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無垢(2)

 部屋に戻ると合田はまっすぐに風呂場へ向かって湯を張り、コートを脱ぐなりキッチンに立つ加納に「まずあったまってこい」と声をかけて六畳間へ下がった。バイオリンを元の位置に戻しながらふと、これからもこのたった一人の聴衆のために拙い演奏を披露することがあるのだろうか、そのたびに加納は自分こそが合田にとって唯一の聴き手であることに歓喜するのだろうか、と考えてみた。だが、いちいち感極まって肩を抱かれるのは勘弁願いたい。今夜は、傷を負った義弟がささやかな日常を取り戻していることに安堵しての悦びが溢れただけだと信じて見逃したが。
 一度加納は六畳間に入ってきたが、勝手に箪笥から適当な着替えをつかむとまたすぐ出て行き、風呂場へ姿を消した。ぽつねんと畳の上に座り込んで、合田はなおも考え込んでいた。
 刑事として許されぬ一目惚れの恋に狂った夏、事件も終わってなお悩み深い合田に、入院中の女を見舞えと鼓舞したのは他ならぬ加納だった。いつも自分より遥か上手から泰然と構えているあいつはあの頃どんな思いであの手紙を寄越したのだろうか。いつもの涼やかな表情の内側で、誰にも知りえぬ激情を燃え盛らせていたのか。それとも何らかの諦めの境地を見たか。
 この冬、義弟が男と道連れに生を終えようとさえしたときは、さすがに涼しい仮面をかなぐり捨て、激情を迸らせて泣いたか。俺を放っていくなとすがったか。
 思えば、あの赤い目、怒りの表情、眠りを切り裂いた言葉、そういったものから合田は「ああ、こいつは俺に惚れてたのか」と感じたのだが、当然、かつては義兄弟でもあった長年の友人としての好意と捉えてもなんら不思議はないものたちでもあった。もし友人としての好意なら、自分の決意は路頭に迷う。単なる好意を愛情と錯覚する俺の方こそ惚れていたというなら愕然とするほかない。
 退院まで一度も病室を見舞わなかったただ一点が、いつもの加納と自分の距離から考えると異常な一点でもあった。せっせと仕事の合間を縫って洗濯をし、着替えと郵便物を運び、軽い世間話のひとつも交わして病室に清潔な空気を残していく、それが加納らしさではないか。退院してきたその日、しっかり部屋の掃除が行き届いていたように、義弟の世話を焼くことこそあの男らしい接し方のひとつではなかったか。強いて言うなれば、泣き腫らした目を合田に焼き付けてのち一度も見舞わなかったこの異常こそが、合田に「やっぱりあいつは惚れている」と確信させるに至ったといえよう。
 だが。ふと合田は考えてみる。手紙を投函したのが22日。翌23日は祝日で郵便配達がないから、おそらく加納は今夜になって手紙を読んだはずだ。
 スーツ姿からして、一旦帰宅してそのまま、大急ぎでこちらへ来た、そういうことにほかならない。
 あいつも怒りをぶちまけて以降、どう再会したものかと悩んだに違いないが、今夜の約束を今夜知って大慌てで駆けつけた、その想像が合田の胸を狂おしいまでに弾ませた。
 風呂を終えた加納を目の端で見届けて合田も湯を使った。束の間公園へ出ただけでも体は芯まで冷えており、肌に添う満ちた湯はこの上なく滑らかな抱擁だった。
 ざっと短い髪を拭きあげてキッチンへ入ると、煮えたぎる土鍋がテーブルのど真ん中に居座っていた。クリスマスらしくはないが、大の男二人でつつくには最高の食事、湯気の立つ鍋が一瞬合田の神経を戸惑わせた。
「ちょうどいい頃合だ」
 加納はなんとも無邪気な笑顔を弾けさせて合田を迎えた。
 こいつも結局は仕事に疲弊し、組織や人間に疲弊し、毎日に倦み、その実ひとりの男に焦がれてこんな鍋ひとつ囲んで寛ぐ夜を想像してはその楽しみを糧に日々を生きているのだろうか。そんなことを思うと一瞬、切なさに合田は胸が苦しくなるのだった。
「うまそうや」
 合田は笑顔を綻ばせながら席に着いた。火が通り、程よく脂がにじみ出ている鶏肉。青々とした葱、水菜、対照的に透明な白菜、艶やかな白を輝かせる豆腐。ぬるりと光沢を示して食われる瞬間を待つのみのキノコたち。肉とともに放り込んだらしい鱈はすでに鍋の中で身がほぐれつつある。
 合田の取り皿に加納は次々と具を放り込んでは「火傷しないように食えよ」などと言う。
「お前こそもっと食え」
 箸の進まぬ様子を気遣って合田がそう言うと、加納はまたも涼しげな微笑でもって「胸がいっぱいだ」などとのたまう。
 義弟の生還がさほど嬉しいか?
