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マークスの山(文庫・上)

マークスの山(上) 講談社文庫
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 その夜は、四日分の新聞と一緒に封書が一通届いていた。もう何年もの間、近しい身内もいない一刑事に宛てて私信をよこすような奇特な人間は一人しかおらず、差出人の氏名は確かめるまでもなかった。名を加納祐介といい、大学時代からの知己だったが、ある時期その実妹との婚姻で義理の兄になり、その後離婚によってまた他人に戻った人物だった。もっとも、その間の経緯も種々にごじれた感情も、最近はもうどうでもよくなって、年に数回相手が自分に手紙をよこす理由をもはや深く詮索することもない。当人は、ほぼ二年毎に地方転勤を繰り返す検事稼業のせいで、いまは京都におり、先月か先々月には嵯峨豆腐が云々と、浮世離れした長閑な話を書き寄こしたところだった。そうして、今度は何を言ってきたのかと思い、手紙を開きながら、合田は自分が変わったのだろうかと一寸自問していたりしたが、数年前なら開封もせずに捨てていただろうに、最近は内容によっては返事を書こうという気持ちにさえなるのは、自分でも不思議な気分だった。
 その日の元義兄の手紙は、『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』という達筆の書出しに続いて、『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった』などと続いていた。
『……あれは実に醜悪だった。(中略。セリフ集を参照してください)』
 新年早々、なんということを書いてよこす奴だと思いつつ、合田は加納の若々しい美貌を思い浮かべた。一人一人が独立した国家機関である検察官の建前が、加納という男の中では名実とも生き続けている。その結果の若白髪だが、あと十数年我慢すれば、それも美しいロマンスグレーになるだろう。同じように私生活は最低だが、貴様の方がまだマシだと思いながら、合田は、四日分まとめて呷ったウィスキーの勢いで、拙い返事を書いた。(p.104~106)

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何ひとつピンと来ない肩書一つの向こうに、ふと疎遠にしている現職検事の加納祐介の顔が浮かんだりした。(p.198)

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 下世話な詮索をめぐらせたのも束の間、又三郎がまたちょっと《ほら》と顎で示した裏口から、刑事とは一見して立ち居振る舞いの違う男たちが三人出てくるのが見えた。その一番後ろの一人は、自分の身一つをもてあますような所在なげな様子で少しうつむき、長身を飄々と夜風にたなびかせており、アッと思ったら、虫の知らせというやつで向こうも気づいたか、合田の方へ目を振り向けるやいなやニッと笑って見せた。それは春の異動で東京地検へ移ってきた加納祐介で、思わぬところで面を合わせた戸惑いを、先ずはそうして一足先に笑い流してしまうところなど、いかにも老獪な元義兄らしかったが、合田のほうがひとまず、あんたまで何しに来たのかと思わず声に出しそうになった。
 すかさず、目敏い又三郎が《ほう、地検に知り合いがいるんですか》といった目をよこす。合田は、身にしみついているはずの公私の峻別の不文律が、一瞬にしろ自分の中から消えていたことに密かにうろたえ、苛立った。足早に背を向けて立ち去っていく加納の恬淡とした後ろ姿は、元義弟の戸惑いなど斟酌もしないといったふうで、毛k冊が警察の庭に踏み込むときは踏み込む理由があるのだと言い放っているようにも感じられた。これはたんに検事と刑事という似て非なる立場から来る確執なのか、それとも学生時代からの個人的な人間関係が捩れに捩れてきた末の感情なのか。合田はちょっと考え、くるりと自分も背を向けて「引き揚げるぞ」と又三郎に目で合図を送った。
(中略)また少し元義兄の顔を呼び戻したりした。水戸の旧家の出身で、おおむね挫折というものに無縁な秀才の男と偶然大学のゼミで知り合い、一時期義理の兄弟にまでなった年月も、今となればほんとうにあったのか、なかったのか。近頃は何もかもがひどく不確かだと感じながら、そういえばそろそろ母親の十三回忌だとふと思いだしては、ホームのベンチで開いた手帳の十一月の日付に印を付けてみたりした。(中略)
遠くから聞こえてくる始発電車の響きを聞きながら、合田はまたちょっと元義兄の顔を慰みに思い浮かべ、続いて二卵性の双子であるその妹の顔を思い浮かべていた。大学を出てすぐに結婚し、五年前に離婚して今はアメリカにいるその妹は、名を貴代子といった。種々の事情で終止符を打つしかなかった結婚生活の記憶には、なおも消えない棘が刺さっていたが、そんなことを久々に思い出すのも、貴代子の実兄である加納祐介にでくわしたせいだ、それ以外に何がある、と思った。(p.215~219)

