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無垢(1)

 退院から丸2日が経ってようやく無事に帰宅した実感を覚えながら、合田はベッドに寝転んで天井を睨みつけていた。くっきりと木目一筋まで数えられそうなくせに、時折全体がぼやける中から節を目玉とする怪物が歪んだ風船のように膨らんで目前に迫り来て背がぞわりとするときもある。そんな時間をすごしながら考えていたのは今後の身の置き場についてだった。職場復帰は年明けを予定しているが、そこではどんな人事が待っていることやらまだ知らされていない。もはや七係への復職は絶望的だろうとしか予測が立たない。もちろん、一旦は戻る大森署にもいまさら腰を落ち着ける席などない。
 なにせ、社会的関心を莫大に買ったLJ事件に妄執のあまり、犯人一味で現職刑事である男に独断で近づいて刺されたのだから、上もさぞかしはらわた煮えくり返っていよう。「とんでもないことをしてくれた」と。
 刺した半田は間違いなく進んでLJ関与の供述をしているはずだが、どうやらイカレた奴がイカレた犯行に突如及んだもの、とLJとの関連は一切無視を決め込んでいる捜査本部。標的になった合田がなぜそこにいたのか、それも関心は買うものの、表面上は嘘くさいいたわりの目と言葉で満ちていた。
 一度だけ病室に見舞いに来た一課長は「何も案じるな」とだけ言うと、座る時間も惜しいとばかりそそくさと立ち去ってしまった。一体この組織のどこを、誰を信じ、安心しろというのか。犯人をそそのかし、挙句生死をさまよう深手を負った俺の居場所などどこに求めよというのか。合田にとって、もう一つの懸案とともに離れぬ自問であった。
 数か月ぶりの自宅のベッドは、シーツもまっさらに変えてあり換気もしてあったようで空気もさっぱりと居心地がよかった。
 死ぬ覚悟で始末していた部屋で、あの男は立ちすくんだろう。それでも気丈にこうやって部屋を改めてくれていたことに合田は苦しくなる。
 あいつ、ついに見舞いには一度も来んかったな。あんな泣き顔だけ見せ付けておいて。退院の日取りはどこかから聞き及んだのか、それとも病室へ来なかっただけで主治医や看護師から経過は聞いていたのか。とにかく部屋は主を迎えるために最上に整えられていた。

 合田は目が覚めると、あいつから何か言ってくるかと日がな電話を気にして過ごしたが、徒労だった。リハビリのために腹筋でもと思ったらたったの一回で断念した。傷口が裂けたかと思うほどの痛みに、思わずセーターをまくって腹を見た。もちろん、縫合の跡はきれいそのものだった。
 ちくしょう、俺は何をやってるんだ。
 合田はたまらなく苛苛が募った。
 一方で、ふふんと鼻で笑う自分がいた。あいつの声が聞こえなくて、顔が見えなくて、そんなに寂しいのか。どこまでも自嘲的な暗い笑みだった。
 電話ひとつ鳴らない。玄関のチャイムも鳴らない。
 まだ仕事中だろう、仕方ないだろうと思う一方で、電話の一本くらいせめて、と考えて、挙句、わざと連絡を寄越さないのではなどと考え始めると止まらなかった。忙殺されるほどの仕事なら許そう。何か思うところあって俺を避けるようなことは、絶対に許さん。あんたにはそんな卑小な逃避は似合わん。俺のほうから追いかけてやるまでだ。合田はとにかくひとつ、自分の感情に約束をしてなだめた。
 日がほとんど落ちた頃、気分転換がてら自転車に乗ってみたら、存外体のどこも痛くなく、平気だった。たった一回の腹筋がこたえたのは気のせいだったのかと思うほど足は軽快にペダルを踏み続けた。教会へ行こうかとも考えたが、きっと子どもたちも集まっているであろう楽しい空気を壊してしまうだけだと思いとどまり、クリスマス一色の浮ついた街をぶらぶらし、一駅隣までたどり着いたところでUターンした。今夜はバイオリン三昧だ、クリスマスの夜を俺がちょっと味付けしてやろうじゃないか。そんな自虐性すらその頃には生まれていた。
 自転車とともにエレベーターに乗り込み、やや乱暴に部屋の脇の共有スペースに自転車を停めると当然のごとく人気などない、誰も待たぬ部屋に戻った。いやに寒々としているのは冬の気候のせいか、それとも一人が詫びしいがゆえか。後者なら涙も出ぬほどあてどない感情の始末にどうしようもなく落胆するほかない。
