてみるのは、警官の職務執行法の権限内の話だった。
 合田は電話ボックスを飛び出し、佐伯の自宅へ向かって走った。自分の行動はよく分からなかった。同僚の前で平然と電話に出る加納の神経も分からなかった。だが、そうして不用意な電話を入れた自分は、特捜部の内偵を気づかったわけではなく、ただひとりで佐伯の家を覗くのが怖かったのだった。怖くてたまらないときに、電話を入れるところはどこでもよかったのだが、よもや身内の警察にはかけられなかっただけだった。加納の声は聞きたくなかったと、勝手なことを考えた。(p.303)

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加納や地検詰め記者からの情報源を漏らしたくないがために、仲間に佐伯の情報を徹底しなかったこと。(中略)
 せめてタバコを吸うために、ひとり現場を離れたときだった。十字路を一つ曲がるともう深夜の静けさが戻る道端で、タバコの赤い火を灯らせている男が四人、こちらを見た。
 佐伯の異変の一報はすぐに地検特捜部へも届いたはずで、同じように駆けつけてきた男たちだった。加納祐介の姿があった。合田の足が自動的に回れ右するより早く、加納の声が「雄一郎!」と呼んだ。
 加納は手招きをし、悠然と合田の袖を引いて、同僚検事たちの前に引き出すやいなや、「俺の義弟だ」と言った。「合田雄一郎。捜査一課の固い石だ。今後ともよろしく頼む」
 巷に徘徊する噂や中小の毒虫をさっさと自分の手で払って、同僚たちに義弟を引き合わせた加納は、そうして先手を取り、清々した眼差しを合田に投げた。合田は軽く会釈だけした。検事たちも会釈した。
「他殺か自殺か、それだけ確かめに来たのです。自殺だったら、目も当てられないところだったので」と検事の一人は言った。それ以上の会話はなかった。
 加納は、《またな》と片手を挙げた。合田も片手を挙げた。
《俺は正しいし、お前も正しい》そう言いたげな毅然とした目をよこして、加納は背を向けた。合田も足早にその場を離れた。
 別の路地へ逃げてひとりになり、合田はやっとタバコに火をつけた。今夜一度に押し寄せてきた数々の狼狽。自責や悔恨の怒号。それらはいつの間にか鎮まっていた。我が道を行く義兄殿に負けた、と思った。
 加納と出会ったためにしばし遠のいていた現場の喧騒を再び耳にしながら、合田はあらためて、四人目の犠牲者でひっくり返った自分の脳味噌を、こねまわしこねまわし、ひねり潰したい思いで探り始めた。(p.305~306)

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(真知子の病室にて)
 かつて、自分や加納祐介が職場で被っていた密告と醜聞のさざ波を、加納貴代子が早くから知っていたように。(中略)
『そうであるべきだ』と加納などは言うが、足を止めても得るものは現実には何もない。(p.346~354)

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 ああ、来たんだなと思った。
 塵一つなく光っている食卓の上に、《冬こそ穂高!》という特集記事の見出しが載った真新しい山の雑誌が一冊置いてあった。『ここを読め』と、加納が何ヶ所もページの隅を折り返している。新素材の防寒具の広告。登攀具の安売りの広告等々。
 加納とはたしかに正月登山の約束はしたが、すっかり忘れていた。かろうじて、これが男二人の個人生活かと思いながら、雑誌を横目で眺め、苦笑いが出た。(p.407)

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 自分も、あるいは加納も、なぜ山へ登るのか。その理由は今でも知らないが、五人の男たちの後ろ姿の一部が、己の姿と重なっているような気がして、合田は自分の五臓が震えるような思いに陥った。(中略)
 理由のない無言の憤怒、不安、陶酔が繰り返し押し寄せ、加納とは真夜中にいきなり殴り合いを始めたこともある。互いの首に手をかけたこともある。
 かと思えば、底雪崩の轟音が下ってくるのを聞きながら、ぼんやりと二人で坐ったまま動かず、《俺たち死ぬぞ》と笑っていたこともある。そのあと雪崩の爆風に吹き飛ばされて、互いの姿がしばし見えなくなると、突然激しい憎しみが走り、次いで《愛してる》と思った。憎しみ、愛していると感じたのは、雪と山と寒さと恐怖と、世界と加納のすべてだ。そうしたことを、これでもかというほどくり返しながら、岩稜が天に向かって続く限り、またひたすら登っていく。(p.425)

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兄と同じように、現世の汚濁を超越した風が吹いているように思える貴代子のすがすがしい姿だった。
 自由と英知の涼風や、断固とした遵法の精神や、人間としての基本的な良心が、謂われのない中傷と悪意にさらされる世界に、加納兄妹は今も昔も凛として生きている。(p.428)

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《加納です》と電話の声は応えた。
「雄一郎」
《声が遠いぞ。どこからかけてるんだ……》
「広河原。北岳から水沢裕之の遺体を下ろしてきたところや」
《死んだのか……》
「ああ」
《死人に口なしか……》
 加納祐介はそう呟いた。加納はおそらく、あの白骨の復顔写真が出回ったころに、すでに地検のルートで事件の裏を嗅ぎつけていたに違いなかった。それから三年後、事件が一連の恐喝殺人と化して東京で再び噴き出したとき、捜査に携わった合田に、広告のチラシの裏にメモを書いたりして、それとなく目配せを送り続けてきた。その男の、無言の絶望の吐息が伝わった。
「祐介。頼みがある」と合田は端的に切り出した。「地検特捜部は佐伯正一の足取りを追っていたのなら、十月九日の赤坂の料亭に、住田会会長がいたことも知ってるだろう。そこに林原雄三がいたこともな。確かに三者がそこに《いた》という証拠が欲しい」
《雄一郎。気持ちは分かるが、焦るな……》
「焦ってへん。昭和五十一年十月に野村久志を山に埋め、平成四年十月五日と十三日に、住田会と吉富組を動かして水沢裕之を殺そうとして果たせず、結果的に無実の看護婦ひとりに重症を負わせた弁護士が、最後に生き残った。俺は手段は問わへん。時効まで追ってやる。時間はある」
《……いつでもいい。連絡くれ》
「いや、明日や。午後十時、池袋のいつもの映画館で」
《……時間通りに来いよ。俺が居眠りしないように》
 加納祐介の沈んだ声を聴きながら、合田はふと言い忘れたことを思い出した。
「なあ……正月登山は北岳にせえへんか」
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》(p.441)

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