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この春に東京地検に異動になってから、いつも留守の間にやって来て、ちょっとした資料整理や書き物に使い、そのつど簡単な書き置きと仄かに整髪料の匂いを残していく男が、その夜も寄っていったのだ。五年前に合田が加納貴代子と離婚して以来、気まずさもあって疎遠になった加納との仲だったが、互いにあえて顔を合わさないようにしている今の関係を、部屋に残されていくその香り一つがいつもちょっと裏切っていく。そういう加納も、その本人にこうして合鍵を渡している自分自身も、どちらもが何か必要以上に隠微だと思いながら、合田は書き置きをざっと斜め読みした。

《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。(中略。セリフ集を参照してください)》

《そうそう……》と、加納は髪の端に小さな字で書き足していた。《山梨の友人から入手したニュースを一つ。(中略。セリフ集を参照してください)》
 合田は、三年前に隅田川沿いの工場で見た老人の顔をちらりと思い浮かべた。代官山周辺でいくつか些細な窃盗事件が重なり、一件で家人が怪我をしたため強盗罪が適用された事案の参考人だったが、別件で老人の事情聴取に来た山梨県警の警部から、後日『殺人を自供した』と聞かされたときは、ちょっと狐につままれたような感じだった記憶があった。そういえばそれと前後して届いた私信で、加納は山梨の事件にちょっと触れていたのだったが、借りに県警や地検の捜査に何らかの《問題があった》としても、自分の担当でもないそんな一件に、今もなにがしかの関心を払っているというのは、多忙な検事生活から考えて少し奇異な印象も受けた。警察以上に魑魅魍魎の巣窟らしい検察の中で、おおかた何かの見えない糸が今の今も張りめぐらされており、山梨の事件の処理をネタにした内部の潰し合いがあるのかも知れないと思ってみたが、元よりそんなものは一刑事に想像出来る世界ではなかった。(中略)
 手帳をしまって、ぴかぴかに拭き上げられた手元の食卓をちょっと眺めた。早朝着替えに戻ったときに自分が放り出していったはずの新聞や湯飲みを片付け、生ゴミを片付け、ついでにテーブルを拭いていった男は、布巾を絞りながらいったい何を考えていたか―――――――。考えだすと、加納の顔は貴代子に重なり、微妙であったり単純であったりした大学時代からの男二人女一人の年月に重なり、また少し中心を失った位相に落ち込むような脱力感とともに、合田はいつもの当てどない気分にたどり着いていた。別れた女への執着はもうないが、一方でその双子の兄である男の残り香を自分の住まいで嗅ぎながら、俺は何をしているのだ。加納も加納で、いくら十五年来の友人でも、実の妹との結婚を破綻させた男の家へ足を運んできては、何を考えるのだ。どちらも、まるで傷が治るのを恐れるようにつかず離れず、利害はないが、明確な感情があるわけでもない。なぜここにあるのか分からない、さして意味もない、他人の整髪料の匂い一つが苛立たしく、切なかった。(中略)
 明日の葬儀で自分は場内整理係だと、わざわざ書き置いていった男の意図はあえて考えずにおいた。(p.237~240)

