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マークスの山(文庫・下)

 ラッシュアワーにはまだ少し早い午前七時、東京駅の山手線ホームにはめっきり低くなった秋の日差しがあった。開店したばかりのキヨスクの脇に、加納祐介は片手に書類カバン、片手に朝刊というサラリーマン然とした恰好で立っており、スニーカーのゴム底の足が隣に近づくと、朝刊から上げた目をまたすぐ紙面に落として「お早う」と言った。
「お早う」と合田も言った。
「可笑しいな。なんでこんなふうなんだろう」加納は言い、それはこっちの台詞だと思いながら、合田も「ああ」とだけ応えた。共にろくに寝ておらず、食っておらず、あれこれの公私の懸案を避けがたく一緒にして思い巡らし続けた末に、こうして公共の場で面を突き合せて出てくる第一声が「お早う」とは。そして、それに続くのは当面の仕事の話なのだが、思えばこの男とは、昔から山ほど抽象的な議論はしたのに、日常会話はおおむね貧しくぎこちなかったのだった。それを貴代子はいつも嗤い、無口の男二人揃ったら、黙って山でも歩くしかないわねと、最後の日々は刺すように冷ややかだった。
「俺も、蛍雪山岳会の名簿がこんなところで日の目を見るとは思わなかった。平成二年の年明けに君に手紙を書いただろう?前の年の夏に北岳で発見された白骨死体の身元が割れて、それが暁成大学の出身者だった。野村某という名前だったと思うが……」
 加納は朝刊に目を落としたまま言い、合田もまたあらぬ方を向いたまま耳を尖らせ、寝そびれて冴え冴えと痛むこめかみに、その一言一句を刻み込んだ。
「わざわざ名簿を入手した理由は」
「野村を殺したという男が出てきたのが平成元年夏。(中略。セリフ集を参照してください)」
「あんたの担当事件だったわけじゃないのに」
「いろいろ耳に入ってきたからだ。野村という男の身辺がきれいとは言いがたかったのが一つ。実は単独行ではなかったという話もあったのが一つ」
「そんなバカな話。単独行でなかったら、一緒にいた仲間は死体遺棄やないか」
「だから調べたんだ」
「不正な事件処理があったとか言ってたが」
「平成元年に甲府地検が被疑者を起訴したとき(中略。セリフ集を参照してください)」
(中略)
「ともかく、北岳の事件と今回の君らの事件は関係ないと思うが、圧力のかかり方が何となく平成元年のときと似ている感じがする」と加納は言った。「本来問題があるはずのない資料がなかなか出てこないこととか、大学事務局を刑事が訪ねただけで過剰な反応があることとか……」
「きっと考えすぎや」
「そうかも知れない。高島平の事件を聞いてちょっと感情的になったんだろう」
「そうか。それで髪、立ってるんか」
 合田はかろうじて笑ってかわし、加納は二秒遅れてやっと、やられたというふうに悠長な照れ笑いを漏らした。「一応、梳かしてきたんだけどな」と。
「特捜部には今、大事な仕事があるんやろ?東邦の根来という記者に聞いた。もういい、その話は忘れよう。俺も北岳の事件はもう一度調べてみる」
「少し時間を置いた方がいい。その調書もどこかが押さえているかも知れないから」
 すでに電車を一本やり過ごしており、二本目が近づいてくる音を聞きながら、加納は手にしていた四つ折りの新聞を合田の手に載せた。間に薄めの冊子がはさんであるのが分かった。
「《S》と《K》には印をつけておいたから、へたに嗅ぎまわるな」
 それだけ言い残して、加納は滑り込んできた電車と入れ違いにホームを立ち去っていった。合田はそのまま電車に乗り込み、動き出した電車の窓から加納の姿がかき消えるまで、手の中の新聞をしばし握りしめていた。(中略)それこを加納が「何となく似ている」と言った、その々ことが代官山の泥棒のときもあったような、なかったような―――――――。
(中略)役職のページにまず一つ、加納の付けた○印があった。
(中略)そして、加納の付けた二つ目の○印は経済学部卒の《佐伯正一》。(p.11~16)

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《(略)うちとしても放っておくわけにいかないので、さっき加納検事に一報を入れました》(p.65)*根来さんです。

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あんたのお知り合いの話じゃないですよ、念のため。*又三郎です。
(中略)佐伯家の手伝いの女が、佐伯から『近々捜査当局の事情聴取があるから』と聞いたというのなら、それは特捜部内で加納らのチームの内偵を潰す力が働き、佐伯を追い詰めるための情報が故意に流されたということだろう。(中略)
「おい、又三郎。俺の知り合いがどうしたって?」
「聞いてたんですか。地検の奴らにあんまり頭に来たもんで」
「いっぺん紹介してやるわ。名前は加納だ。のんびり屋で真っ直ぐな、ええ男やぞ」(p.120)

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そして、それを耳にした加納祐介がいち早く手持ちのネタを流してきた様子を。
(中略)また、そんな言い訳を許すような吾妻や加納でもなかったが、それでも滅多にない同情や援護の手がそれとなく自分に差し伸べられているのを感じると、合田はあらためて忸怩たる気分だった。(p.158~159)