 入院中に届いた郵便物は退院前に分別しておいて必要なものは昨夜のうちにすべて目を通したのだが、DMとして選り分けていた女名の封書を、合田は改めて手にした。昨日は、開けるまでもない、どこぞで住所と名前を手に入れたいかがわしい手紙、例えば、新店オープンを告げるキャバ嬢のピンクの便箋でも大方のところだろうと気にも留めなかったのだが、今日なにげなく隣の駅まで自転車で出てみてふとよぎったことがあった。そうだ、俺は数か月前、ひとりの男にまるで惚れこんだように毎夜毎夜、時間を割き神経を尖らせ、手紙を書いていた。私生活を監視するために奴のアパートにも何度出向いたか。俺の身体はこの道を嫌と言うほど知っている――。あいつの女房、俺を刺して後離婚が成立したらしいが、彼女の名は何といったか。
 手紙を開封する気になったのは、改めて「この部屋の主を知る女はいない、まして手紙を送りつける酔狂な奴など」という結論に至ったのと、ではこの差出人はどうして正確に自分の名と住所を知りえたか、つまり誰なのかということに推測をつけたからだ。
 警察の守秘義務など、女の感情、それも夫が切りつけた現職刑事への義理と申し訳なさ、一方でやはり現職刑事たる夫の未来、同時に自分の未来を瞬時に奪っていったことへのとてつもない憎悪、それらに凝り固まった者の前にはもろかったというのか。もはや、誰が合田の住所を漏らしたかなど問題ではなかった。
 合田は白いそっけない封書、なぜこれをキャバ嬢からのDMと疑わなかった自分がいるのかと馬鹿馬鹿しくなるほど簡素で真っ白なそれを、開封した。おそらく加納の耳に届いているであろう、毎日自分が送り続けたラブレターの一件。義弟が道ならぬ恋に身を焦がしていたことにもだえ、憤怒し嫉妬も覚えたか、などとまるきり手紙からかけ離れた方向へ思い馳せながら。
「前略。
 このたび、修平の不始末のために怪我をされ、休職されている由、聞き及んで胸苦しく思う次第でございます。ただひたすら、夫の神経の変化に気付かずにいた己の愚かさに恥じ入るばかりです。私に今回の事態が防ぎえたか。その疑問については否とお答えするほかなく、まして正式に離婚した今となってはますます謝罪も償いも遠きものとなりましたことを、知らせる次第でございます。ご回復と無事の復職を願ってやみません」
 夫の不始末を詫びるでなし、自分はまったく無関係だと切って割り責任を回避する一文が短く記されているのみだった。もちろん合田が、半田の妻からの謝罪など求めるはずはなく、この手紙はまったく無用に女の身勝手をさらしているだけだった。
 身勝手。夫の前代未聞の事件とともに離婚し、去った女も身勝手なら、捜査から逸脱し刺傷沙汰を引き起こした自分もまた、身勝手の化身。思いがけず好意を認識した相手が姿を見せぬことにひとり焦燥を覚え、狼狽と苛立ちに身を震わせる己もまた。
 合田はキッチンに立つとコンロの火を点け、手紙を燃やした。はらはらと黒い灰になって軽く空中に舞い散るそれを眺め、今の俺もまた、この手紙と同じく行き場がなく、灰と同じく身軽なのだ、と思った。
 六畳間からバイオリンを持ち出し、公園に出ようと上着を羽織ったときだった。
 控えめにノックの音があり、おやと思うとすぐにそのノックの主は返事も待たずノブに手をかけたらしく、鍵がかかっているはずのノブはがちゃりと回り、ドアが開いた。
 合田が外出姿でバイオリン片手なのを認めると、合鍵を手にした男は悠然と笑みを浮かべ、「この寒空にバイオリン。クリスマスの彩りと捉えてみるも一興。俺もお供していいか」と言った。
「今まで仕事やったんか」
 合田が男を凝視して言うと、彼はなんとも透明感のある微笑でもって「公務員にクリスマスイブの休暇など洒落たものがあるか」と爽快に笑い飛ばした。
「あんたに聴かせる音楽などない」
 そう言って合田がバイオリンを小脇に隠すように抱え込むと、やはりゆったりと笑いながら男は「それはなぜ。ぜひとも拝聴したいものだが。なんとかご機嫌は直らないかね」と長閑に言う。
 それが、2 か月前俺のベッドサイドで目を真っ赤に泣き腫らして告白した男の言うセリフか!その後一向に姿を見せず、ただただ俺を戸惑わせ、思考させ、一定の答えまで導いた透明人間のセリフか!