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 二百人ほど入れる館内には、黒い頭がほんの五つか六つ散らばっているだけだった。その中に一つ、深く垂れた頭をみつけるやいなや合田は急いで後ろの席に着き、前の座席の方を揺すって「おい」と声を殺した。「こんなところで寝るな」
「ああ、来たか……」と呟いて、加納祐介は欠伸をした。
「まず財布を確かめろ」
「財布は……」加納はダスターコートの胸を探り、「無事だ」と悠長にうなずいた。
 人けのない暗がりに無条件に危険を感じ、暗闇に散っているいくつかの頭が全部スリと痴漢に見えた自分がおかしいのか。昔、加納兄弟と一緒によく来た映画館だが、以前はこんな感じではなかったと合田は思った。昔はスクリーンも明るく、見たのは貴代子の好きなコメディーが多かったが、今スクリーンに映っているのは、モノクロのうっとうしい冬の画面だ。
「ここも変わったな」などと可能は呑気に呟いた。
「ああ……」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「葬儀、どうだった」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
 そんなことを言いながら、加納は前の座席からひょいと、告別式の式次第を印刷したカードを後ろへ差し出した。弔辞を読み上げた関係省庁職員、団体などの名前が並んでいたが、その数は少なく、加納の話では、刑事局長のほかはみな次長級で、弔辞も短かったという。式はことさらに質素で、花輪には献呈者の名前も付かなかった。会葬者以外には誰が参列したのか分からないような配慮がなされたのは、徹底したマスコミ対策だ。遺族は香典も辞退したので、会葬者には会葬御礼のハンカチ一枚が一律に配られただけで、葬儀社側も会葬者の名前は知らず、記帳簿はそのまま遺族の手に渡された。
 加納は、参考までにと言い、参列した役人の主だった顔触れの肩書を淡々と連ねた。合田は後ろの座席で素早くメモを取った。
「故人の風評はどうだ」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない」
「何もなくて殺されるはずがない」
「結論を急ぐな。王子の事件については、法務省も検察もあくまで、一現役検事を被害者とする事案という認識だし、それ以上でも以下でもない。にもかかわらず今日の葬儀はなぜ、あんなふうになったか、分かるか?」
「いや」
「分からなくていい。常識では考えられない口出しをしている者が、法務省の上のほう、ないしは永田町周辺にいるということだからな。その結果、我々検察ははなはだ不本意ながら、組織として常識では考えられない過剰反応をして、わざわざ君らの耳目を集めるというバカをやったというわけだ」
「あんたたちが過剰反応した《上の方》って、誰だ……」
「それは分からん」
 合田は、どこまでも物静かな加納の声を耳に沁み込ませ、ゆっくりと反芻しては、一つ一つ慎重に判断を保留した。ふと我に返ると、その短いひとときは、常に追われ続けている日々の中にあいたエアポケットのようだったが、そういえば加納兄妹と過ごした賑やかな年月の底にあったのは、この静かに満たされていく時間だったのだろうと思うと、場違いと知りつつ、何かしら渾然とした無名苦しさが湧きだしてくるのを止められなかった。これがいやで会わないようにしてきた男なのに、いざとなればネタが欲しい一心ですり寄っていく自分が切なかった。あるいは、大事なネタの話をしている最中にふと脱線して、一人の男のことを無性に考えていたりする自分が。
「ともかく《上の方》の横やりが、あまり世間に騒がれたくないという程度の動機だとしたら、一番ありそうなのはご大層な縁戚関係か閨閥。もしくはその式次第にある、法曹界や大学OBのネットワークとか……」加納は言った。告別式の式次第には、暁成大学法学部同窓会、同大学蛍雪山岳会OB会などの肩書が並んでいた。斎場周辺で七係が把握した会葬者のうち、素性不明のスーツ姿の男たちの大半は、出身校の同窓会関係者だったようだった。
「ただし、同窓会はまずい。そこは日弁連会長や霞ヶ関の住人がいろいろ揃っている。当たるんなら、山岳会のほうが安全だと思うが、そこも事前に勤め先を調べてからにしろ」
「松井浩司は山に登っていたのか……。遺体は日焼けしてなかったが」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
 加納は、自分の座席の背にのっている合田の手をつつき、微笑んだ。その加納の手も白かった。ともに山歩きで真っ黒になっていたころ、夜に大学の守衛に泥棒と間違われ、学生証を見せたら、写真と顔が違うと言われたのはもう遠い話だった。
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「ああ。新宿と上野で外国人の殺し合いが五件。盆休みも取られへんかった」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「疲れてるんやろ。つい出てしまう」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「やめてくれ、アホ」
「本、読んでるか」
「ああ。ぼつぼつ……」
「なあ、正月に穂高へ行かないか。二人で……」
「穂高のどこへ……」
「北鎌尾根から槍ヶ岳。前穂北尾根でもいい」
 加納はスクリーンの方へ向けたままの顔を動かそうともしなかったが、少しトーンの上がったその声から、ちょっと顔を緩ませているのが分かった。学生時代からずっと、年に数回は加納と二人で山へ登ってきた年月も自分の離婚とともに終わり、二度と一緒に歩くことはないと合田は思ってきたのだったが、閉ざしていた扉を再び軽々としなやかに開けてみせたのは、今回もやはり加納の方だった。春からそれとなく周到に機会を窺っていたか、それともたった今思いついたのか、どちらにしろこの男には自分の裸の心を覗かれている、この自分自身がそれを許している、と認めざるを得なかった。
「ええな……。北鎌か……」と合田は呟いた。
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「俺は二年ぶりやな……。ザイル、腐ってるわ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ああ」
「ところで、会葬者の記帳簿だが、警察は最低限遺族と交渉する権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、本心は複雑なはずだ。俺なら何とかして当たってみるが」
「そのつもりだ」と合田は答えた。
「気をつけろ。深追いはするな」
「ああ」
 前の座席から、加納は後ろ向きに手だけ出してきた。合田はそれを握り、席を立った。「居眠りするな」と声をかけると、「心配するな」と加納は応えた。
 帰り道、合田はどこかのショーウィンドーに映った自分の顔を見た。変わりばえしない自分の顔だったが、個人生活の範疇にいる一人の男と会っていた短いひとときの間は、たしかに何かの覆いが一枚剥がれていたような面はゆい感じだったと思った。(p.251~256)