 それとも長年片恋を寄せてきた相手が自分を受け入れつつある様に涙が溢れそうか?
 いや、そんな野暮な問いは今ここでまったく不要だろう。答えは加納のみぞ知る、深いところにあるのだろうから。複雑なのか単純なのか、それすらもはや合田の想像の範疇を超えているに違いないのだから。
 合田が二杯のビールを空けてのちウイスキーに切り替えながら「鍋とは合わへん」などとひとりごちるのに、優しい笑みで「医者から酒は止められていないのか。もうすっかり普通の生活ができるのか」と至極当然なことを問いかける加納であった。まめに合田の世話を焼いてきた以前の加納ならば、退院後の注意点について病院で聞いてきたはずだ。それをしていないということは、入院中の一切を日常から切り離し、自分と関わりを絶つことで平静を保ってきたのだろうか、などと合田はちょっと考えたが、怒りと悲しみと様々な感情の混乱の中にいたであろう加納を思えば、もはやほじくり返すべき過去でないことは明らかだった。
「風呂は気いつけろて言われた。酒は特別何も」
 そう応えながら合田はくいとグラスを呷った。酒を飲まずにこの隠微な空気をやりきれるものか、と密かに加納を罵りながら。
 鍋がほぼ空になると加納はうどんを放り込んで煮込みうどんをこしらえ、大阪出の合田に何やら懐かしいような、振り返りたくないような、やはり嬉しいような、そんな思いを喚起させた。当の加納もウイスキーを啜っており、鍋にはやはり日本酒なんだろうな、などと程よく中年に差し掛かりつつある男らしいひとことを漏らしたりもした。
「腹が一杯で傷が裂けそうや」
 と言ったのはごく軽い冗談のつもりだったが、合田の意に反して加納は一瞬眉をひそめて合田に見入り、翳のある奥行きを目にたたえながら「そんな冗談は好まない」と言い捨てた。
「軽口を叩けるくらい元気になったと思えばええ」と合田はあしらった。しかしそれも嘘ではなかった。事実今の自分は、半田にラブレターを夜毎書いていた日々も、ようやく逢瀬かなった瞬間刺された夜も、すべてが夢のようで、ただ怒りにまかせて「俺を置いて死ぬ気だったのか」と言い置いた加納の目だけが切実に胸に迫ってくるのだった。あのとき、俺の世界は変わった。きっと俺は生まれ変わった。無気力な毎日から這い上がる強さを、手にしたのだ。
「ベッドで休んでいろ」と言われるがまま、合田は六畳間のベッドに転がりながら、後片付けをしている加納の発する几帳面そうな物音に耳をそばだてていた。
 俺は、貴代子にどんな言葉でプロポーズしたっけ、と考えるのだが一向思い出せない。第一、初めて関係を持ったこの加納――貴代子と瓜二つの双子の兄――のベッドですら、一切甘い言葉をかけてやれず、肉欲の赴くままだった自分だ、おそらくろくな言葉を紡げず、勢いで結婚したのだろう。片や新米警察官、片や学生という身分のくせに。今もまた、言葉などいらない瞬間なのだ。ただし、盲目的な情熱に支配されていたあの頃の貴代子と自分とは違い、加納には十数年の鬱積があり、自分には出口のない彷徨があり、それらを経た互いの間には今まさに静かに燃えあがらんとする情念の炎があった。
 今までのとおり合鍵で合田の懐へ入り込んできた加納、バイオリンを聴かせろとせがみ、そんなわがままが自分にだけは叶うのだと信じている加納、それを許している自分の間に、なんの言葉が要ろうか。加納は早くから自分の思いに気付いて森をさまよい、今、俺もまたともにその森を歩もうとしているだけなのだ。先にあいつが茂みの中に道を作り、俺は追いかけ、また加納が導き。