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そんな着地に至る間、合田の腹には今すぐ加納に会いたい、信頼に足る意見を聞きたいという思いが噴出したりしたが、それも無意識に自分で否定した。(p.162)

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「(略)今日、亀有に召集がかかる前に、本部にファックスを送ってきた人物から匿名の電話があってな。その男が、岩田の犯歴を調べろと言うから調べたら、岩田は同じ五十一年にもう一人登山者を殺していた。(略)」(p.179)

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用賀の馬事公苑そばの公務員住宅に住む特捜検事はまだ帰宅しておらず、留守番電話が応答した。(p.189)

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 赤羽台団地三十八号棟に辿り着いたとき、一階郵便受けに溢れているはずの新聞が見当たらず、元義兄がまた寄っていったのかと思いながら五階に上がると、珍しいことに本人が中にいた。セーターにスラックスという普段着で加納祐介は畳みに散らかった本の山を片づけており、台所のテーブルには飲みかけのウィスキーがあった。
「今日は官舎の秋祭りでな。うるさくていられないから来たよ」
 そうか、今日は日曜だったかと思いだしながら、日中に元義兄の姿をこうして見るのはずいぶん久しぶりだと合田はぼんやり考えた。それにしても、日曜日に官舎を抜け出して足を運んでくるのが元義弟のアパートというのは、この男にも家は家でない、生活は生活でない。ともに三十も過ぎて人並みの人生をなお持てないでいることの原因が、自分と貴代子の離婚にあるのはいやというほど知りながら、改善しようとしない怠惰はお互いさま、どうしていいのか分からない困惑もお互いさまなのだった。
「この間、君の留守番電話を聞いた」
「仕事が苦しいと、人の声を聞きたくなるんやろうな。(略)」
 そうと聞けば、加納には状況の厳しさは即座に判断出来たはずだった。ちらりと普段の検事の顔を覗かせ、「時間があるんなら、一風呂浴びるか?すぐに沸かそう」とだけ言って風呂場へ姿を消した。
(中略)風呂場から戻った加納に「これ、あんたも興味あるはずだ。読んでいいよ」と言った。
 加納は入手の経緯は尋ねず、野村久志を北岳に埋めた男の遺書をしばらく見つめ、読み始めた。その間に、合田は押入れに眠っていたザックや防寒具の上下、雨具、アイゼンなどの用意をし、あえて台所の加納には声をかけずに先に風呂に入った。どちらもひときわ上背のある大の男が二人、面を突き合わせるには古い公団住宅はともかく狭すぎ、息苦しすぎるのを久々に感じ、それが今さらながら急に面はゆくなったせいもあった。
 しかし、加納には元から分かっていたはずだ。昭和五十一年十月、木原たち五人が野村久志を連れて北岳に登ったことを京都府警の公安が知っていたのだろうことは、野村が消息を絶った後、野村を監視下に置いていた証拠を含めて警察と検察が一体となって隠蔽を図ったことから明らかだった。おそらく木原郁夫の出自や閨閥と、大学時代の警察との関係の二つの理由から隠蔽が行われたと思われるが、さらにそれは司直各々の内部の権力争いに利用されたのであり、平成元年から二年の初めにかけて京都にいた加納が過去の不正を掘り出したのも、いくらかは検察内部の派閥抗争の末端に巻き込まれたのが始まりに違いなかった。そして、畠山殺しに始まる一連の事件のおおまかな姿を、霞ヶ関や桜田門があらかじめ知っていたとすれば、加納も例外でなかったはずはない。
 しかし一方では、折りにふれて元義弟にそれとなく「こんな話がある」と事件の背景を知らせてきた男の真意は、一貫して真実を求めるものだったはずだと、合田は信じた。現場の刑事の比でない派閥抗争の中に身を置きながら、直接に事件と関わりのない部署で、どうやって故人の良心や社会正義を守るか、自分の職と人生を守るか、加納は加納なりに苦闘してきたのだ、と。それにしても、すでにそれぞれ学生時代とは違う顔をし、違う屋根の下にいながら、こうして今も幸福だった過去の記憶を通して独りの男を見ている自分は、《マークス》の五人とどこが違うのだろうとも思った。
 合田が風呂から上がったとき、加納は台所の上がり框に腰を下ろして元義弟の登山靴を磨いていた。長く履いていなかったので、皮革に少しカビが生えていたやつだった。加納はそれにクリームをすり込みながら、背を向けたまま一言、「山とはなんだろうな……」と呟いた。
「そうだな、なんだろう……」
 合田は同じ言葉を返しながら、ふいに自分の胸をよぎっていくものがあるのにきづいては、何十秒か元義兄の背中を見ていた。(中略)あのとき、たったの一言が出なかった理由はいったい何だったのだと一瞬思い、結局、互いに口に出したら最後というような何かの塊だったことだけ呼び戻した後、合田は元義兄の方を叩いて「おい!」と声をかけていた。
「正月までいつ会えるか分からんから、一杯やろう」
「へえ。登山の約束、覚えてたか」
「忘れれるわけがない」
 午後三時、加納持参のスコッチを軽く一杯ずつ空けた。「無理だけはするな」という可能の言葉に送られて再び部屋を出たとき、合田は理由もなく、自分の心身が少し落ちついたような心地がした。(p.328~332)

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