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八日未明の王子署の裏口で、合田が一検事と交わした一瞬の目線を見逃しはしなかった男だ。いざとなれば、それをネタにあれこれつついてくる気だと見て取ったとたん、入手先を伏せて仲間には見せようと考えていた告別式の式次第は、合田のポケットの中で再度日の目を見る機会を失った。そのとき、合田の中で数秒の葛藤はあったが、どこまでも職務の世界に、元義兄を含めた私生活の人間関係を持ち込むのはいやだという思いが、あらためて噴き出したのだった。(p.273)

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 貴代子は、双子の兄祐介と理想主義の骨を分かち合って生まれてきたような女だったが、その頭脳は兄以上に浮世離れしており、当時は東大理学部の研究室で量子論の博士論文を準備していた時期だった。(中略)
兄の加納祐介も、六十年の春の異動で大阪地検から福井へ飛ばされ、以来地方を転々とした後、東京へ戻ってくるのに七年かかった。しかしそれについて本人は一度も触れることはなく、合田に宛てた手紙ではただ、貴代子を責めてくれるなと折にふれて懇願してきただけだった。誰が悪かったのか、何がほんとうの原因だったのかという自問は、そうして今もそれぞれの胸のうちにしまわれたままになっている。(中略)
最終的に妻より警察を取った自分という人間への憎悪や自嘲を、『アカ』という言葉で他人から突きつけられる不快も、結局のところ、どこか快感と紙一重の隠微さなのであり、たとえば加納祐介もそれを知っているから沈黙するのだ。(p.281~283)

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 合田はちょっと考えてみる。十九の夏、大学の図書館で知り合った加納祐介に誘われて初めて登った夏の穂高に始まり、去年夏に最後に独りで縦走した奥秩父まで。貴代子と離婚するまで夏も冬もいつも加納と二人で登り続けた日々は、ひたすら長閑に浮世離れしていたような記憶だけが残っているのだったが、あの世界は狭かったのか、広かったのか。あるいは、加納兄妹と疎遠になってから独りで近場の山を歩き続けてきた日々は、いったい閉じていたのか、開かれていたのか。(p.339~340)

