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マークスの山(文庫)

『拝啓 虚礼だとは思わぬが、怠惰につき賀状を失礼させていただいた』『先日、頭蓋骨から復顔された顔写真なるものを見る機会があった』『……あれは実に醜悪だった。そもそも土に還った肉体の復元などというものは、モンタージュ写真とは完全に別種のものだと思う。あの生々しい凹凸のある粘土の顔を前にしたら、誰しもおのれの知力に危機感を覚えるだろう。目前で形になっているばかりに、あの似て非なる別物が、あたかも本物のように思えてくるのは、これこそ人知の限界というやつだ。
 しかし、巷にはもっと醜悪な話がある。小生があるところから聞き及んだところでは、あの青年が行方不明になった直後に、こちらの公安当局は青年が南アルプス方面に出かけたことを掴んでいたということだ。それについて、当時は関係各警察への連絡も本格的な捜索も行われなかった。これは明らかに人知の限界内の話だ。事情の如何にかかわらず、このようなことはあってはならない。
 ともかく、かような話を耳にするにつけ、小生の若白髪はまた数本増えたような気がするが、君の方はいかがお過ごしか……』(上p.105~106)

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《雄一郎殿
 小生のアイロンが火をふいたので、君のを借りに来た。官舎では、こういう生活道具の貸し借りはしたくないのだ。ついでに黒ネクタイも一本拝借した。
 お察しのことと思うが、今夜は故松井某の通夜、明日は本葬があるため、小生は一日青山斎場に詰めている。故人の関係省庁だけで二百人程度の会葬者が予定されている。小生は場内整理係だ。
 昨夜、王子署に出向いたので、事件について多少の話は聞き及んでいる。小生で役に立つことがあれば言ってくれ。なお、蛇足ながら一昨日久しぶりに貴代子から電話があった。ボストンの水が合っているそうだ。君も元気だと伝えておいた。 加納祐介》
《そうそう……》《山梨の友人から入手したニュースを一つ。三年前に白骨死体の復顔写真が手配された事件で、有罪が確定して服役中の老人が、地裁に再審請求を出してきたそうだ。刑訴法第四三五条の六号による請求だと聞くが、新規に反証となる証拠が出てきたのかどうか。検察の立場から言うとはなはだ不快だが、公判記録を閲覧した限りでは、証拠や自白の整合性に問題があったと言わざるをえない事件であったので、成り行きを注目している》(上p.237~238)

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「ああ、来たか……」
「財布は……」「無事だ」
「ここも変わったな」
「ネクタイ、助かった。クリーニングして返すよ」
「知らない人の葬式は悲しくならないのが困る」
「弔辞では型通りのことしか言わないからな……。しかし、真面目一方の人物だったというのは多分事実だろう。刑事局の内部でも、とくに問題があったという話は聞かない」
「結論を急ぐな。王子の事件については、法務省も検察もあくまで、一現役検事を被害者とする事案という認識だし、それ以上でも以下でもない。にもかかわらず今日の葬儀はなぜ、あんなふうになったか。分かるか」
「分からなくていい。常識では考えられない口出しをしている者が、法務省の上の方、ないしは永田町周辺にいるということだからな。その結果、我々検察ははなはだ不本意ながら、組織として常識では考えられない過剰反応をして、わざわざ君らの耳目を集めるというバカをやったというわけだ」
「それは分からん」
「ともかく《上の方》の横やりが、あまり世間に騒がれたくないという程度の動機だとしたら、一番ありそうなのはご大層な縁戚関係か閨閥。もしくはその式次第にある、法曹界や大学OBのネットワークとか……」
「ただし、同窓会はまずい。そこは日弁連会長や霞ヶ関の住人がいろいろ揃っている。当たるんなら、山岳会のほうが安全だと思うが、そこも事前に勤め先を調べてからにしろ」
「昔の話だろう。お前だって今はなんだ、この手は……」
「雄一郎。今年の夏は、山には行かなかったのか」
「あ、大阪の言葉……久しぶりに聞いたな」
「雄一郎の大阪言葉、いいぞ。もっと使え」
「本、読んでるか」
「なあ、正月に穂高へ行かないか。二人で……」
「北鎌尾根から槍ヶ岳。前穂北尾根でもいい」
「俺は三月に登った。雪が固くしまっていて雪崩もなかった。よかったぞ」
「十二月の土日に、南アルプスで足馴らしをしよう。正月休み、必ず取れよ」
「ところで会葬者の記帳簿だが、警察は最低限遺族と交渉する権利はある。遺族は、あちこちからマスコミに騒がれないよう釘を刺されていると思うが、本心は複雑なはずだ。俺なら何とかして当たってみるが」
「気をつけろ。深追いはするな」
「心配するな」(上p.251~256)