 合田には無性に腹立たしい加納のどこまでも澄んだ微笑。だが決してお高く留まっていない人懐こさをたたえた、自分にだけ向けられる親愛の微笑。
「あんたは耳が肥えてる。やれ音をはずしたの、やれ拍子がずれたの、うるさい」
 合田がちっと舌打ちして加納の微笑から目を逸らしながらそう断ると、加納は懲りずに「どうして俺が難癖をつけると決め付ける、わからんな」ととぼけてみせた。
「子どもの頃から本物のクラシックになじんで育ったお坊ちゃまには耳障りでしかない」
 合田はそう応えながら、これではまるで子どもの喧嘩だ、何もかも見透かしている大人相手に必死で取りつくろうガキそのものだ、とますます腹立たしい。おそらく加納はもう、自分の出した結論を見抜いているのだろう。男の愛情を受け止める決心こそようやくついたものの、自分が愛していけるかどうかは覚束ないあやふやさまで。この部屋を訪れる道すがら、ノックする瞬間、鍵を差し込む間際、貴様に迷いはなかったのかと合田は胸の内で問うた。
「そこの公園だろう。幸い俺もまだこの通りの格好だ」
 鷹揚に両腕を広げてコートにマフラーという自分の出で立ちを見せ付ける加納にため息がでた。
 公園への道を歩きながら「やめてくれ言うてもやめへんぞ」と合田が悪あがきを見せても、加納はくすりとおかしそうに笑って「きっとお前の奏でる旋律は最高だ。俺にとっては。それでいい」と澄ましていた。
 合田は道々音符を頭に大量に浮かべ、整理し、ひとつの曲を組み立てた。何しろ子どもの頃から親しんでいるから曲は身に浸み込んでいるのだが、ちゃんと弾いたことがない、ましてたったひとりといえど聴衆がいる前で。
「笑いたければ笑え。だが貴様が言い出した以上、途中退場は認めん」
 加納の肩をぐっと押し込んでベンチに座らせると、合田はケースから取り出したバイオリンを軽く音鳴らししてから目を閉じ、一度すうと深く息を吸い込んで迷いを断ち切ると『諸人来たりて』を披露しはじめた。
 公園などという公共の場で、夜にバイオリンを弾けば通行人の目は引く。怪訝な視線を投げる者、雑音とばかり耳を塞ぐように早足になる者、ふと足を止めていっとき耳を傾けてゆく者。そんな好奇や不快の眼差しは慣れっこだったが、今夜ははっきりとひとりの聴衆がいて、彼だけのために合田はバイオリンを奏でた。単純ながら神聖な旋律が凍てついた冬の空気の中を舞った。
 どうにか弾き終えると、たまらなくおかしさがこみ上げて合田は腹を抱えて大笑いした。世間が浮かれるクリスマスイブの夜に、よりによって三十半ばの男相手にこんな曲を懸命に弾く自分も、それを熱心に聴き入って何やら恍惚とした表情の男も、要は変態なんだろうと思えた。
 加納はオーケストラの大合奏を聴き終えたかのように立ち上がり、ゆったりと拍手を贈りながら「素晴らしい」と合田の肩を軽く抱き寄せた。そして耳を寄せ「ありがとう」と小さく言った後「元気になって良かった」と声を震わせた。

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