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「地検の方です。そうそう、加納祐介検事にはお世話になってますよ。虫も殺さぬような端正な顔をして、六法全書が服を着て歩いているようなあの細密主義はなかなか潔い。今はちょうど国税が告訴に踏み切ったある法人の、会計処理の解釈でもめてましてね。加納検事は六十からある関連子会社の帳簿を全部見るまでは起訴に慎重なんで、私ら新聞もお預けを食らってる状況でして。……ほら、ちょっと歩きましょうか」
 立ち話は目立つとでもいうふうに根来という記者はぶらりと歩き出したが、その用心深い目配りは、指したり指されたりの検察社会の暗闘を長年覗いてきたら人間はこうなるという見本のようだった。一方合田は、思わぬところで見知らぬ人間から元義兄の名前を聞かさせる戸惑いと、この地検詰めの記者から何か聞けるかも知れないという期待の間で一旦は逡巡したものの、つい後者の方へ気持ちが傾くのを止められなかった。(中略)
 九日夜、池袋の映画館で元義兄に告別式の式次第を渡した加納祐介にも、何かの深謀遠慮があったのだろうか。合田は一瞬考えてみたが、あり得るともあり得ないとも言えなかった。昔ならあり得ないと断言出来たが、長い疎遠の月日を経てこの春にやっと少し取り戻したと思っていた互いの距離も、実はさほど近いものではなかったのかとあらためて考えもした。
 合田が黙っていると、根来は続けて「そういえば最近、どこかで加納検事にお会いになりましたか」と尋ねてきた。合田は即座に「いいえ」と応えた。
「そうですか。加納検事には警察に身内がいるから、リークはそこら辺りからだろうと言う声も耳に入ってきてますよ。あくまでそういう声もあるというだけの話ですが。ご本人にその話をしたら、自分ならもっとマシな話をでっち上げると笑っておられましたけど」(中略)
 池袋の映画館で加納祐介が一捜査員に渡した告別式の式次第は、九日夜の時点では確かにある種のリークだったが、地検の一部で蛍雪山岳会というキーワードが持っていた何らかの意味を承知の上で、加納はたんに警察の捜査を不当に妨げるような情報操作をよしとしなかっただけだろう。地検の一部がやっているリークをリークで牽制し、警察に情報を握らせることによって、警察の捜査への不当圧力を排除しようとしただけだろう。そして加納は当然、今日のような事態に至る何かの鬼門がそこに潜んでいることを、今日まで知らなかったのだ。(中略)
「四、五年前に加納検事が京都地検におられたころに言っておられた。その話も内部の潰し合いの一端だったようですが、山の話で地検内部に不正な事件処理があったと……。今回、蛍雪山岳会の名前が地検の中で流布しているのは、ひょっとしたらその関係化と思ったんですが、ご存じないですか」(中略)
 だいいち、七日の王子の事件発生当初から介入してきた地検が、一部の報道関係者に蛍雪山岳会の名をリークしたのが九日。一方、合田がその名を同じく地検の元義兄から聞いたのは九日夜。(中略)
そしてたぶん、加納祐介もそこまでは知らなかったのだと合田は再度自分に言い聞かせて、元義兄でもあった男については、それ以上考えるのを自分に禁じた。(中略)
 午前四時前、着替えのためだけに赤羽台の団地の自宅に戻り、扉を開けたとき、頭のどこかで予想はしていた通り、空気の中にいつもの微香が残されており、当の加納が少し前までいたのだと分かった。食卓に折り込み広告の紙が一枚載っていて、そこには普段より少し堅さの窺える字でこうあった。
『高島平の一報を聞いて取り急ぎ駆けつけた。(中略。セリフ集を参照してください)』
(中略)そして、加納が京都時代の平成元年に蛍雪山岳会の名簿を入手していたというくだり。根来には白を切ったが、確かに平成二年ごろ、加納が京都からよこした手紙には南アルプスの白骨死体の復顔が云々と書いてあり、々事件の話はついこの間も、かの老受刑者が再審請求を出したという書き置きの文面で触れられていたのだった。もはや、今回の地検の口出しは王子の被害者が法務省官僚だからといった次元の話でなく、もう何年も前から伸びていた地下茎に早々と気づいた結果だという憶測が成り立つところまで来たということだった。また、さらに言えば、九日の時点で蛍雪山岳会を『松井某の一般的な鑑の範囲と考えていた』という加納は、この件の情報に関してはむしろ内部で遅れを取っていたということだろう。元義兄について、そうして三度個人的な感情や疑念を押し退けてみた後、合田の刑事の頭には《山の話》が残った。平成元年の時点ですでに、山岳会の名簿を入手してまで地検が関心を寄せていた《山の話》―――――――。
 合田はその場で押入れを開け、自分宛の古い私信をしばし手当たり次第にひっくり返し、ひっくり返しした。地方勤務の間、ときどき加納が書きよこした手紙はどれもこれも浮世離れした本の話、身近で見聞きした滑稽な人物評、ヒマに任せて訪ね歩いた郷土の旧跡などの話に尽き、実妹貴代子の思想偏向を問われて地検で不遇をかこつ我が身を茶化して恬淡としている印象があるばかりだったが、大事な話をそうだとは言わない検事の習性で、たぶんに日常を装っていたのかも知れない。多くは読み飛ばしただけだったそれらの手紙の中に、南アルプスの白骨死体のほかにも《山の話》はなかったか。どこかの山岳会や暁成大学の話はなかったか―――――――。何もかもがあったかも知れないし、なかったかも知れない。渾然とした記憶の霧の中だった。見たり聞いたりしたのが自分だったのか、手紙の中の男だったのかもときどき分からなくなる。(中略)
それからまた元義兄の私信を当てもなく探し続け、手元がかすかに明るくなり始めているのに気づいて顔を上げると、壁の時計はすでに午前五時過ぎだった。合田は僅かに白んでいくベランダの外の空を仰ぎ、今頃森義孝ははち切れそうな昏い抱負を腹に抱いてもう始発電車に乗っている、とぼんやり考えた。加納祐介は世田谷の官舎で眠れぬ夜を明かし、山のような懸案に占領された頭の片隅で、元義弟のアパートで折り込み広告の裏にしたためた中途半端な文言のことを考えている。そして、片やその元義弟は寝室の畳一杯に古い手紙を散らかしたまま、欠伸の一つも出口を失ったような脳髄の痛みをしんしんと感じているのだ、と。どんな事件も所詮は他人の時間であり、森のように常に強烈な意思力で突進し続けない限り、一刑事や一検事にあるのは自分のものでさえない宙吊りの時間だけだった。(p.353~366)

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