 いい、そんなことは構わへん。どっちが先に惚れたとか、どっちの方がより多く愛してるとか、そんなものは幼い男女の間で交わしておればいい。俺たちには俺たちの形がある。友人として、義兄弟として関係を続けてきた俺たちにしか築けない様々な感情を包括した何かが。
 ふっと視界がかげり、加納が自分の顔を覗き込んでいるのを認めた合田は「片付いたか」と横柄に言って身を起こした。加納はベッドの脇にあぐらを組んで落ち着いた。その穏やかな佇まいは、禅家のように他を寄せ付けぬ静けさに覆われていた。
「考えごとしてた」と合田が言えば、加納はさっぱりと笑って「どうせくだらんことだろう」と決めつけた。
 どこからそんな余裕が湧くねん、畜生!
 合田は声もなく加納に枕を投げつけ、加納は驚きもせずそれを受け止めた。
「暴れるな。傷が開くぞ」と枕を返されて、合田はスウェットの上から腹をなでた。一生消えない傷痕。きっと一生加納を悩ませ続けるある種の恋の結末。
「おい検事様、半田は精神でひっかかる可能性大か」
 合田が訊ねると、加納は間を置かず「刑事の勘がそうだと言うならそうだろう」と応えた。
「俺はキチガイを必死の形相で追いかけてたんか、救いがないな」と合田は笑い、加納も仕方のない奴だとばかりため息のオマケをつけながら軽やかに笑った。
「傷、見るか?」
 加納は瞬間、ちらりと光をたたえた力強い眼差しを見せ、こっくりとうなずいた。
 合田はスウェットの上着をめくりながら「絶対触るな、まだあかん」と断りを入れた。まだ駄目だというのが、傷としてまだ駄目なのか、男を受け入れる決心がつかないという意味なのか、合田自身にもわからなかった。
 縫合の跡はおよそ十八センチに及び、綺麗に閉じられて不自然な盛り上がりも歪みもないものの、やはり生々しく加納の目に飛び込んだはずだった。ちょっと引っ張れば破れそうな肉の綴じ目、男の渾身の力でナイフを突き刺された腹の切り口。果物ナイフによる損傷にしては大きい。それだけ、執拗に追い詰めてきた合田への愛憎も大きかったということか。渾身の一刺しの後なお、力をナイフにこめて体を下げていけば切り口は広がる。その間、合田が口にした言葉が唯一「ゆうすけ」だったことを「ゆうすけ」が知ることは永遠にない。
「俺、いっぱい血を流したらしいな。一緒に、いろんなもん捨てた。たぶん、俺は生まれ変わった。そうでないと、救われへん哀れな奴が、一人、おる」
 呟きながら合田は照れくさそうに微笑んで加納を見つめた。そのはにかんだ笑みがどんな言葉よりも雄弁に合田の気持ちを表していた。
「救われない奴、か。そうでもないぞ」
 いたずらっぽく笑って、加納はふいに顔を腹に近づけ、一瞬のうちに軽く傷痕に口付けた。
「触るな言うたやろうが!」
 驚きと恥ずかしさに爆発した合田が怒鳴れば、振ってきた拳を避けながらも加納はますますしてやったりの満足な笑み。
 貴代子、お前に見えるか、兄貴のこの会心の笑みが。愉悦の笑みが。
 お前はもう知っているか、肉体でなく魂で結ばれる一対の人間の有様というものを。俺が示してやれなかったものを。俺は今、見えつつあるぞ――。

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