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『高島平の一報を聞いて取り急ぎ駆けつけた。
 君にはまず小生の不注意を詫びなければならない。九日の時点で小生は、例の山岳会について松井某の一般的な鑑の範囲と考えていたが、高島平の一軒を知り、そうとは限らないことに気づかされた。部内で聞こえてくる話の範囲では、被害者となった捜査員は十二日午後八時過ぎ、地検が別件で内偵中のS宅を訪ねているが、ほかにも正午に暁成大学事務局を訪問していた由。面会した相手・用件等は不明ながら、同山岳会OBには同大学理事長Kが含まれる。蛇足とは思うが、Kの妻は宮家出身。同日午後二時には同事務局から桜田門に苦情の一報が入ったというから、この件は要注意と思う。
 なお、小生が平成元年に京都で入手した昭和六十三年版蛍雪山岳会会員名簿がある。十三日午前七時、東京駅十二番線キヨスクの前で待つ』(上p.362~363)

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「お早う」
「可笑しいな。なんでこんなふうなんだろう」
「俺も、蛍雪山岳会の名簿がこんなところで日の目を見るとは思わなかった。平成二年の年明けに君に手紙を書いただろう?前の年の夏に北岳で発見された白骨死体の身元が割れて、それが暁成大学の出身者だった。野村某という名前だったと思うが……」
「野村を殺したという男が出てきたのが平成元年夏。殺害が昭和五十一年ごろ。しかしその時点で、野村に関する遭難や事故死の届けは出ていなかった。野村が仮に単独行だったとすれば、北岳にひとりで登る初心者はいないから、どこかの山岳会に入っていた可能性がある。それで、いくつか山岳会を当たったときに暁成大学の山岳会の名簿も入手した。当時、野村には鑑がなくて、生前の足取りが掴めたなかったものだから、とりあえず山の仲間を探したんだ。結局、一人も見つからなかったが」
「いろいろ耳に入ってきたからだ。野村という男の身辺がきれいとは言いがたかったのが一つ。実は単独行ではなかったという話もあったのが一つ……」
「だから調べたんだ」
「平成元年に甲府地検が被疑者を起訴したとき、野村に関する昭和五十年前後の京都府警の調書一式が行方不明になっていた。野村はそのころ京都で左翼団体の活動をしていて、公正証書原本不実記載とか私文書偽造とかで逮捕歴がある。そのときの調書が消えたんだ。たぶん、そこには野村の鑑がいろいろ書かれていたはずだから、もしその調書があったら、事件は岩田とかいう被疑者を起訴して終わり、というふうにはならなかったかもな」
「ともかく、北岳の事件と今回の君らの事件は関係ないと思うが、圧力のかかり方が何となく平成元年のときと似ている感じがする」「本来問題があるはずのない資料がなかなか出てこないこととか、大学事務局を刑事が訪ねただけで過剰な反応があることとか……」
「そうかも知れない。高島平の事件を聞いてちょっと感情的になったんだろう」
「一応、梳かしてきたんだけどな」
「少し時間をおいた方がいい。その調書もどこかが押さえているかも知れないから」
「《S》と《K》には印をつけておいたから、へたに嗅ぎ回るな」
(合田の回想)「何となく似ている」(下p.11~15)

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「今日は官舎の秋祭りでな。うるさくていられないから来たよ」
「この間、君の留守番電話を聞いた」
「時間があるんなら、一風呂浴びるか?すぐに沸かそう」
(「こんな話がある」)
「山とはなんだろうな……」
「へえ。登山の約束、覚えてたか」
「無理だけはするな」(下p.329~332)

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